高一・一学期56
一ヶ月前、古川こずえに連れて行ってもらったカラオケボックスが、確か品山の方だった。
一度通った道は忘れない。乙彦はまだ午後になりきらない日の光を背負い、自転車をこぎ続けた。
──立村と、夏休みが始まる前に会うんだ。
制服は家に脱ぎ捨ててきた。いつものジーンズと白いTシャツのみ。袖があるのも邪魔で、方までロールアップした。しかし自転車を漕ぐうちに自然と垂れ下がってくる。汗がだらだら流れるが、それを拭き取るのもうっとおしい。
一度思い立ったら止められないのが自分の性格だ。青大附高に入学してからもそれは一切変わっていない。ただ、どうしても少し考えねばならない一呼吸は必要だと、思うようにはなった。つっ走る前にはタイヤがパンクしていないかを調べるとか、前もって電話をするとか。
──さっきはいなかったが、そろそろ着いているころか。
家で焼きそばを一気食いした後、立村宅に電話を入れた。まだ戻っていなかったようで、コール音だけが耳元に響いた。もちろんその後でどこかに出かけたのかもしれない。古川たちが主催したという一学期打ち上げに参加したのかもしれない。
ならば、本人が在宅かどうか確認してから走ればいい。それを待っていられないのがやはり今までの乙彦だった。
──待っていたら日が暮れる。俺も夜は夜でやりたいことがある。
まずは品山まで向かい、それから考えよう。
先日のカラオケボックスまで辿り付いた。ここいらで一息つく。
実は試験が終わってから、家族で……半ば乙彦が説得した形となるが……五時間くらいたっぷり歌いまくったので迷うことはなかった。最初は渋っていた癖に結局一番盛り上がっていたのが父と兄だ。とにかく、歌は家族の共通語だということがよくわかった。
そんなのはどうでもいいことだが、そこで先日席を同じくした立村は、果たして何を思っているのだろう。まずはもう一度電話をかけてみることにした。公衆電話を路沿いに探すとピンク色のチラシが巻きつくように張り付いているボックスを見つけた。外が見えない状態だ。自転車を脇につけて、ボックスに入った。入って後悔した。こりゃ蒸し器だ。
半分酸欠状態になるのを覚悟して、テレホンカードを差し込んだ。ポケットに押し込んだ生徒手帳を取り出し、立村の電話番号を探す。
すぐに繋がった。今度は直接、奴が出た。
──はい。
「立村か? 関崎だ」
電話の主はしばらく黙ったが、かすれた声で返してきた。
──関崎か。
「そうだ」
──何か用か。
「お前と直接話がしたい」
──いきなり言われても。
「いや、お前の家の側まで来ている。この前のカラオケボックスの近くまで自転車で来た」
また黙った。どうも立村という奴は、困ると黙る。
「だから、これからお前の家に行きたい。住所録は持っている」
一応、青潟市内の地域地図は頭に入っている。たぶん勘で行けるとは思うのだが。
──来るのは構わないが。
「わかった。じゃあ今から行く」
──ただ、行き方本当にわかるのか?
感情を平べったくした声。電話の細かな雑音に絡まって、さらに読み取れない声。たぶんそれが立村の思いやりだとはわかっているつもりである。
「品山駅まで行くが、そこまで迎えに来てもらえるとありがたい」
──わかった。
乙彦は電話を切った。押しかけるようなものなのだが、野郎同士遊びに行く場合、大抵このパターンじゃないだろうか。立村だからこそ、わざと気を遣ってやったところもあるのだが、やはり男子の定石にたがわず奴もあっさりOKしてくれた。
てっきり電話口でがしゃんと切られるかと覚悟をしていたのだが。
ボックスから出てきて、両手を真上にあげ、ゆっくりと深呼吸をした。しゃべっている時は意識しなかったが、あと五分くらい篭っていたら完全にぶっ倒れていただろう。自然の熱さが心地よいなんて、狂っている。
しばらく車道を走ると、青いプレートで「品山駅」への道案内が現れた。それに沿って漕いでいくと今度は舗装されていない路に出る。めげずに漕いでいくとようやく線路が見え始めた。沿って走れば品山駅はすぐそこだった。屋根のある小さな駅だった。
まだ立村の姿はなかった。
──そりゃそうだな。電話をかけたばかりだ。
どのくらい駅から立村の自宅が離れているのかはわからないが、そうそうすぐに来られる距離ではないだろう。実に今日は漕いだ。太ももが張ってきた。
しかし、立村はこの距離を毎日自転車で通っているというわけだ。
それだけで十分尊敬に値すると思う。
乙彦はまず、駅の待合室で水のみ場を探した。まさか缶ジュースを買うなんて不経済なことできやしない。猛烈に喉が渇くのは、路すがら土ぼこりを吸い込んだからか。しかしない。
──水道の水でもいいか。
売店や自動販売機に並ぶ色とりどりのジュースを横目に乙彦は、男子トイレに向かおうとした。後ろの方で、自動販売機から缶の落ちる音がした。唾を飲み込もうとすると呼びかけられた。
「関崎」
立村が、冷えたコーラの瓶を片手に立っていた。
この炎天下の中、半そでのデニムシャツの上に水色のパーカーを羽織っている。
「これ」
差し出されたコーラを受け取った。瓶の回りにはたっぷり水滴がくっついている。それだけで手がひんやりした。快感だ。
「ありがとう」
立村は何も言わず、待合室の椅子に腰掛けた。乙彦もその隣に座り、コーラ瓶の口をひねった。半分飲み乾し、立村に瓶の口を向けた。
「お前も飲めよ」
「いい、いらない」
俯き首を振った。
「人が口をつけたもの、食べたり飲んだりするの、苦手なんだ」
ずいぶん潔癖症なところのある男である。めずらしい。
「いや、別に、関崎が汚いとかそういうわけじゃない」
「だいたい想像はつく。わかった。全部飲ませてもらう」
それだけ喉は渇いていた。すべて飲み干してもまだまだ腹には余裕があった。
駅にはまだ列車が到着しないようで、人もまばらだった。
「この時間はあまり人がいないのか」
「この駅からは、あまり乗らない」
立村は頷き答えた。
「急行の停まる本品山駅まで自転車で行ってそこから乗るパターンなんだ」
つまり品山駅は鈍行しか停まらない駅ということである。それならしかたない。
しばらくコーラの炭酸が腹でふくれるのを待ち、黙っていた。立村は今のところ乙彦に対して「なんで来たんだ?」という問いを発していない。むしろそう聞かれる方が自然だと思っていた乙彦は正直、戸惑う。聞きたいなら聞けばいい。こちらも目的があってここまで自転車を漕いできたわけなのだから。
「関崎」
「なんだ」
一分くらい間が空いたろうか。立村が正面をじっと見据え、声を発した。
「聞いていいか」
「ああ」
「関崎はこの前の、あの女子と、付き合っているのか」
──あの女子って、おい、静内のことか?
立村の発した思いがけない言葉に、乙彦はコーラ瓶を落っことした。割れなかった。あわてて拾った。立村がそれを受け取りそのまま抱いた。
「あの女子というのは、誰のことだ」
「視聴覚教室で、隣にいた、B組の」
名前を出さなかった。諦めるしかないだろう。静内菜種のことだろう。外見については何も言わない。
「付き合ってはいない。いないが、友だちだ」
「本当に、それだけか」
立村はまた正面に目を移し、小声で問うた。なんで目を見ようとしないのだろう。見られてもやましいことはないのだが。特に静内に対しては。
「ない。あいつは面白い、いい奴だ」
「あいつ、か」
また立村は一人ごちた。
つい、静内に対しては男子と同じ人称で呼んでしまうくせがある。野郎感覚で捉えてしまいたくなる。その口癖が出てしまう。
「別に青大附属では珍しくないだろう、そういう友だち関係は」
「そうだな、確かに」
立村が俯き加減に、そしてゆっくり尋ねた。
「なら、これから先、付き合うつもりはあるのか」
「わからん」
これも正直に乙彦は答えた。
「なぜ、そう思う?」
「先のことはわからないからだ」
静内がどう思うかは別として、これから先付き合いの形が変化することは、可能性としてかなり高いはずだ。今のところ、静内が乙彦のことを「親友」と断言してくれている以上、すぐその関係が変わるとは思えない。
「なら、杉本とこれから先……」
立村が言いかけた。すぐに断ち切らせた。
「ない、去年の二月に話したことは、変わっていない」
食い下がられた。やはり立村は乙彦の眼を見ようとしない。霧島と同じだ。
「先のことはわからないだろう?」
「わからないが、これは俺の確信だ」
こっちを見ようとしない立村の横顔を、乙彦は見据えた。夏の高校生男子に似合わない色の白さが蝋人形のようだった。表情は変わらなかった。
「そうか。杉本に対しては、変わらないのか」
「それは去年話したはずだ」
本来この話題も、立村の家で持ち出すつもりではいた。静内の前で「この人は関係ない」とかいうわけのわからないことを言われた以上、きちんとその意味を問いただしたかったからだった。しかし、いきなり切り出された以上は、この場が公共スペースであろうとも関係ない。話を受け止めるべきだと思う。なぜ立村が、ここでいきなり話を持ち出そうとしたのかも理解しかねるところがあるのだが、それを掘り下げる余裕はない。
「俺が関崎にこんなことを頼むのは、間違っているかもしれない。だが、頼む」
コーラ瓶を床に置くと立村は周囲を見渡し、小声で乙彦へ向き直った。今度はきちんと目を見た。
「これから先、お前が誰か他の女子と付き合った場合、できる範囲でいい、杉本の前に見せないような付き合いにしてくれないか」
「前に見せられないとはどういうことだ?」
言われた意味が理解できない。問い返すと立村はまた、左右を見た。乙彦の見る限り、側には老夫婦が二組ほど、次の鈍行列車を待っているだけのようだったが。
「杉本は、来年の三月で青大附属から出て行く。予定通り、公立高校試験を受験して、他の学校に進学するはずだ。もう青大附属には戻ってこない。でもせめて、公立の試験が終わるまでの間、杉本をこれ以上不安にさせたくない」
「どこの高校を受けるんだ」
「青潟東。本条先輩の進学先だ」
──やはり、公立のトップ高校を受けるのか。
しかし、公立の試験というと三月初旬だったはずだ。乙彦は念のために確認した。
「立村、つまり俺に来年の三月まで、静内と付き合うなと言いたいのか」
頷いた立村を、次の瞬間乙彦は思いっきりはたいた。本気ではないがもちろん頭のてっぺんだ。立ち上がり外を指差した。
「ちょっと来い、外で話すぞ」
「いや、外はまずい」
「こんな薄暗いところで話していたら、いつまでたっても埒が明かないだろうが!」
ひなびた駅の待合室で、しけった恋愛沙汰の話なんて聞きたくもない。
うじうじした話をするよりは、きちんとお天道様の元、言いたいことをきちんと伝える方が何倍もすっきりする。人の目も見ないで、わけのわからないことをぐじぐじ言うよりも。霧島と神狐を相手に怒鳴り散らしたあの時間の方がずっとさっぱりしていたはずだ。
「話をするだけだ。お前がなんでいきなり、静内に対してわけのわからないことを言ったのか、その理由を論理だてて聞きたいだけだ」
見境なくかっとなったわけではない。もし本気で血が昇っていたら、たぶんその場で張り倒していただろう。一年前までの乙彦ならたぶんそうしていた。さっきの霧島に対してもおそらく、そうしていただろう。
立村にせよ、霧島にせよ、怒鳴るだけでは通じ合えない。
青大附属の生徒たちすべてに通じるものがある。
それを乙彦は、あえて正攻法でぶち壊そうとしてしまう。
少しずつ作法はわきまえてきたとはいえ、やはり自分は水鳥中学出身の関崎乙彦なのだ。変わっていない。
腕を捕まえ、乙彦は立村を駅の外へひっぱり出した。
いやいやながらも、それでも無理じいではなかった。
しかたなく連行されたという風に外へ出たとたん、くいと立村の足が止まった。
「どうしたんだよ」
一気に全身がトーストされるような熱と共に、重たく動かない立村の腕。
もう一度ひっぱろうとしたが、やはり動かなかった。
自転車置き場に向けられたその視線の先。
見えたのは、タンクトップにずるずるのボンタンをはいている男子高校生の集団だった。中にはきちんと細い腰の部分でベルトを締めている男子もいるのだが、どうしても体格のよい奴ほどボンタンも形が決まっているために、目だってしまう。決して珍しいものではない。水鳥中学でもたまに総田とそのお仲間一段がこんな格好をしていた。
「立村?」
問いかけに答えなかった。立村は一歩、駅の中へもぐりこもうとし、また足を止めた。別に目の前のボンタン短足集団がガンをつけにきそうな気配はない。ただ駅の片隅でのんべんたらりと缶ジュースを飲んでいるだけだ。煙草を吸っているわけでも、シンナー袋に口をつけているわけでもない。
「どうした」
乙彦は立村の側に戻り、耳元に問い掛けた。
「なんでもない」
「なんでもなかったら、外に出られないなんてことはないだろう。あいつらと何か、因縁でもあるのか」
「……自転車はあそこに置いたのか」
全く関係のない答えを立村はした。
「ああ、鍵もかけてある」
「家に、まず案内する。自転車で行こう」
完全に蛇ににらまれた鼠状態といえば、一番正しいのか。
──こいつなぜ、いきなりこんなに、気弱になったんだ?
もともと立村は強気で怒鳴ったりするタイプではない。
唯一、雅弘相手にストレートパンチを食らわせたことくらいだろう。巷の噂でも、腕っ節の部分で立村の武勇伝を聞くことはない。ただ、藤沖や古川から、小学校時代にやらかした派手なけんかの話を聞くに留まる。おそらく、やられるほうだったのだろう。
だが、それでもすでに三年以上経っているはずだ。
顔を見上げると血の気は完全に退いている。
硬直したその身体は何を覚えているのだろうか。
──やはり、あの噂は本当だったんだな。
乙彦は確信した。イエスかノーか、そのあたりは不明だが、立村が追い詰められるだけ追い詰められ、窮鼠猫を噛む状態でしでかした大事件の噂、あれはきっと、本当だ。その後自分の罪におののいて、今だ自分を罰しつづけているその結果が、今の青ざめた立村の姿に相違ない。
話を聞くのは、無理に外ではなくても、家の中でもできる。
まず乙彦ができることは何なのか。
「立村、自転車、取りに行くか」
乙彦は腕を立村の肩に回し、強く背中を押した。はっきり言い放った。木の人形が倒れそうになるかのように、ぴこぴこと歩き出した立村に、乙彦はさらに続けた。
「なにかあったら、俺が加勢する。堂々と取りに行け」
ガンつける必要はない。乙彦の見る限り、いかにも不良っぽい格好の連中は決して立村を叩きのめそうとしててぐすね引いて待っているわけではなさそうだった。ただ、たまたま、そこにいるだけ。よくよく見ると駅の側には小さな交番も建っている。怖がる必要なんてない。ただ、立村ひとりが、過去の罪に自分を閉じ込めて震えているだけなのだ。
第三者の目から見ると、それがくっきりと読み取れる。
一年前の自分ならば、決して理解できなかったものが浮かび上がる。
ボンタン集団は、立村の肩を強引に抱いた乙彦に一切邪魔をしようとはしなかった。ちらとこちらを見てひそひそ話をしてはいたが、ただそれだけだった。ただ直接触れる立村の背中の震えは、今だ止まっていなかった。自転車のハンドルを握り締めた時も、乙彦の遠目から見ても、まだ引きつった表情は元に戻っていなかった。震えたまま全速力、先頭を切って走る立村を、乙彦はそのまま自転車で追いかけた。猛スピードで走り続けないと、おびえきった立村を捉えることはきっとできなさそうだった。
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