10  11 12 13 14 15 16 17

◆サービストラック      

関崎副会長のその後 関崎副会長と立村評議委員長に50の質問 立村評議委員長のエピローグ

あとで読む 

HOME





BACK★ 葉牡丹の花 サービストラック 3 ★NEXT
水鳥中学生徒会シリーズ


  作者:舞夜じょんぬ

 

 だいたい、いつもは五時間目の半ば過ぎ。二十分くらい経った頃に梨南ちゃんが声をかけてくる。
「はるみ、今日、がまんできる? お手洗い、行きたくない? 本当に、大丈夫?」
 昼休みに行ったからいいわ、と本当だったら答えたいけれど、なんかそれもだめなような気がするし、言われるとしたくなってきてしまう。梨南ちゃんの声を聞いていると、なんとなく。だから私は頷いた。
「うん、行きたくなってきたんだけど、うん」
 即座に梨南ちゃんは手を挙げた。
「どうしたの、杉本さん」
「先生、佐賀さんがお手洗いに行きたいそうです」
 私の腕をひっぱるようにして立ち上がった。視線集中してくる。健吾が顔をしかめているのが見えた。ぴくっとしてすぐに眼を逸らした。見られたくない。でも、行かないとあとで泣いてしまいそうな気がする。
 クラスのみんなからひそひそ笑いと、いやらしいからかい声を耳にしながら、うつむいて教室を出ていく。
 六年に上がってから、それが私の習慣だった。 五年の冬、同じ五時間目の途中で大失敗してから、そういうくせがついてしまった。
 私だけじゃなくて、梨南ちゃんもいつも一緒に付いてきてくれた。
「私も付いていきます。佐賀さんひとりだけではかわいそうです」
 菊乃先生が黙って頷いてくれたので、毎日私は梨南ちゃんと教室を出た。
「はるみ、トイレに行きたいんだったら、堂々と言いなさい。生理現象というものなのだから、恥ずかしいものじゃないのだから」
 梨南ちゃんに叱られながら、私は小走りに廊下を歩いた。

 二階建ての校舎で、私たち六年四組が使うトイレは、ちょうど裏の林と繋がっていた。コンクリートの床に五室ずつ向かい合って汲み取り式のトイレが並んでいた。学校内で一番広くてたくさん個室がある。している時の音がそのまま聞こえてしまう。灯りも蛍光灯じゃなくて丸い電球をぽつ、ぽつとぶら下げている。古いハエ取り紙も黄色くぶら下がっている。天井が高いので落ちてくることはなかった。
 晴れている日はそんなに暗くないけれど、雨の日はおしゃべりする声が聞こえなくなるほど上がばたつく。トイレの突き当たりは裏の林に直接出ることができる。肩くらいまでもしゃもしゃした雑草が茂っていて、ところどころにオレンジ色の薄みたいな花が咲き乱れていたりした。そこから出てはいけません、と決まりになっていた。決まりを守るのは当たり前のことだから、私は一度も出入りしたことがなかった。
 半そでと長そでを脱いだり着たりする、六月の終りだった。

「少しだけ外に出ているから。はるみもここで、している音きかれるのいやでしょう」
 梨南ちゃんが言い残して裏の林に繋がる戸を開けて出て行った。いつものことだった。六年になってからなんとなくだけど、トイレ中に響く音が恥ずかしくなって、そのことを梨南ちゃんに話したりしていた。水洗じゃなくて、汲み取り式だった。授業中だから、当然トイレの中には梨南ちゃんだけしかいない。女子同士、そんなこと気にしないと言えばいいのだろうけれど、梨南ちゃんはいやみたいだった。気を遣ってくれたんだろうと、私は思っていた。
「ありがとう、梨南ちゃん」
 急いで個室に入り、すませることをすませて、ほっと一息ついた。
 トイレ内には真四角の窓が頭の上あたりについていた。背伸びすれば手も届くし、ちょこっと外も覗くことができる。見えるものといえばほとんど雑草ばっかりだけど、たまに青空と風の音が響き渡って、なんとなくそのまま外に出たくなってしまう。梨南ちゃんが外に出て空気を吹いたいのもわかるような気がした。私も、ちょっとだけ、道草したかった。
 ──どうせ、菊乃先生、ちょっとくらい遅れても怒らないし。
 梨南ちゃんは担任の菊乃先生が大嫌いみたいだ。お父さんとお母さんが菊乃先生のことを軽蔑しているらしいと聞いていたけど、そのあたりは私もよくわからない。菊乃先生は私たちにも、もちろん梨南ちゃんにもやさしかった。トイレに行きたい、と言っても全然怒らないし、さっきも出かけに、
「佐賀さん、大丈夫、わかってるからね!」
 と一声かけてくれた。何を分かっているのかわかんない。
 本当だったら、梨南ちゃんに「お手洗う終わったから教室に戻ろうね」と言うんだろうけど、それをいえない理由があった。誰にもいえない、内緒のことだった。
  
 私はもう少しつま先だって、窓の向こうを覗き込んだ。目だけ出した。るようにした。
 真っ正面にはぐすべりとか、黒つめくさとか、露草とか、たくさん緑色の中に混じってちらついていた。ほぼすらりとした青草の群れだった。一番揺れているところを探した。たぶん、その中に梨南ちゃんがいるはずだ。目を凝らし、思わず瞬きした。私の入っている個室から三メートルくらい離れている。窓のサッシが銀色に光っていた。気付かれないように目だけ出した。
 ──今日も、してるんだ。
 ポニーテールに結い上げた梨南ちゃんの髪は遠目でも目立った。すぐに見つかった。少しの間しゃがみこんでいたみたいだった。かがんだまま立ち上がり、腰を曲げて何秒かそのままのポーズでいた。もう一度背をすっと伸ばした。青い草を片手で思いっきり千切って土の上にふりかけた。きょろきょろして誰もいないのを確認している。スカートをもう一度、前、後ろと整えた。私のいる個室の前を急いで通り過ぎた。
 ──したいならトイレでしちゃえばいいのに。
 言いたいけど、言わなかった。たぶん、私が知っていると気付いたら、梨南ちゃんは怒るし、もうトイレについてきてくれなくなるだろう。私にとって、おトイレにひとりで行くことは、周りの視線でおしっこが洩れてしまいそうなくらい、緊張してしまうことだった。
「はるみ、ごめんなさい。外の空気を吸ってきたの。外のお花を眺めていたのよ。セイタカアワダチソウが生えてたのよ。咽によくない花は取らなくちゃいけないと思って見ていたのよ」
 言い訳なんて聞いていないのに、梨南ちゃんはセーラーのブラウスと水色のスカートをきちんと調えていた。指のところに緑色の液がついていた。
「花を摘んでいたら、手が汚れたの。洗うまで待ってて」
 ──お手洗いの後は手を洗うのよね。
 私も一緒に並んで、蛇口をひねった。梨南ちゃんは手に石鹸を丁寧につけていた。ふわふわと匂うのは、水石鹸を三回も四回も手に取ったからかもしれなかった。

「やーい、佐賀ってなんで小便がまんできねえんだよ! ったく、近いっつうの」
 男子たちに笑われる。けど言えない。女子たちもかばってくれるし、梨南ちゃんがまた私の代わりに言い返してくれた。私はうつむいて、言われるがままになっている。 けど男子たちも、口では馬鹿にするけど、こっそりと私のことを気、遣ってくれることを知っている。知らないのは梨南ちゃんだけだった。 

 五年の冬、五時間目の二十分経った頃に大泣きしてしまった。梨南ちゃんが全部片付けてくれた。男子がからかうのを一発で止めてくれたのも梨南ちゃんだった。でも本当は健吾がこっそり、私の悪口言った男子を殴っていたらしいということを、聞いている。
 梨南ちゃんはそれも知らない。知らないふりしているはずだった。
「いいかげんにしなさい。人間の排泄というものは生理現象なのだからしかたないことよ」
 難しいことを言う。梨南ちゃんは男子たちによくわからない言葉を使って、棒読みで言い返すことが多い。言っている意味はなんとなくわかるけれども、男子たちがそのまま素直に言うこと聞くわけなかった。男子たちがこっそり、私にだけは謝ってくれていることを知っているから、黙っていた。
「うるせえ馬鹿女。杉本、お前こそなんでくっついて行くんだ。さてはお前も、一緒に小便したかったんじゃねえのかよ」
「ばかばかしい、失礼なことを言うものではないわ。トイレに行くことが恥ずかしいことだったら、男子たちはトイレに行かなくてもいいってことなのかしら。尿意というものを耐えられる生物なのかしら。人間じゃないわ。宇宙人だわ」
 また同じややこやしいことを言い返す梨南ちゃん。
「ふつう、毎日授業中にさ、ふたりで手挙げて、小便したいなんていう奴、いねえよなあ」
「薬飲んでるのかよ、小便出る薬」
「あ、それともなにか、あれなのかよ。トマトケチャップてやつ」
 男子たちは、みな「生理」のことに興味しんしんみたいだった。女子も、まだなっていない子とかがやたらと「生理ってさあ」と友だちに話したりしているのを聞く。梨南ちゃんはそういう男子も、女子もいやみたいで、いつも言っている。
「そういう生理現象を物笑いの種にするなんて人間として最低だから聞きたくないわ」
 と。
 よくわからないけど、梨南ちゃんはそういうことについて詳しいはずだった。いつも百科事典をめくっていると話しているし、物知りだから。けど、一度も私には話してくれなかった。
 ──梨南ちゃん、生理、きたのかな。
 修学旅行の時も、女子がみんなで「ねえ、あれ、来た?」と盛り上がっている中、梨南ちゃんだけひとりつんと済ましていた。そういう話自体がくだらないのだって言っていた。
 ──もし来てたら、タンポンとナプキン、どっち使ってるのかな。
 聞いてみたいけど、聞けないことばかりだった。梨南ちゃんに対しては。
「とにかく、はるみにいやらしいことを言うのはやめなさい。あんたたちもトイレに行きたいのだったら、堂々と手を挙げていけばいいのよ。そういうことができないのだから、男子は馬鹿なのよ」
 梨南ちゃんと男子との対決はいつものこと。私にエッチなことを言う男子もいるけれど、本当のところを言うとみな、親切で優しい子ばっかりだなって思う。陰でこっそりと、
「佐賀、悪かった。お前の小便のことでいじめてるわけじゃねえぞ。杉本つぶすだけだからな」
 って言ってくれる。梨南ちゃんには内緒だけど、うんっと頷いておく。次の日にまた忘れたように嫌がらせされると、またしょんぼりするしかないんだけど。
「黙れ、てめえ、いいかげんにしろ!」
 いきなり下にどすんと、落ちるような声が聞こえた。誰かすぐにわかった。梨南ちゃんが力いっぱい目を見開き、にらみ付けていた。
 ──健吾がいたんだ。
 胸の皮みたいなところがきゅっきゅとひっぱられて、ぴくぴくしてしまう。
 トイレに行くくせ、なくさなくちゃって、気にしてること、聞かれたくないのに。
「新井林、あんたに言われる筋合いはないわ」
「何様のつもりなんだ、杉本。小便に行きたいんだったら、お前ひとりで行けってんだ。なあにが、『堂々と手を挙げていけばいい』だと? そのままお前に突っ返してやる。最低だっつうのはお前のことだ!」
 ──健吾、怒ってる。
 うつむいている私に、近づいてきて、ぐいっと覗き込んだ。ちっちゃい頃から健吾って、私の顔を覗き込む時にとん、と机を叩くくせがある。
「佐賀、聞けよ」
 耳もとで人に聞かれないようにささやかれた。どうしよう。今度はほっぺたがぴくぴくしてしまう。
「小便に行きたいんだったら、ひとりで手を挙げていけ。あの女なんかに利用されるんじゃねえ」
 ──利用?
 私が答える間もなく、健吾は背を向けて、梨南ちゃんをにらみつけて教室を出て行った。
 クラスの中で一番背の高い健吾。私と同じくらいの背丈の頃から知っている。
 「男子は馬鹿ばっかりだから、しゃべったらだめよ」と梨南ちゃんに言われているから、おおっぴらには話さないけれども、ふたりでたまに顔を合わせた時にはよく叱られる。
「あの女とはいいかげん、切れろ! 馬鹿野郎!」 
 そればっかりだった。ふたりっきりになる時は少なくなったけど、ふたりにしか伝わらない言葉を話す時が、六年になってから急に増えた。健吾が今のように、耳もとにささやいてくれる、あんな感じで。

 なんとなく、聞いてはいけないと思っていた。
 最初は梨南ちゃんも私が入ったと同時に別の個室で用を済ませていた。音ですぐにわかった。きっとおしっこしたかったのをがまんしていたんだな、と思ったから、、
「梨南ちゃんも、したいんでしょ」
 と何気なく言った。ものすごく梨南ちゃんが怒った。
「私、そんなんじゃない! 失礼なこと言わないで!」
 真っ赤になって怒っていたけど、だって教室に戻ってから、ずっと、身動き一つしないで固まっていた。黒板の上にぶら下がっている振り子時計をじいっと見つめて、ノートも取らないでいた。頭のいい、青大附中を一緒に受ける予定の梨南ちゃんが、真面目に勉強しないでいるなんて、よっぽどのことがないとありえないことだった。周りの人は誰も気付かなかったようだけど。
 ──梨南ちゃん、がまんできるのかな。教室でやっちゃったら、どうしよう……
 私が失敗した時のことと重ね合わせて、気が気でなかった。その日はずっと時計の針ばかり眺めているうちに二十分が経ち、梨南ちゃんは帰りの会が終わると私と口を利かず急いで教室を出ていた。五分くらいしてすぐに戻ってきた。
 そう、あれからだ。
 私がトイレの中でしている間、梨南ちゃんが外に出て行くようになったのは。
 さすがに台風の時はしなかったけど、小雨程度だったらやっぱり外でしゃがみこんでいた。
 叢の中にしゃがみこんで済ませているみたいだった。
 内緒にしとかなくちゃいけないと思っていた。梨南ちゃんには何か理由があるんだろうから。

 梨南ちゃんが風邪を引いて学校を休んだ日。
 私は一度も、授業中、トイレに行きたくならなかった。
 もちろん休み時間のたびに済ませておいたし、いつもといえばいつも通りなのだけど。
 菊乃先生がにやにやして、私を放課後呼び寄せた。
「はーるーみちゃん! 今日はがんばったねえ」
 ほっぺたをちょんとつついてくれた。耳もとでささやかれた。健吾とおんなじだった。こう言う風に言う人が、ほんと、六年になってから増えた。教室では「佐賀さん」と苗字で呼ぶけど、休み時間や梨南ちゃんのいない時は、いつも「はるみちゃん」と呼んでくれる。梨南ちゃんが菊乃先生のことを嫌っているのはそういうとこにもあるのかもしれない。
 菊乃先生って可愛い花模様のハンカチとか、ピンク色の筆箱とか、私の大好きな文房具をたくさん持っている。梨南ちゃんが「あんな下品な先生の持つものに憧れるなんて非常識だ」とか言っているけど、私は先生のようなものを使いたいなって思う。
 
「お手洗い、授業中行かなかったよね。偉い偉い」
「あの、でも今日は運が良かったし。それに梨南ちゃんがいなかったから」
「ちーがーう! 杉本さんがいなかったから、でしょ!」
 口の中に入れるとはじけるソーダ味の粉、みたいなものがぴちぴち言った。
「杉本さんにもし、『トイレ行きたくないの?』って聞かれたら、正直に答えてみたら? 行きたくないんだったら、行きたくないって言えばいいのよ。ね」
 先生には、来年青大附中を受験することを伝えてあった。だから、試験中同じくおトイレ行きたくなったら困ると思って、こっそり相談していた。でも、普段だったらしたくなっちゃうからどうしようもなくて、いつも梨南ちゃんと一緒に行っていたけど。
 菊乃先生、たまにわかんないことを言う。

 次の日の五時間目、ちょうど二十分くらい経つか経たないかくらいの時だった。
「はるみ、今日は大丈夫なの?」
 と聞かれた。言われるとやっぱり、おなかの中がぱんぱんになってきてしまった。梨南ちゃんの顔を見ながらだと、なんとなくひっぱられてしまった。けど、今日もちゃんと、昼休みに行ってきているから、本当は全然感じないはずだった。
  梨南ちゃんがずっと私を見ている。全然笑わなくて男子からは「気持ち悪い」といわれている目でだった。
 ──お手洗い行っていいですか、って言おうかな。
 梨南ちゃんが手を挙げかけた。
 ──けど、行きたくない。さっきしてきたばかりだもん。
 菊乃先生の言葉を思い出して、とくんときた。首を振って私は梨南ちゃんに答えた。
「ううん、いい。私、まだ大丈夫。手、挙げなくても大丈夫よ」
「本当なの。はるみ、あんたはいつもがまんできないって言ってたでしょう」
 静かだったけど、真面目。梨南ちゃんはアンティークドールみたいに可愛いのに、どうしてこういうしゃべり方するんだろう。損しているとずっと思っていた。
「教室でしたら大変なのに、言った方がいいと思う。五年の時みたいなことになったら、どうするの」
「ううん、昨日、一度も行かなくて平気だったのよ。それにさっき、お手洗い行ってきたし」
「それでもいつもは行っているでしょう」
「今日は、したくないの」
 私も小さい声で言い返した。
 後ろの方で、また男子たちが、
「おいおい、また佐賀が小便したいって手を挙げるぜ」
「けど昨日は挙げなかっただろ」
 とささやく声がする。
「生理現象なのよ。がまんしていたら尿毒症になるって百科事典に書いてあるのよ。六年にもなってまたしたら大変なことになるわよ」
 繰り返す梨南ちゃん。いままで素直に、手を挙げていたからなおさらなのかもしれないけど。梨南ちゃんのにらみつけるようなまなざしにおなかがぴくぴくする。
 もう一回、はっきり答えた。
「いいの、今は行かないから。梨南ちゃん、行きたいなら自分で手を挙げればいいわ」

 梨南ちゃんは黙った。ノートを広げて、教科書に目を落とした。三角定規みたいな影が、窓際から机の上に刺さっていた。梨南ちゃんがその上に手を置いて、指先でなんどかなぞっていた。やがて、黒板の上にかかっている六角形の振り子時計にじっと目を留めた。それっきり、動かさずにいた。
 私も、もう早く終わってほしい、でないとだめだめって時にはよく振り子時計の針を見つめていた。ぴくっと動くのが遅すぎて、いつもどきどきしていた。下を向いてもだめ、上を向くと目立っちゃう、どうすればいいかわからなくて、結局あの時計を見つめて早く終わってくださいってお祈りする。
 ──けど、体動かしてないし。おなか押えてないし。
 私ががまんできなくなると、何度も椅子から腰を浮かせてしまう。それを見ていつも、梨南ちゃんが、
「はるみ、もうこれ以上いると、もらしてしまうから早く立ちなさいよ」
 と声をかけてくれた。私とは違うんだろうか。
 隣りで唇を結んだまま、じっと時計を見据えている梨南ちゃんの様子はなんかおかしかった。
 手を出したら怒られそうな気がしてならなかった。
 ──そういえば梨南ちゃん、休み時間にトイレ行ったとこ、見たことない。
 いつも、男子たちに掴まって言い合いしたり、先生たちに文句を言ったり、いつも忙しい梨南ちゃんの休み時間。大抵女子はお手洗いに集団で行ったりするんだけど、それでも梨南ちゃんはおしっこしたいというそぶりを一切みせない。朝から帰りまで、よっぽどのことがない限り、お手洗いには立たない。私もあまり見たことがない。そして今日も。
 ──梨南ちゃん一度もお手洗いに行っていないんだ……。
 梨南ちゃんは全く動かなかった。たまに教科書を眺めてはまた、時計の長い針を見つめていた。五時間目、まだ十五分しかたっていない。次の休み時間まであと、二十五分。私だったら、待てない。
 つま先を立てて、少しため息をついていた。隣りでも見ていてどきどきした。
 目は相変わらず時計盤の上を見据えている。
 ──あの時と、おんなじなんだ。私が「梨南ちゃんも、したいんでしょ」って言った時に、なんにもしないで帰って、あの後の十五分くらい。あの時とおんなじ顔してる。
 記憶のひとつひとつをゆっくり数えていった。もちろん梨南ちゃんに気付かれないように気を遣った。そんな余裕なんてなさそうだった。おなかが全然文句を言わなくなった。
 たぶん、今日も一日中お手洗いに行かなくてすみそうだった。
 
 菊乃先生が私と梨南ちゃんをちらちら見ている。大丈夫?って声をかけているみたいだけど、一切気付かないようすだった。梨南ちゃんはゆっくり、手を伸ばして教科書をめくり、黒板を見つめ、また時計の針に目を向けた。真剣な顔で、唇を一本に結んでいた。お手洗いに行きたいそぶりを見せないようにしているけれども、スカートが少し震えていた。
 ──ああ、やっぱり梨南ちゃんはそうなんだ。
 ──男子たちの前で、堂々とお手洗いに行きたいって、手を挙げられないんだ。
 ──私と一緒にくっついていないと、お手洗いにも、行けないんだ。
 たぶんこのまま私が知らん振りしていたら、梨南ちゃんは「おなかが痛い」とかなんとか理由をつけて教室を出るかもしれない。菊乃先生もいいって言ってくれるだろう。でも、もし、このままずっと教室に座って時計の針を見つめつづけていたとしたら。 
 ──私が身代わりにならないと、お手洗いにも行けないんだ。梨南ちゃんは。

 私は小さな声で梨南ちゃんにささやいた。できるだけ細い声で、身体に響かないように。
「梨南ちゃん、私、やっぱり、行きたくなっちゃった」
 大きい瞳がぎょろっとした。びっくりするくらいだった。すぐにいつもの梨南ちゃんに戻った。
「どうして早く言わないのよ。またもらしたらどうするの。待ってなさい。私、手を挙げるから」
 きびきびと梨南ちゃんは手を挙げた。私の答えなんて待っていなかった。
「先生、佐賀さんが、行きたいそうです」
「あら、杉本さんはついていかなくていいのよ」
「いいえ、心配なのでついていきます」
「赤ちゃんじゃないんだから」
 先生の言い方がちょっと怖かった。たまに梨南ちゃんへ、そういう言い方をする。
 梨南ちゃんはいつものように食い下がった。男子たちの、
「やっぱりなあ、もれそうなんだろ。なあにが『自然現象』なんだよ」
と、からかう声を無視していた。手を握り締めていた。
「佐賀さん、早く行かせてあげないとかわいそうです。だめだったら私が連れて行きます」
 言うやいなや、私の腕を取った。本当に私ががまんの限界だったら、そんなことしてほしくない。すごく急いでいた。
「しかたないわね」
 私にまた、菊乃先生は目配せしてくれた。今度こそ、わかったでしょ、という風に。
 勢いよく梨南ちゃんは教室を飛び出した。私の方がゆっくりと続いた。
 ──先生、わかった。そういうことなんだ。
 廊下をすごい勢いで大股に歩いていく梨南ちゃんを追いかけた。行かなくてもいい感じだった。梨南ちゃんはす早かった。あっという間にトイレにたどり着いた。入ろうとしない。
「あの、梨南ちゃん、私」
「先に入りなさいよ。する音きかれるのいやでしょう。私、外に出ているから」
 またいつものように同じ言い訳を繰り返した。梨南ちゃんは裏の林へ小走りに駆け出した。私の返事を聞かないで、戸もばしんと投げっぱなしにして。そっちの方がものすごい音だった。
 
 一度、梨南ちゃんに、
「梨南ちゃんもついでにトイレに入ったら」
と勧めた時、どうしてあんなに怒ってしまったのか、よくわかんなかった。
 そのくせ、「花を摘みに行きたい」「外の空気を吸いたい」「雨の感触を感じたい」とかいろいろ言い訳して、叢でしゃがみこむのが私には全くわけがわからなかった。
 本当にお手洗いに行きたいのだったら、自分で手を挙げて「先生、お手洗いに行かせてください」と言えばいい。それこそ梨南ちゃんの主義のはず。もちろん、男子たちに嫌われてる梨南ちゃんのことだから、後でさんざん「やーい、杉本もやっぱり、小便がまんできなかったんだなー!」くらいの悪口言われるだろうけれど、そのくらいおもらしするよりは平気だろう。私だって、がんばって慣れたんだもの。
 私にも、本当のことを知られたくなかったみたいだ。男子にも、女子にも、お手洗いに行きたくなったことを隠したかったみたいだった。恥ずかしいからなのかな。みんな、先生も、健吾も、梨南ちゃんがそういう目的だってこと、うすうす勘付いているみたいなのに。
 私がすでに、梨南ちゃんの本音に気付いているということをまだ言えない。
 もし、私が「梨南ちゃん、裏の林でどうしていつも、おしっこするの?」と聞いたら思いっきり怒られるだろう。お友だちとしての縁も切られちゃうだろう。それはされたくなかった。だって梨南ちゃんは頭もいい。可愛い。それに、困った時助けてくれる。 梨南ちゃんに嫌われたら、たぶん、私、相手にされなくなっちゃうだろう。

 私はすぐに、梨南ちゃんがどこにしゃがみこんだかを窓から観察した。
 いつもの場所だった。私が入っている個室から三メートルくらい離れていた場所だった。あまり遠くには行くことできなかったみたいだ。飛び込むように葉っぱに身を隠していた。
 お天気がよくて、外の緑色が黄色く光っていた。
 見るからに急ぎ足だったこと、たどり着くやすぐにしゃがみこんだこと、立ち上がるのにちょっとだけ時間がかかっていたこと。私の推理が間違っていないことだけは確認した。 しゃわしゃわと風の流れるような音が聞こえた。


 健吾が言っていた。
 ──行きたいんだったら、ひとりで手を挙げていけ。あの女なんかに利用されるんじゃねえ。
 もし、これから先、梨南ちゃんに、
「私、お手洗いに行きたくなったらひとりで行くわ」
 と言ったらどうなるだろう。たぶん、がまんしなくちゃいけなくなるかもしれない。私はもう平気。毎日休み時間に必ず行けば大丈夫。でも梨南ちゃんは、五時間目、二十分たった頃しか、堂々とお手洗いに行けないらしい。男子たちに、おしっこしたいってことがばれないようにするために、私の影に隠れないとだめみたいだ。
 ──そうね。梨南ちゃんは私がいないと、お手洗いに行くこともできないんだ。
 私は梨南ちゃんが立ち上がってもう一度かがみこみ、近くの草をむしって地面に振りまいているのを確認し、トイレからでた。することは、今日はしなくてもよかった。どうせあと十五分くらいで帰りの会だもの。

「外はきれいなのよ。ほら、露草がたくさん咲いていたから摘んでみたの」
 今日の言い訳は「露草」だった。私はもう一度にっこり笑顔をこしらえた。
「うわあ、梨南ちゃん可愛い花たくさん摘んだのね。帰りに持って帰らなくちゃ」
 ──明日、雨が降ったら、今度は何するために外に出るって言うのかな。雨の露を拾って水を貯めようなんて、こと言わないよね。
 やっぱりおなかが軽くなったらしくて目線がちっとも固まってない梨南ちゃんに、私はささやいた。
「私、やっぱり直らないみたい。あの、時のこと思い出しちゃって。怖くなるの。梨南ちゃん、お願い、明日も一緒についてきてね。ずっと」
「もちろんよ。だってはるみひとりだと、なにもできないから、心配だもの」
 梨南ちゃんの答えに私は笑いをこらえていた。だって。
 
 ──連れていってあげないと困るのは、梨南ちゃんでしょ。


 ──終──
 
 

BACKNEXT


 「葉牡丹の花」もくじへ 

          10  11 12 13 14 15 16 17

◆サービストラック      

関崎副会長のその後 関崎副会長と立村評議委員長に50の質問 立村評議委員長のエピローグ

 

HOME



Copyright (C) 2001 馬に描かれた館 All rights reserved.