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■関崎副会長のその後 ■関崎副会長と立村評議委員長に50の質問 ■立村評議委員長のエピローグ
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水鳥中学生徒会シリーズ
1
許さない、それだけを心に刻み込んだ。
「梨南ちゃん、大丈夫? 梨南ちゃん、お手洗いに行きたいんでしょ? 私が付き合ってあげるから、行きましょう」
はるみが勝ち誇った風に梨南の顔を覗き込み、はっきりと周囲に聞こえるよう言い放った言葉を、決して。
「何ばかなこと行ってるのよ。静かにしたら」
おなかに響いて、また震えそうになる。目の前には学生服姿のローエングリン様がけげんそうにはるみの方を見ていた。隣の方からは、小柄な水鳥中学の男子が首をかしげるようにして、やはりはるみだけを見つめている。梨南を伺っているのはたったひとり、立村先輩だけだった。
はるみはどの視線も解さぬように、さらに響く口調で続けた。
「だって、梨南ちゃん、水鳥中学に来た時からがまんしてたでしょ。さっきから時計の針じっと見ていたし、きっとお手洗いのこと考えているんだなって思ってたの。今のうちに行かせてもらった方がいいわ。あとで泣かないですむわよ」
さんざん泣きつづけてきたのははるみの方ではないか。目が壊れそうになる。一緒に、体が震えるのは寒すぎるからか。心配そうに、斜め向こうに座っている清坂先輩が梨南に「どうしたの?」と小声で訊ねた。
「私が付き合ってあげます。すみません」
先輩ふたりの心配げな表情を無視するかのように、はるみは高らかに告げた。
「杉本さんがお手洗いに行きたいそうなので付き合ってよろしいですか」
めまいがひとつ、ふたつ、くらくらする。
あの人、ローエングリン様がやっと梨南に視線を向けた。瞬時にまたはるみにうなづく。向こう側、水鳥中学側の女子ですごく色っぽい感じの人が、
「トイレはね、二年四組の前にあるから、すぐわかると思うわよ」
指差した。行きたくなんてない、はるみが力を少し強めに腕を引っ張る。立ち上がれとの合図。意地でも動きたくないのに、またささやく。
「関崎さんの前で、だったらどうするの」
立ち上がるしかなかった。関崎さんはすぐに他の男子たちと一緒に、別の話をしているようだった。あの言葉がはるみの口から吐き出された瞬間、耳が凍結されていればいいのに、そう祈りたかった。決して人前では知られてはならないことを、はるみはいとも軽々と口にした。
水鳥中学の廊下は冷え冷えとしていた。青大附中の廊下がかすかに温みを感じるのに比べて、一歩外に出ると全身が凍りつきそうだった。もともと風邪気味だったのもあったけれども、確かに体調は万全ではなかった。
──ちゃんと理由つけて、抜けるつもりだったのに。
先頭を堂々と歩くはるみの背がぴんと伸びていた。
わざとゆっくり歩いているだけ。せっぱつまっているなんて、絶対に思われたくないから。
自分のことをきちんと説明できない赤ん坊ではないのだ。ひとりでトイレくらい探せるだろう。二年四組というのがどのあたりかは、大体見当つく。
なのにはるみはさっさと目配せするやいなや、一番近くの個室に向かい指差しし、
「あそこに入りましょう。間に合う?」
とか、勝手に指図しようとする。
「あたりまえよ」
完璧に見下したこの態度。なにが「間に合う」なのだ。
常識ではないか。人さまの家に遊びに行く時は、水分を控えてお手洗いを決して借りないこと。
ちゃんと自分もそうしてきたのだ。もちろん、ちょっとだけ落ち着かない気持ちもないわけではなかったけど。少なくとも生徒会室であの人と顔を合わせている間は平気でいられるはずだった。余計なお世話など、しないでほしかった。
はるみは小走りに木造の戸までかけていった。男子トイレと向かいあっていた。どこか、小学校のトイレと同じつくりで、思い出すとたん全身がこわばる。空気も硬い。コンクリートの床に、広がる黒っぽい戸が並んでいる。手洗い場もステンレスで、さびついた蛇口が並んでいた。
「早く入った方がいいわ、梨南ちゃん」
「何勘違いしてるのよ」
「私待っててあげるから」
「さっさと帰ってよ」
せめて追っ払いたい。なのにはるみは動かない。それどころか余裕すら浮かべて、
「私、梨南ちゃんとふたりで話をしたいの。でも、時間がかかると思うの。それまで、たぶん、梨南ちゃん、持たないでしょ」
「何が持たないっていうのよ、失礼なこと言わないでほしいわ。女子として恥ずかしいと思わないの」
「あんなにがまんしているところを見せるほうがずっと恥ずかしいはずよ。梨南ちゃん、まずは早く済ませてらっしゃい。取り返しつかなくなる前に」
──殺してやる。
確かな殺意を感じた。
「早く! 私も心配なのよ。梨南ちゃんが恥かくんじゃないかと思って」
奥には外に抜ける扉がある。でも、小学校の頃のように、雪の中に隠れることはできはしない。恥を知っている。
──ここで、こんなところで、こんな汚いところで。
一目で水洗トイレではないとわかる。
音が、きっと響くだろう。
誰もいない中で、こんなところで。
「いい、さっさと話してよ。それだけなら早いでしょ」
「私、梨南ちゃんがお手洗い終わらせるまで待ってるわ。話はきっと、時間かかるわ」
はるみは微動すらしない。
「だって、梨南ちゃんがもじもじしたまま話聞いてもらってても、私が心配だもの。もし生徒会室の中で梨南ちゃんががまんできなくなったら、立村先輩や清坂先輩も恥をかくのよ。それに」
言葉を切った。勝ち誇ったかのように、
「関崎さんだって、あきれるわ。赤ちゃんだと思うわ」
──関崎さんの前で。ふざけないで。
めまいで倒れそうだった。奥からがんがん波が押し寄せてくる。
押しやられそう。息を止めてこらえた。
──大嫌い、何もかも。
はるみだけではない。すべてが許せなかった。
なんでもないと言い張れない梨南自身が押し流されてしまう。
「あんたの言う通りじゃない、なんでもないわ」
背を向け、一番奥の小部屋に入るつもりでいた。
一歩踏み出そうとした。
とたん、膝がわなないた。
──足が、動かない!
もう一歩も前に進むことができなかった。立ちすくむ梨南の脇からはるみは素早く戸を開けようと手を伸ばした。
「やめて!」
「無理しないで、すぐに入りなさい。命令よ」
凛とした断固たる声に震えて、開けるしかなかった。
ゆっくりとしか動けないのは寒さで身体が強張っているだけ。本当に、それだけだ。
梨南は開いたままの木戸から見えたトイレを凝視した。小学校の校舎とまったく同じ、ぽっとん式和式トイレが待ち構えていた。音消し装置はなかった。
──どうしよう。
一瞬迷ったのが間違いだった。はるみが背中から押してくる。逆らえず膝を曲げ、小刻みに中へ入る。
「梨南ちゃん私、閉めるから早く入って!」
手が浮きそうになる。震えが止まらない。寒すぎる。
「急いで!」
すぐに後ろからはるみが戸を閉めた。
──恩着せがましいこと、言わないで!
せめて振り返り言い返したかったのに、できなかった。
2
せめてはるみにはさっさと廊下に出てほしかった。様子を見るためしばらく篭っていたが、全く外へ出て行く気配がない。側で身づくろいをしているのだろうか。ちょっとした衣擦れの音も響く。十分くらい身を整えていたが、梨南の方が根負けし外に出た。
──お手洗いを気取らせないようにするのが礼儀なのに。
手を洗おうとハンカチを取り出しあごにはさんだ。
はるみは梨南をまじまじと見つめ、
「時間、かかったから心配してたの」
次に足元に目をやった。微笑みながらつぶやいた。
「無理に連れ出してよかった」
「そんなんじゃないわ」
「梨南ちゃん、本当にぎりぎりだったのね」
蛇口をひねり、思いっきり水の音を流した。このくらい出しっぱなしにして入ればすべての音を隠すことができたのに。
「だって、中いっぱいに響いてたもの」
何が、とは問えなかった。はるみもそれ以上言わなかった。突き刺さってくるその意味に、頬が勝手に火照ってくる。
──恥をさらしてしまった。
凍傷になりそうな冷たい水で手をこすった。
「思い出すわ梨南ちゃん。小学校の時、こうやって五時間目の十五分過ぎに、いつもお手洗いに抜け出したわよね」
指がまた凍りつきそうになるのを、無視するためこらえた。
「梨南ちゃん、私のためだと思っていたでしょう?」
「今更なによ」
はるみがまた、お手洗いの失敗をするんじゃないかと心配して、一緒に抜け出した。あの時ははるみのためだと思っていた。裏切られるなんて思ったこともなかったあの時を梨南も思い出した。
まったく想像してないことをはるみは続けた。
「本当は、私が梨南ちゃんが教室でしちゃわないようにって思って、私がお付き合いしてあげたのよ」
「何勘違いしたこと言っているわけなの」
耳たぶが冷たい。梨南は手を拭いて後、じっと力をこめてはるみを見つめた。
「そんなくだらないことを言いたくて私をひっぱりだしたの?」
「違うわ、つれて来たのは最優先で、梨南ちゃんを間に合わせるためよ。でないと限界までがまんしちゃうと思うから」
「赤ちゃんでもあるまいし」
「だって、関崎さんの前で、お手洗い行きたいと自分から言えた?」
言葉が詰まった。あのちらっとはるみの方を無表情で見た視線を思い出した。
「男子の前で、お手洗いに行きたいということって恥ずかしいことだと、梨南ちゃんいつも言ってたわよね」
「あたりまえじゃないの。女性としての礼儀よ」
言葉に力をこめる。軽くなったおなかのあたりに力がみなぎってくる。
「でも、人前で失敗するよりは恥ではないわ」
「なに勘違いしたことを。人間の生理現象を恥ずかしいと思うのは男子がばかなのよ」
「でも、関崎さんそういうこと気にしないかもしれないじゃない。どうして言えないの?」
「あたりまえじゃないの。人様の家に行くにあたってお手洗いを借りないのは常識だから」
「じゃあ、さっきみたいにずっと、がまんにがまんを重ねた後、生徒会室でしてしまったらどうするの」
「いやらしい、汚らわしい、そういう下品なことをどうして考えられるわけ」
はるみはほつれ毛をそっと直した。
「だから、私がきっかけ作ってあげたのよ。だって、言えないでしょ。『お手洗いに行きたい』って、関崎さんの前では絶対に」
ばかばかしい話につき合わされるのはたくさんだ。梨南は手を拭き終わった後、ハンカチをポケットにしまいこんだ。
「行きたいのはあんたの方なんでしょう。私を物笑いにしたいならすればいいわ、早く片付ければ」
「そうね、入るわ」
はるみはにこやかに微笑むと、わざわざ一番奥の小部屋まで悠々と歩いた。
「行けるときに入っておいたほうがいいものね」
雨だれが滴る音はさほど響かなかった。
3
「さっさと話しなさいよ」
お互い、すっきりしたところで言いたいことを言えばいい。梨南なりに心積もりはしていた。
なんでずうずうしくもはるみは、評議委員会の交流に顔を出そうとしたのだろう。まったく話を聞いていなかった。新井林がバスケの練習試合で出られなくてしかたなく、というのならば仕方ない。でも、まったく評議とは関係のないはるみがなぜ、しゃしゃり出る必要あるのだろうか。別のクラスの女子評議なり誰か連れてこようということもできたのではないだろうか。一緒にきてくれた立村先輩と清坂先輩も驚いていた様子だったし、きっとなんらかの陰謀があるような気はした。
──私に、関崎さんの前で恥をかかせようとしているんだ。
女子にとって、「お手洗いに行きたい」ということをばらされることほど、恥ずかしいことはないと、はるみだって気付かないわけではないだろう。小学校時代確かに梨南は、はるみをお手洗いに連れ出すために自分から手を挙げていた。でもそれは、小学校五年の時にはるみが机の下に、大きな水溜りをこしらえて大泣きしたのを見てしまったからだ。小学高学年でのお手洗いの失敗なんて、まず普通はありえないと思っていたのにだ。あれ以来、梨南も世の中には絶対ということがないのだということと、自分も万が一ということを考えずにはいられなくなってしまった。一日くらいお手洗いに立たなくても平気だと思っていたけれども、このままはるみみたいな失敗をしてしまったら、もうこの世にはいられなくなるだろう。はるみのためにも、できるだけ中抜けしたほうがいい、そう判断しただけのことだった。
「今のことと同じよ。梨南ちゃん」
手を洗い終わり、やはりハンカチで丁寧に指先をふき取ったはるみは、そのまま梨南に向かって語り始めた。
「私ね、梨南ちゃんがいつも、本当はしたいのに何もできないでいることがすごくわかるの」
「私が何をしたいというの」
「一緒よ。本当は一刻も早くすっきりしたいのに、自分から言い出せないんでしょ。だから私がトイレ行きたい振りをして、お付き合いしてあげてたってことなの。私だって、本当はクラスの男子たちの前でお手洗いに行きたいなんて思われたくなかったわ。でもね」
「あれははるみのために、あんたがまた血尿出さないようにって!」
「違うわ、あれは梨南ちゃんのためよ。梨南ちゃん、教室でもしもよ、我慢できずに私みたいになってしまってたら、きっとクラスの男子たちからばかにされてたと思うの。私が失敗した時はたまたま健吾がいたから、それ以上ばかにされないですんだけど、梨南ちゃんの場合は別よ。ずっと、卒業してからもばかにされつづけてたはずよ。もちろん立村先輩のようにいつもかばってくれる人がいれば話は別だけど」
「私がそんなことするわけないじゃないの」
「いいえ、わからないわ。今だってもし私が無理にでもひっぱりださなかったら、絶対に梨南ちゃん、関崎さんの前で」
「そんなわけないわ!」
声が響いた。恥ずかしくなるくらいに。
「あんたが勝手に決め付けないでほしいわ」
「いいえ、いつもそう」
はるみはさえぎった。
「梨南ちゃんがお手洗い行きたくなる時の様子はわかるの。時計の針をじいっと見つめて、その後つま先を立てて、ノート取らないでずっとこぶし握り締めてて、だんだんスカートがゆれてくるの。五時間目の十五分過ぎ、私に声を掛ける直前の梨南ちゃんいつもそうだったから、ああ、そろそろだなって私いつも思って、梨南ちゃんが声掛けやすいようにしていたの」
「よけいなお世話よ。幼稚園児みたいな言い方しないで」
「もちろん梨南ちゃん、そういうところ見せたくないというのはわかるのよ。でも、いつもそれで失敗しているのよ。健吾の時だってそう。もし梨南ちゃんが健吾に小さい時、嫌われないようにしていたら、今のようにならないですんだはずだし」
「あんなばか男のどこがいいのかしら」
「梨南ちゃんがもし、健吾以外の王子様に守ってもらっていたらもっと状況は変わっていたはずよ。秋葉くんみたいな、ちょっと別のクラスにまわされたような」
言いかけたはるみを、ほんとは首しめて殺してやりたかった。
そのままコンクリートに頭を打ち付けてやりたい。
「そうよ、梨南ちゃんは誰かに守られないとだめなの。だから小学校の頃は苦労することになったのよ。本当は健吾みたいな人がいればよかったのに、梨南ちゃんに合った人たちをみな嫌がってたでしょ。どうしてなのかな、って私も不思議に思っていたのよ。今は立村先輩のような人がいるのに」
「あんな不細工で頭の悪い男子の誰に守られるというの、ふざけないで」
何をするにもとろとろしていて、新井林には見下されていて、本条先輩には頭の上がらない、あんな人のどこがいいのか。以前は梨南を精一杯大切にしてくれていたけれども、所詮ばか男子の一人だとわかってからは、一線を引くようにしていた。唯一評価できるのは、関崎さんと仲がよろしいことと清坂先輩のお付き合い相手であること。清坂先輩は女子の中でもかなり頭がよくしっかりしている人で、しかもかわいらしい。あの頭の悪い立村先輩には不釣合いだ。そういう人に評価されているということは、それなりに頭も働くのだろうと判断していた。あえて言えば、梨南のことを嫌おうとしない男子なんて、少しおかしいのが当然なのだ。
周囲の人はみな、梨南に「立村先輩が一番いいよ、やさしいし、梨南ちゃんを精一杯守ってくれるよ」と言う。
「もし、梨南ちゃんが本気で立村くんのことを好きになったら、きっと美里もあきらめて立村くんを譲ってくれるよ」とも。そんなの冗談ではない。梨南には、梨南にふさわしい価値のある、ローエングリン様がいる。新井林をあっさりと体育館持久走で下し、尊敬され、しかも生徒会副会長という座についている完璧な王子様、関崎乙彦という人がいる。
梨南のお茶を、五杯も飲んでくれた人。葉牡丹を受け取ってくれた人。梨南を嫌わないで、くれた人。
新井林たちから高く評価された人。
「私、思うの」
はるみは心を突き刺す言葉をさらに続ける。
「梨南ちゃんに関崎さんは合わないと思うの」
「そんなわからないことを言う必要ないわ」
「だって、関崎さんのしてくれたことは、梨南ちゃんを好きだったからってわけではないんだもの」
耳に栓をしたい。だって、葉牡丹をあの人は、確かに受け取ってくれた。
身体がまた、凍って行く。つま先の冷え切ったものが、すうとおなかのあたりにたまって行く。
「お茶を飲んでくれたのはたまたま喉がかわいていたからかもしれないし、梨南ちゃんみたいに礼儀だと思っていただけかもしれないわ。私、他の人たちから関崎さんの話を聞いていて確信したのよ。関崎さん、礼儀正しい人なのよ」
そんなわけがない。誰もが一度も手をつけようとしなかった、梨南の注いだお茶を、あの人は確かに飲んでくれた。
「葉牡丹だってそうよ。関崎さんじゃなくて、佐川さんが最後は預かったはずだもの。本当に大切なものだったら手放したりしないわ」
手放したなんて聞いていない。第一、なぜはるみはそんなことを知っているのだろう。
「普通の男子で、嫌っていない人はそうするかもしれないわ。でもね、私、健吾と付き合って思ったの」
はるみは再び、口元をほころばせた。
「本当に大切な人に対しては、もっと、それ以上のことをしてくれるはずよ。たとえば、立村先輩のように」
「あんな人とあの人を一緒にしないでほしいわ」
強く叫んだ。
「現実を見たほうがいいわ、梨南ちゃん。私、立村先輩のことも知ってるのよ」
「何を知ってるっていうの、関係ないこと知りたくもないわ」
「立村先輩が、数学関係が苦手なのは生まれつきの障がいがあるからだって、知ってるでしょう」
寒気がした。立村先輩がもともと頭の悪い人だとは思っていたけれども。語学のエキスパートであり、大学の授業を聴講しに行っている特権も持っているくせに、ろくに紙の枚数も正しく数えられない。小学生レベルの文章題も解けない。梨南よりも頭が悪い。だから、新井林にも見下されるのだ。新井林以上の評価を誰もしてくれないのだ。
「私思うの。だから、立村先輩は、梨南ちゃんのことを理解してくれるんだと思うの」
「ふざけないでよ、私を理解してくれるという理由? 私の能力よ」
「違うわ。能力最優先主義の人だったらもっと別の人を大切にするはずよ。梨南ちゃんのように、男子たちに嫌われてしまって、もう次期評議から降ろされるということになっている人を、好き好んでかわいがったりしたくならないわ。頭のいい人が本当に好きな人ならば」
立村先輩を憎んだ理由をはるみはさらりと挙げた。
「そうよ、きっと。立村先輩、小学校時代いじめに遭って、いじめた相手に復讐したことがあるって聞いたことがあるの。きっとそれよ。殺してやりたいくらい憎んだ相手がいる人って、少ないと思うの。私もそこまで人を嫌いになったことないけど、梨南ちゃんいつも、そう言ってたじゃない。きっと気持ちがわかるのよ。健吾みたいなタイプに見下されるのも、私からしたら当然だと思うけど、それを懸命に受け止めて、梨南ちゃんのために少しでもよくなるようにってしてあげてるのよ。健吾みたいなタイプには、きっと梨南ちゃんみたいな人は、好きになれないの。きっと、そう。関崎さんも」
「あの人は違う!」
激しく打ち消したかった。声がコンクリートに響く。
「いいえ、だって関崎さんは、健吾に少し似てるような気がするの。私、一緒に健吾といる時間長いから、わかるの」
「あんな奴と一緒にしないで!」
「いいえ、そう。健吾の方がもっと情熱的で頭がいいと思うけど、でも、梨南ちゃんには合わないわ」
「くだらないことばかり言って何が楽しいのかしら。ありもしないことを」
「いいえ、ありもしなくないわ。だって私、梨南ちゃんが何したいか、何考えているかすべて当てているはずよ。お手洗いの時から、健吾のことから、立村先輩のことから、何もかも」
ふざけないで、と叫びたかった。
関崎さんはたった一人、梨南を受け入れてくれて、新井林健吾を負かした人。
立村先輩のように周囲からばかにされきって、物笑いにされている人ではない。
関崎さんは、決して梨南を軽蔑したりしなかった。
梨南が淹れたお茶を、汚いとか言って捨てたりしなかった。
大抵の男子だったらみなそうするようなことを、しなかった。たったひとりの人だった。
立村先輩とは、格が違う。新井林よりも、上の人。
頬が冷たく熱い。
梨南は背を向けようとした。女子トイレから出ようとした。はるみが追いかけてきて腕を取った。
「まだ話は終わってないわ。逃げないで」
「急いで戻らないと、会議が遅くなってしまうでしょう」
「私たちがいなくたって平気よ」
なにが平気なのか。はるみは代理だから関係ないにしても、梨南は三月一杯まで評議委員なのだ。最後まで仕事をまっとうさせるのが、当然の義務である。
「それに、梨南ちゃんはもう評議委員にならないんだから、無理に聞かなくたっていいはずなのよ」
「決め付けないでよ、百パーセントそうならないとも限らないはずよ」
「いいえ、そうよ」
はるみはなんども「いいえ、そうよ」と断言したがる。頭の悪い証拠だ。
「私と梨南ちゃんとのつきあいは三年まで続くの。それを優先してどこが悪いの」
「あんたともうしゃべる気もないわ」
梨南の言葉をさえぎった。
「私はあるの。だって、梨南ちゃんがいえないことを代りに言ってあげるために、しなくてはいけないことがあるんだもの」
「なによそれは」
意味不明な言葉を発するはるみにいらだった。壁に押し付けて首しめてやりたい。
「私、二年になったら、評議委員に立候補するの」
言葉が完全に、凍りついた瞬間だった。
4
──冗談じゃない。
確かに、立村先輩からは梨南を評議から降ろす話をされていた。去年の年末だ。それをきっかけに、梨南は立村先輩を一生憎む決意をした。たとえ憎んでも、向こうは嫌いにならないというのならば試してやりたかった。どうせすぐに梨南のことを軽蔑するのだろうし、新井林のように叩きのめしにかかるのだろう。今のところは相変わらず脳天気な態度をとっておられるようだが、その辺はわからない。人間、どうせいつどうなるかわからない。寝返らないとも限らないではないか。
「健吾もね、許してくれたの。桧山先生にも話してあるの」
はるみは静かに続けた。戸口でしっかりと告げた。
「でも、健吾といつも一緒にいたいからではないの。もしこのまま、桧山先生や健吾が梨南ちゃんに厳しいことをした場合、今の何もできない私が梨南ちゃんを守ってあげることはできないわ。今まで梨南ちゃんが私にしてきたことは、決して悪意ではないんでしょ? 私に対しての思いやりもあったんでしょ? でも、先生たちや男子にはそれが通じないと思うの。だから、私が今度はきちんと、間に立って、梨南ちゃんを面倒見てあげるべきだと思ったの」
怒りで声が震えそうだ。背中にぶつかる扉が厚い。動かない。声が震えそうだ。
「あんたなんかの下になんて立つものですか!」
「違うの、梨南ちゃん、良く聞いて。私は本当を言うと、早く気付くべきだったのよ
」
「どういうことよ」
「私が本当は、梨南ちゃんをかばってあげるべきだったんだって。たまたま私は、梨南ちゃんが面倒みてくれるので楽だったからそのままでいたけれど、それは私に向かないことだったの」
「あんた、私にばっかりくっついて歩いていたくせに!」
「そうよ、その通り。でもね、それは間違っていたの」
何も恐れず、何もおびえず。
「私はね、梨南ちゃん。入学式最初の段階で、健吾が梨南ちゃんを泣かせた時に、かばってあげるべきだったんだなって思ったの、無視しちゃいけなかったの」
「なにその泣かせたって、そんなことないわ」
「いいえあるの。先生たちに聞いたら絶対あったって言うわ」
はるみは断言した。
「梨南ちゃんは、最初から誰かにかばってもらったほうがよかったのよ。健吾にだから、最初は振り向いてもらいたかったんだなって。でも、健吾は私のほうが好きだったの。それはしょうがないの。だけどもし、私がその段階で気がついて、梨南ちゃんをかばってあげていたら、健吾だって梨南ちゃんをあそこまで嫌いにはならなかったと思うの。健吾、そういうところはやさしいから」
「あんなばか男をいまだに好きだとは思わなかったわ」
「いいえ、それは梨南ちゃんがわかっているはずよ。健吾が怒ったのは、私を下にしたから。梨南ちゃんをもし、私が守ってあげていたらいくら嫌いだとしても、傷つけることはそれ以上しなかったはずよ。だって私が怒るから」
──ふざけないで。
──私の影に隠れて泣いていたくせに。
──梨南ちゃんこわい助けてっておびえていたのはどこの誰?
心の叫びが、だんだん氷結していく。
はるみだけが火のように燃えて熱い。
「私、甘ったれだったからずっと隠れていたのだけど、違うのよ。本当は。私、もっと堂々と物事を主張して、きちんとみんなと話し合って、よくしていこうと努力する必要があったのよ。今、やっと気がついたの。梨南ちゃんが無理して意地張って、トップに立たなくたっていいようにしてあげるのが、これからの私の役目だと思うの」
何を自信ありげなのだろうか。ずっと隠れていたくせに。
「評議委員会がどれだけ大変か、わかるっていうの、知らないくせに」
「でも、梨南ちゃんよりはきちんとできると思うの。けんかはしないですむと思うの」
「自信過剰ね」
「そうかもしれないけど、でも、梨南ちゃんよりは、喜んでもらえる自信があるわ」
言い切った後、はるみはもう一度ほつれ毛を押さえるようなしぐさをして、鏡を見た。
「梨南ちゃんはきっと、評議から外れたらこの学校にいられないと思っているんでしょうね」
「まさか、勘違いもいいところよ」
「いいえ、そう思ってるわ。でなかったらあんなに必死に勉強したり、無理して評議委員会の仕事をこなしたりなんてしてないわ。でもそれは違うと思うの」
「私が評議の仕事をきちんとこなしているのは、私に向いている仕事だからよ」
「いいえ、そう思わないわ。だって、梨南ちゃん、大変そうだし、それが必ずしもちゃんとできてるとは思わないもの。私、梨南ちゃんがもし評議から降りても価値なくなるなんて、思わないわ」
何をふざけたことを言っているのだろう? 能力がないということは、存在しなくてもいいということだ。
「だって、立村先輩や秋葉くんは、それでも梨南ちゃんを好きでいてくれるんですものね」
「あんな人たちに評価されたって何の意味があるというの。はるみ、あんたはあんな人に誉められてうれしいの」
「うれしくないわ、だって私、あまりあの人たち評価してないから。立村先輩たちだって私のことを好きでないことくらい、わかるもの」
くすっと笑った。
「でも、私を評価してくれる人は他にたくさんいるもの。その人たちがいれば十分よ。私、梨南ちゃんにふさわしい人に評価されれば、それでいいと思うんだけど、どうしてそれがわからないのかな、って不思議に思うの。健吾や私があまりいいと思わない人だから? そんなの梨南ちゃんには関係ないじゃない? 梨南ちゃんにとって価値があれば、それでいいじゃない。私や健吾がどうあの人たちを評価しようが、関係ないわよ。梨南ちゃんにとってああいうタイプの人がよければ」
「ふざけないでよ!」
もう堪えられなかった。
骨だらけの身体がすかすかになっていくような感触があった。背中で戸を押し、逃げるしかない。
なんで、堪えなくてはならないのだろう、なんで、はるみに立村先輩や秋葉瞬を見下されなければならないのだろう。
そんな見下そうとした相手を、押し付けられなければならないのだろう。
──あんな相手でいいなんて、ふざけないで!
──ああやって、私を見下そうとするんだ。
いつだってそうだ。梨南を受け入れてくれそうな人はみな、はるみや新井林たちからばかにされきった人ばかりだった。たったひとりだけ、違った人に出会った。その人を想うこと、そのどこがいけないのか? 関崎さんのようにパーフェクトなローエングリン様との出会いをさっさと断ち切れというのは、はるみや新井林が見下せない相手が許せないということではないのか?
立村先輩は、頭が悪いし脳天気だ。でも、梨南の能力に価値があると言ってくれている。
秋葉瞬は、知能が同年代の子たちより若干低いかもしれないけど、梨南をひたすらあがめてくれている。
価値を認めてくれた人には精一杯、梨南なりにお返しをしたかった。だから、精一杯守ろうとした。
ただそれだけのはずなのに、どうして「そういうタイプで十分」と見下そうとするのだろう。
どうして、ずっとすばらしいローエングリン様とのつながりを断ち切ろうとするのだろう。
梨南はただ、やっと完璧な人に評価されたことを知っただけなのに。
5
「杉本、大丈夫か」
トイレの戸を背中で押し、出たとたんよろけた。背中を誰かに支えられた。女子トイレの前でいやらしくも待ち構えていた人は、救いようのない不細工でろくに計算もできないあの人だった。腕のところをしっかり押さえられた。暖かいぬくもりが注入されたようだった。
「立村先輩、なんでここに」
振り払う。慌てて立村先輩も手を離した。
「いや、遅いからさ。あの、大丈夫か?」
この人もまた、いやらしいことを想像していたのだろうか。女子トイレの前で立ち尽くしていたなんて信じられない。後から戸を開けたはるみも、立村先輩の顔を見て少し驚いた様子だった。
「先輩申し訳ございません。今、梨南ちゃんと少し話をしたかったので」
「いや、なんでもないならそれでいいんだけどさ。あまり席を離れているのもまずいよ」
「だから早く帰るつもりだったのです。失礼します」
いつも役立たずの先輩だけど、こういう時は助かる。目と目が合った。かすかに笑ってくれていた。
「あの、でも待って」
「立村先輩の指示に私は従います」
「先輩、少しよろしいですか」
動じることなくはるみは立村先輩の顔を見つめた。
「今、梨南ちゃんにどうしても話しておかなくてはならないことがあるんです。こういう機会がないと、きちんと話ができないんです。少し、時間をいただけませんか」
「なぜ、今でないといけないのかな。佐賀さん」
立村先輩は梨南をすばやく背に回るように手をまわした。
「今日は水鳥中学の人たちとの話し合いがメインなんだ。あまり中座するのはよくないと思うんだ。話し合いがしたいのならば、また別の機会をふたりで作るべきじゃないのかな」
「わかっています。でも、梨南ちゃん、こういう時でないと決して言うこと聞いてくれません、さっきも本当はお手洗いに」
また繰り返そうとするのか、思わず声が高まった。
「何を言うのよ、いいかげんにしてよ!」
「杉本、少し声が大きい、静かにしろ」
きつい言葉に、悔しくも黙らざるを得ない。やはりこの先輩は梨南のことなんか好きでもなんでもないのだ。
「佐賀さん、悪いけど今日は先に帰ってもらえないか。新井林にはちゃんと話をしておくからさ」
「でも、私代理できたんです」
「それはわかっているよ、でもさ」
さっき叱ったくせに、また立村先輩は梨南を背中に回るよう手を回した。ふざけるなと思って動かなかった。こんな人に守られたって何もうれしくない。
はるみがうつむいた。得意の嘘泣きか。梨南は静かに立村先輩の前で目をこすろうとしているはるみを見据えた。
階段の方から足音が響いた。誰かが来る気配だ。立村先輩が前、後ろと目配りをして、すばやく黙るように指を口に当てた。
向こう側の廊下を歩いてくるのは、水鳥中学の学生服をまとった背の低い男子だった。確か、さっきはるみと少し話をしていた人のはずだった。名前が確か、佐川さんとか言っていた。
「あれ、どうしたの」
軽い調子で、どんぐり眼をくりくりとまわした。立村先輩はとってつけたように腹のあたりを押さえた。ついでに笑顔もこしらえていた。なんとなく、梨南にとっては敵、という気がした。はるみの味方ということは、百パーセントそうだ。はるみも佐川さんの方をちらっと見て、こくんとうなだれ直した。
「あのさ、悪いんだけど、俺もちょっとトイレ行きたいんだ」
勝手に行けばいいのに、無視してくれればいいのに。
「これ、持っててくれるかな」
立村先輩に、綴じた紙の束を渡した。確か、これから水鳥中学の演劇用台本を読んでもらいたいとかで人数分配る必要があるといっていた。取りに来た帰りかもしれない。それにしても他校の立村先輩に、ただでさえ取り込み中だというのに、預けるとはどういう神経をしているのだろうか。佐川さんという人は、腰に手を置くようなしぐさをして、にこっと笑った。子どもっぽい感じだった。なんというか、青大附中二年の更科先輩に雰囲気がちょこっと似ていた。
「ちょっと時間かかるかも、なんで生徒会室へもっていってくれると助かるな」
時間、というところで、強調していたのは意味があったんだろうか。立村先輩が苦笑いして
いた。
「ああ、わかった」
また梨南とはるみを交互に見やった。黙ってろよ、の合図だろうか。左腹を押さえるようにして向かいの男子トイレに飛び込んでいった佐川さんになんて、興味はない。
「杉本もほら、早く戻れ。どうしてすぐ戻ってこないんだよ」
ひどいことを言う。立村先輩は梨南が戻りたくても戻れなかったのを責めようとするのだろうか。小声の立村先輩を叩きのめしたくてはっきり言い切ってやりたかった。
「立村先輩、私が悪いと言うのですか」
「悪いもなにも、今ここでけんかしたってしょうがないだろ」
きつくにらむ目つき。まだ評議委員長でもなんでもないくせに。さっきみたいにほんとははるみにばかにされていること、知らないくせに。立村先輩はもう一度、言葉を噛み砕くようにしてはるみに告げた。
「佐賀さん、さっき言った通り、申し訳ないんだけど今日は先に帰ってもらえないかな」
はるみがまったくおびえることなく、立村先輩を見据えた。かえる気なんてさらさらないのだ。きっと。
ここまでののしられた以上は、梨南も受けてたつしかないだろう。立村先輩なんか無視して。
「先輩、話をそらさないでください。私は佐賀さんに頭がおかしいとか、病院に行きなさいとか、先輩とおんなじ頭なんだからしかたないんだとか、ひどいことを言われたんです。なんでそこまでののしられなくちゃいけないですか。言い返すことが悪なのですか。正しいということを言い返したらどうしていけないんですか」
立村先輩は梨南をじっと見つめた。
「杉本、あとで落ち着いて考えような」
こうやってまたばかにする。立村先輩がやっぱりばか男子と一緒なのだと思えてしまう瞬間だ。
三度目の説得を試みる立村先輩。どうせ無駄なのに。だから梨南がたたきのめさないといけないのに。
「佐賀さん、いろいろ大変だろうけど、新井林にはちゃんと話しておくし、連絡もしておく。本当に申し訳ないんだけど、今日は杉本を一人にしてやってほしいんだ」
──一人になんてしなくたっていい。私は強いのだから。
響かない声。急に胸のあたりに重たいものが詰まってきた。今朝から何も食べていないのに。飲み物も何も飲んでいないのに。意味不明の吐き気がする。言葉で打ち消したい。
「私、別にひとりじゃなくてもいいでです。私、何も悪いことしていません」
はるみに勝ち目ない、と言いたげな態度が許せない。こんな人が私にふさわしいというのだろうか。
「わがまま言うな」
いきなりかっとしたような口調で立村先輩がさえぎった。黙るしかなかった。
「今日はお前一人じゃないんだから。せっかく来たんだから、することだってまだあるだろ」
胸がむかむかしてくる。喉から何かすっぱいものがこみ上げてくる。つばで飲み込みながら、何か言わなくちゃ、とあせってしまう自分がいた。目の前のはるみが落ち着き払って私と立村先輩に微笑んでいる。さっきまで涙を溜めていたくせに、あの佐川さんという人が通り過ぎたとたん、なぜ堂々とした態度を取るのだろうか。やはり何かがある。
「私、頭おかしくないんです。なんであんなこと言われなくちゃいけないんですか。私、先輩と同じような病気じゃないって、あれだけ言ってるのに」
「ほら、佐賀さんはそんなつもりじゃなかったんだろ、な」
こっくりうなづくはるみ。
梨南はじっと見据えた。
とたん、おなかの上のあたりから、すごい勢いで何かが流れ出した。逆流だった。押さえきれなかった。思わず両手で口を押さえた。喉で必死に飲み込もうとしているが、うまくいかず唾液だけがだらだらと口にたまってくる。しゃがみこもうとして、思わず両膝を付いた。収まらない。はるみが「梨南ちゃん?」と声をかけてくるがそんなの聞きたくなくて、首を振った。はるみの間に立村先輩の足が挟まり、遠ざけるかっこうになっていた。
「杉本?」
返事ができない。またなだれうちそうだ。
「おい、どうした?」
「梨南ちゃん、もしかして吐きそうなの?」
──こんなところで、なんで。
──どうして、私、こんなことになってしまうの。
「大丈夫か、苦しいのか」
背中をさすってくれている、暖かい。少し楽になるかと思った。立村先輩が梨南を横からすくうように見上げてくれた。
「……大丈夫です。ひとりで大丈夫」
返事だけは、しなくちゃと思った。
立村先輩の瞳が、ずっと梨南をいじらしげに見つめていた。
目と目があったとたん、すべてこらえきれなくなった。泣けてきそうだった。
──もう、もうだめ。
さっきまでいた女子トイレの手洗い場で蛇口をひねるので精一杯だった。何も出てこない、ただ胃液だけがだらだらと流れるのが苦しかった。凍りついた空気の中、ずっと吐いてあえぎつづけ、梨南は一緒に出てくる涙と水で顔をぬぐった。吐き気はまったく収まらなかった。ただ救いは、誰も後ろから追っかけてこなかったことだった。はるみが来なかったことだった。
6
「杉本さん、大丈夫?」
だいぶ収まってから、顔を洗っていると清坂先輩のおかっぱ髪がすうっと近づいてきた。
立村先輩の彼女にするには絶対もったいない人だと、梨南はいつも思っていた。
かわいく、きれい。しっかりもの。みんなからの信望も厚い。梨南のことを本当にかわいがってくれた。
「ごめんなさい、私、自分の体調管理ができなくて」
「風邪気味だったものね」
ハンカチとティッシュを取り出して、顔を拭いてくれた。お礼を言った。
「ありがとうございます」
「お互い様よ。少し保健室で休ませてもらおうよ」
「え?」
戻りたいというのが本当のところだった。もしかしたら来期、はるみに評議委員の座を奪われるのかもしれないのだ。関崎さんに最後に話のできるチャンスだ。本当だったらもっと一緒にいたいと思った。同じ空気を吸いたいと思った。でも。
梨南はもう一度目をこすった。
「関崎さんは、知っているんですか」
喉がかすれて、まだ胃液の苦味が残っている口もと。口をもう一度ゆすいだ。
「なにを?」
「私がこんな醜態をさらしていることを」
「え?」
清坂先輩が聞き返してきた。繰り返した。
「私が、人様の学校で、こんなはしたないことをしてしまったのを、恥をさらしてしまったことを」
「醜態……って、そんな、そんなことないのに、杉本さんってば」
「いいえ、恥です!」
突然涙目になってくる自分に動揺してしまった。こんなこと、なんで涙が出るのかわからない。声が震えて、足ががたがた言う。清坂先輩がまた私の方を鏡越しに見つめてくる。首を振っている。わかってくれてないのだきっと。
「はるみに、まさか、あんなこと言われるなんて」
「佐賀さんに?」
「まさか、会議の途中でお手洗いに行きたい、なんて、非常識なことを」
──梨南ちゃん、大丈夫? 梨南ちゃん、お手洗い、したいんでしょ? 私が付き合ってあげるから、行きましょう。
壊れた瞬間。
決して人前で「お手洗いに行きたい」「トイレに行きたい」という自然現象を悟られてはならない。
特に人様の家に行く時は、はしたないことをしないようにしなくてはならないと教えられてきた。
お手洗いを借りるなんて、恥。
気付かれないように、礼儀正しく振舞うのが当然のこと。
人に具合悪いとか、そういうところも決して見せてはならない。
相手に気を遣わせてしまうから。
なのに、なんでこんなことになってしまうのだろう。
梨南は完璧に準備して、水も飲まないで、体調も管理しようとしてきたのに。
どうして、身体はみな裏切るのだろう。
はるみの前で「何勘違いしてるのよ、私はしたくないわ」と言い切ってしまえればよかったのに。
最後まで知らん振りして、ぎりぎりまでがまんすればできたはずなのに。だから時計を見て気を紛らわせていたのだ。なんてもないまま、そのままきちんとこらえていられたはずなのに。はるみの言葉が引き金にならなければ。
「ごめんね、杉本さん、私が先にトイレ行くって言えばよかったんだね」
清坂先輩は少し勘違いしたことを言う。
「ほんと言うと私も、杉本さん行きたいのかな、って思ってたんだ。なんか寒いと、ほら、近くなっちゃうし」
──清坂先輩にも気付かれてた?
三つ目の屈辱が重なってくる。首を振ったけど伝わらない。
「けど、そうだよね、男子の前では言いづらいよね。好きな人がいると、そうだよね」
重ねてはにかみながら、
「私が杉本さんを無理やりトイレに誘って、ってことにすればよかったんだよね。そうすれば佐賀さんにもいやなこと言われないですんだんだよね」
──私、かくしていたはずなのに。知られていたなんて、そんなばかな。
──清坂先輩にも、はるみにも、そして、関崎さんにも。
頭の中が真っ白だった。
絶対に気付かれたくない生理現象を、人前にさらけ出していた下品な自分が確かにいる。
礼儀知らずのみにくい自分が。
はるみにさんざん見下されるような行動を取った自分が。
「私が、こうやって吐いてしまったことも、知っているのでしょうか」
恐る恐る、梨南は訊ねた。
考えたくなかったけれども、可能性がないわけではない。はるみが勝ち誇ったように言いふらしている可能性もある。
清坂先輩は答えなかった。少し首をかしげていたが、
「でも、しょうがないよ。杉本さん、風邪引いてたんだもの。誰だって体調がよくない時あるもんね」
「いいえ、それは自己責任です!」
また涙があふれそうになる。
「自分をきちんと管理できない人間は、この世にいる必要がないんです!」
「それは大げさだよ、杉本さん」
「いいえ、そうなんです。私はこの世から消えればいいんです」
繰り返した。
「はるみや新井林に見下されるくらいなら、死んだほうがいいんです」
7
それから清坂先輩が懸命に抱きしめてくれたこととか、女子トイレからふらつきながら出た後保健室を目指したこととか、とにかくふらふらしたまま歩いていたことしか覚えていなかった。自分の中から幽体が飛び出して意味不明の言葉を撒き散らし、涙目で何かを訴えてしまっていた。信じられない醜態だとしかりつけたいのに動かない。清坂先輩が何度も髪の毛を撫でてくれた。
「変よねえ、保健室、しまってる」
「ごめんなさい」
「杉本さんが謝ることないよ。立村くんほんと、勘違いしてるよね」
いつのまにか立村先輩に責任転化されていた。
「さっきね、立村くんに呼ばれた時に、保健室につれていってくれって言われたの。立村くんも本当だったら杉本さんのこと心配でならなかったんだと思うんだ。だけど、男子でしょ。だから私にってことになったみたい」
話し掛けながらも、清坂先輩はきょろきょろと周りを見わたしている。
「おかしいよねえ。どうしよう。どこか座るところあってもいいのにね。仕方ないから生徒会室に戻る?」
「いいえ、戻れません」
首を振った。まためまいがして清坂先輩の肩にしがみついてしまう。
「こんな醜い自分を、関崎さんの前にさらけ出したくはないです」
「そんなことないよ、具合悪いだけだって思ってくれてるって」
清坂先輩の言葉には迫力がなかった。やはり、そんなことないかも、と思っているんだろう。梨南にはそのことがわかる。感じ取ってしまう。
「杉本さん、もしかしてさ、今日お化粧してきた?」
「どうしてですか」
「だって、なんとなく」
梨南は頷いた。
「これが最後になるかもしれないと思ったんです」
「そうか、今日が」
それ以上清坂先輩も言わなかった。途中しゃがみこんだけど、吐き気だけですんだ。清坂先輩が一生懸命背中をさすってくれた。
他の男子たちにはどう思われようがかまわない。それこそ授業中お手洗いに立とうが、貧血起こして倒れようがそんなの知ったことではない。立村先輩相手だったらまったく何も感じなかっただろう。
でも、関崎さんにだけは。
たったひとりの、ローエングリン様には。
完璧な自分で見てもらいたかった。
何も汚れのない、完璧な自分として。
そういう人にはそういう自分がふさわしいと信じてきた。
なのに、今の自分はなんなのだろう。
思ってくれている人の前で、恥じらいのないそぶりを露骨に見せたばかりか、体調不良の醜いところまでさらけ出してしまった。こんな人間を誰が好きになるだろうか。もう二度と、近寄るのも嫌だろう。礼儀を知らない、この世にいなくてもいい自分。本当に価値のある人には受け入れてもらえず、周囲から見下される人がふさわしいと笑われる自分。こうなったら最後、死ぬしかない。
小学校の時から、いつも思っていた。
一度でもミスを犯したら終わりだと。
はるみのように、五年にもなって水溜りをこしらえる大失敗をしてしまったくせに、受け入れられているなんて異常としか思えない。梨南が同じことをしたらもう自殺するしかないだろう。この世で生きている価値なんて、ない。新井林たちにに見下される自分なんて、いないほうがましだ。立村先輩がかばってくれるからいいではないか、と人はいう。でもその立村先輩を見下しているのはどこのどいつだろうか。一緒にばかにして、物笑いにしているくせに。
──あいつらに頭を下げることになったら、私は死ぬ。
いつも、心に刻み込んでいた約束だった。
「あの、いいですか?」
不意に、近くから声が聞こえた。細い、子猫みたいな。清坂先輩が支えてくれる手を少し緩めた。
「はい?」
「もしかして、保健室探してますか?」
子猫声の持ち主の顔を見上げた。お下げ髪の、お人形さんみたいなおとなしそうなセーラー服姿の女子だった。胸章には、「水野」と彫られている。
「でも、ないみたいで」
「今日は多分しまってると思うんです。私も良くお世話になるから」
ここでかすかに笑った。
「土曜日に怪我した人、いつも、一階の用務員さんところで休むことが多いんですよ。そこで少し、横になったほうがいいと思うんです」
「え、本当ですか! よかったね杉本さん! ありがとう!」
反対側からお下げ髪の水野さんは、そっと腕を支えてくれた。梨南もお礼を言おうとして口を動かそうとした。首を振って止められた。
「お互い様だから、大丈夫よ。あとで荷物、持ってきますから。それと、伝言したほうがいいですか?」
清坂先輩と水野さんは、梨南に聞こえないように小声で何か相談をしていた。聞き耳を立てる気力がないくらい、梨南は疲労困憊していたのかもしれなかった。たどり着いた木造の扉を開き、水野さんが詳しい説明をしてくれている間、梨南はストーブの前でずっと清坂先輩の隣に座っていた。
──私はもう、存在する価値なんてない。
──すべてを取り上げられたら、この世にはいないほうがいい。
それだけを唱えていた。
──はるみに負けるくらいなら、死んだほうがまし。
とも。
用務員のおじさんとおばさんは、すぐに布団をしいて梨南を横にさせてくれた。
「大変だね。きっと緊張しちゃったんだねえ。何も食べていないの」
うなづくと、すぐに紙パックのおかゆを温めてくれた。
「少し横になっていきなさい。ご家族に連絡したほうがいいんじゃないかな」
おじさんの方がわざわざ電話を持ってきてくれた。そんなのいいのに、と首を振ったら清坂先輩が、
「じゃあ、うちの父さんに車出してもらおうかな、杉本さんも一緒に帰ろうよ」
と笑ってくれた。布団をかけてくれたので、梨南もうなづくしかなかった。水野さんがすぐに戻ってきて、梨南と清坂先輩のコートとかばんを持ってきてくれた。
「重かったでしょ、ごめんね、ありがとう!」
「ううん、いいんです。私も、本当は正式の参加者じゃないから、こういう時に役立たないと」
子猫のかわいい声で、水野さんは清坂先輩の側にちょこんと座った。ふたりには、白い甘酒のようなものを差し入れてくれた。喜んですすっているようすが、枕もとから見えた。
「委員長さんも、あとで来るって言ってましたよ」
こっくりと清坂先輩がうなづきながら微笑んだ。梨南の枕もとに向かって、
「あのね、杉本さん、これ立村くんに内緒にしてね。怒るから」
小声でささやいた。
「さっき杉本さんを迎えに行ったって言ってたでしょ。あれね、他の人たちには内緒にしてたのよ」
「内緒、って」
か細く訊ね返すと、くすりと笑って後、
「杉本さんたちがいなくなってから、立村くん、お昼の牡蠣フライ定食にあたって、おなか壊したって振りして生徒会室を出て行ったのよ。まさかねえ、そんなことないよって言おうと思ったけど、口止めされてたから言わなかったの。でもね」
いたずらっぽく、
「立村くん、私と出発前にお昼食べたけど、素うどんだけだったよ。かえっておなかすくんでないかって、心配になっちゃった。杉本さんのこと、きっと心配ですぐ追いかげて探していたのよ。本当に、かわいがられてるのね」
「清坂先輩よりは大して」
首を振って強く否定をしておいた
立村先輩はきっと女子トイレの前で話をすべて聞いていたのだろう。とすると、すべてはるみが言い放った言葉もみな。
それでいて梨南を百パーセントかばってくれなかった。それどころか、「わがまま言うな」とかさんざんしかりつけるようなことをいうのだ。結局はあの人だって、はるみたちの味方なのではないか。
なにが、「俺だけは杉本のことを嫌いにならないから」なんだろうか。
立村先輩もじきに、梨南をとことん物笑いにして、去って行くだろう。
男子というのは、そういうものだ。関崎さんを除いては。
「水野さん、でしたよね」
清坂先輩は梨南の側で、少しずつ話を進めていた。
「あの、関崎副会長って、どんな人なのかわかります?」
「関崎くんとは小学校高学年の時、同じクラスだったから」
──関崎くん、ってくんずけにしてる。
胸の付け根がいたくなる。もう二度と逢えないとわかっていても。
「どういう人なのかなあ」
知っていることといえば、学年万年トップで成績優秀、陸上部の元エース。そのくらい。
「何事にも、一生懸命でひたむきだなって思うわ。それに友だち思いだし」
水野さんはそこで言葉を切った。
「佐川くんって一緒にあそこにいたでしょう。佐川くんの親友なの」
──あの、はるみの味方っぽい人の?
また息が苦しくなり咳き込みそうになる。用務員のおばさんが水を出してくれた。
「ふうん、佐川さんてどういう人なのかなあ」
清坂先輩はさらに話をつっこんでいった。きっと、梨南に聞かせたいためだ。いい先輩だ。
「佐川くんは、頭がよくて、みんなに好かれていて、やさしいの」
少々子猫のトーンがお姉さん声になったような気がした。もしかしたらこの人、佐川さんに対して、特別な感情を持っているのではないだろうか。
「そうなんだあ、ね、じゃあ、関崎さんもいい人なのよね」
「うん、そう思うわ」
少し意味不明なつながりの会話だったけど、梨南が信じているような完璧な人であることだけは確認できた。
同時にまた涙があふれそうになってくる。
──私はあの人には、ふさわしくないのだ。見苦しい礼儀知らずな自分ではあの人にふさわしくないのだ。
顔を布団に隠して涙を拭いた。あの人にさえ認められれば死んでもいいのに。関崎さんに認めてもらえれば、たとえはるみや新井林に見下されようと、自分は生きる価値を与えられるはずだ。しょせん立村先輩レベルで十分だと物笑いにされずに生きていける。
──関崎さんに価値があると言ってもらえれば、私は死なないでいい。見下す奴らと戦える。
関崎さんに関する話はまだ続いた。
「ねえねえ、じゃあ、関崎さんには付き合っている人とかいないのかな」
「いないわ、絶対に」
なぜそこで断言してしまうのだろう。やはり同じ学校だと強い。うらやましかった。
「そうっか、よかった! ね、杉本さん」
「今さら無駄です」
言い切った。もう梨南のような穢れきった人間なんか、あんなすばらしい人のお側には寄れない。
「どうして? まだチャンスあるよ。彼女がいるならわからないけど」
「いいえ、私はあんな完璧な人にふさわしくないんです」
「どうして?」
この「どうして」は、水野さんの言葉だった。説明し直す必要を感じた。どんなに苦しい言葉だとしても、隠しておくのは自分の主義に反する。梨南は横たわったまま、つぶやいた。
「私はあの人の前でお手洗いに行きたいようなそぶりを見せてしまいました、それに、いくら具合悪かったとはいえ自己管理できずに吐いてしまったりしてしまいました。そんなこと、だめなんです、絶対に」
ふたり顔を見合わせているのは、わかってもらえないから。
そんなこと、たいしたことないよ、と思い込んでいるから。
どうしてそれが許せないのか、わかってもらえないから。
「そんなこと、ないよね」
小さい声で清坂先輩は相槌を打つ。梨南が清坂先輩を好きなのは、そこでまったく希望がない時に嘘を言わないところだった。梨南の考えに半分共感してくれているのが、わかるから。
「もちろん、男子はそういうの見たくないと思うけど、でも杉本さん真面目だから」
「そんなこと、絶対ないわ」
いきなり、水野さんが厳しい声で断言した。その迫力に清坂先輩が思わず背筋を伸ばした。
梨南の枕もとに水野さんは寄ってきて、もっとはっきりと告げた。
「関崎くんは、そんなことで人をばかにする人じゃないわ。私も小学校五年と六年の時一緒のクラスだったけど、間違っていることは間違ってる、正しいことは正しいって、確かにはっきり言う人だったの。でも、人が具合悪くなったときとか、車で酔った人に服汚されたりしたときとか、そういう時も嫌な顔一つしない人だったのよ。もちろん、いろいろ誤解されやすい人で、うまく言えないんだけど、女子に人気がある人ではないと思うわ。でも、杉本さんがしてしまったと思いこんでいることで、嫌いになるなんてことは絶対にないわ」
「でも、私は自分を許せません、そんな醜い自分は存在するに値しません」
「杉本さん、だったわね」
はつかねずみのような、おちょぼ口が少し動いた。
「今、清坂さんから委員長さんのこと聞いたけど、杉本さんのことを本当にみな、大切にしているんだなって思ったわ。私、頭悪いから青大附中の人たちがどういう考えしているのかわからなくて不安だったの。でも、後輩をこんなに心配して、自分がおなか壊しているふりして探しにいったり、一緒に保健室探そうとしたりするなんて、杉本さん自身に価値があるからそうしたいんだって思うの」
「そうよ、杉本さん、その通りだよ、私だって杉本さんに価値がないなんて」
「いいえ、ないんです。あいつらに見下されたりするくらいなら、死んだほうがましです」
「そんなことないわ」
「いいえ」
しばらく押し問答が続き、仕方なく納得したのだろう、ふたりは黙った。
──はるみたちにあやまるくらいなら、私は死ぬ。今すぐにでも。
頭の中にちらちらと、ナイフがよぎった。
8
少しうとうととしていた。目を閉じていると、清坂先輩と水野さんの声が聞こえてきた。
──杉本さん、純粋な子だから、きっとつらいと思うの。もっといいかげんでもいいのにね。
──関崎くんはいい人よ。そんなことで嫌ったりしないわ。
いいえ、違う。
あの完璧なるローエングリンには完璧な姫が必要なのだ。
完璧でない自分は不必要なのだ。
はるみの下でさんざん赤ちゃんのような扱いをされる自分は、存在する価値なんてない。
評議委員からも降ろされ、何もできない自分、いないほうがまし。
死んだほうがましだ。
誰かが側に近寄ってくる。梨南はもう一度堅く、目を閉じた。
「……寝てるんだ」
男子の声だった。聞きなれた、声変わりしていないような穏やかな声。
「起こしたほうがいい?」
「いい、俺が声かける」
「けどちょっと、寝てるし」
清坂先輩が話し掛けている。
「清坂氏、悪いんだけどさ、ちょっと俺なりに話をするつもりなんだ、ちょっとだけふたりにしてもらえないかな」
しばらく沈黙の後、
「うん、じゃ、少し外に出てるね」
梨南はもう一度顔を隠した。頬に涙の跡が残っているかもしれなかった。
「杉本、起きてるか」
ささやくような声が、すぐ目の前でした。吐息がかかっている。もっと身体をこわばらせた。
「起きてる、よな」
薄目を開けた。立村先輩の、間抜けな顔がすぐ側まで接近していた。目の縁がねばねばしていたので思わずこすると、立村先輩は少しほっとしたように笑った。
「気分は少し、よくなったか」
「はい、ありがとうございます」
なんとなく立村先輩の表情が堅いように思えてならなかった。
「これから清坂氏のうちから車が来るから、それで帰れよ」
「立村先輩は」
「俺はもちろん自転車だよ」
じっと梨南を見つめているのが不思議だった。
「私なんかになんの用ですか。もう評議委員から降ろされる人間に何が必要なんですか」
「杉本、あのさ」
「どうせ私は、立村先輩にとって、はるみ以下の人間なんでしょうから。そちらに力を入れたほうがいいのではないですか」
「だからわがままいうなよ、いいかげんにしろ」
疲れた風に立村先輩は唇を尖らせた。
「真実を訴えようが、それはわがままなのですね」
「言っとくけど、もう佐賀さんは帰ったよ」
「どうせ最後まで出たのでしょうね」
「流れ上、それはしょうがなかったんだよ。ほんとは杉本に最後までその場にいてほしかったけど」
いや、そんなことはないのだ。結局この人もはるみびいきなのだ。
信じてはならない。梨南は自分に言い聞かせた。もうだまされるのはいやだ。
「杉本、俺のことはどう思ってもいいから、一つだけ聞いてくれないか」
「なんですか」
「今、関崎が用務員室の入り口にいるんだ」
立村先輩の目に嘘はなかった。
梨南は背を伸ばして正座した。
「杉本、いいか。関崎を今から呼ぶから、けどさ」
言葉を切ってまた、立村先輩は梨南を見つめた。
「ひとつだけ約束してくれないかな。」
「馬鹿にしないでください。何を約束するんですか」
会う気はなかった。こんな役立たずのいなくていい自分を見せるのはいやだった。
「関崎は会うつもりはあるけれど、杉本が望んでいるようなこと、言ってくれるかわかんないんだ」
「どういうことですか」
声がまっすぐ響く。
「今、関崎が話をしたいと言って、外にいるんだ。その時何を言うかわからないけど、あいつはきちんと礼儀正しく話してくれる奴だから、杉本もそれに相応しい態度で受け取ってほしいんだ。もしかしたらあいつは、別のこと考えているかもしれないし、杉本を傷つけることを言うかもしれないんだ」
どうせ自分は穢れた汚らしい人間だ。それも当然だろう。人間扱いされなくたって当然だ。
「でも、それでも、あいつのことをうらまないって約束できるか?」
「うらむ?」
繰り返すと、立村先輩は大きく頷いた。
「関崎は、ああいったら変だけど、不器用な奴だ。一生懸命だし、何事にもひたむきだよ。すごくいい奴だと俺も思う。だけど、こういったら変だけど、恋愛とかそういうのはあまり得意じゃないみたいなんだ。だから、もしかしたらうまいことを言えず、杉本を傷つけてしまうかもって本人もすごく心配している。だから、今まであえて近づいてこなかったみたいなんだ。でも、真剣に、きちんと話をするとは言ってくれているんだ。杉本、約束できるか。何言われても、あいつを憎まない、嫌わない、復讐しないって」
「私がそんなことするわけないではないですか」
「じゃあ、約束できるか」
「立村先輩なんかに命令される筋合いはありません」
いきなり立村先輩は、小指を差し出した。何したいのか、瞬時にわからなかった。
「いいから聞くんだ。その時にきちんと、話をして、向こうの望むことを考えてほしいんだ。命令なんかしない。それだけ、それだけできるか?」
「人間同士の会話なのですから当たり前です!」
「それなら、約束できるよな。もし関崎が受けられない、と言ったら、それが向こうの望むことなんだからな。ちゃんと、受け入れてほしいんだ。もう二度と会ってほしくない、そういわれたらそれが望むことなんだからさ。だけど、俺は杉本のこと嫌いにならないから、それだけは約束するよ。わかったか? 」
じっと見据えたその瞳は、まっすぐだった。一瞬だけ、関崎さんに似ていた。見間違いだ。どんなことがあっても、あってはならない目の錯覚だ。
目だけ、酔ってしまったのはそのせいだろう。梨南は正座したまま、そっと小指を絡ませた。
「じゃ、約束だからな」
立村先輩はまた、ゆっくりと指を振るようにして梨南に笑いかけた。
9
関崎さんが入れ違いで入ってきたとき、梨南は布団をたたみ直してしっかりと正座をして迎えていた。
もう完璧な自分が存在しないことと、この世にいなくなってもいい抜け殻の自分しかいないこと。
梨南に受け入れることはどうしてもできなかった。
──もう、価値がない自分はいなくなっていいのだ。
関崎さんもきっと、相手にする気などないだろう。立村先輩の言葉はいかにも、関崎先輩が心やさしく受け止めてくれる可能性を含んでいたけれども、そんなわけがない。もし自分が関崎先輩の立場だとしたら、永遠に許したりしないだろうから。自分の価値がない今、その抜け殻を美しく装うしか方法はない。
「あの、大丈夫、ですか」
すっと見上げると、背の高くがっちりした肩と、それでいてでぶでぶしていない身体と、涼しげなまなざし、まっすぐな口元、少し赤らんだ手がそこにあった。誰よりもローエングリンなあの人が、確かに存在した。
──私に、敬語を遣ってくれている。
梨南は身動きせず、関崎さんを見上げ、両手を付いて丁寧にお辞儀をした。これがあるべき自分の姿だった。
しばらく、沈黙が続いた。それでいい、降り注ぐ関崎さんの瞳シャワーは、梨南をそっと潤してくれたから。
──私の、たった一人のローエングリンさま。
心で唱え、もう一度じっと見上げた。また目が合った。関崎さんはそらさなかった。
そのまま、ぽつり、ぽつり、と言葉を梨南に落としていった。
「俺はあまり、女子にその、好意、もたれたことないから、だからあの、さ、俺は、あの、俺も、うまく言えないけど」
ぽつり、ぽつり、言葉のこんぺいとうが落とされて行く。受け止めた。
「あまり、そういうこと言われたことがなくて、もし、傷つけてしまってたら、あの」
また言葉を切る。朴訥な人とは聞いていた。もし立村先輩がそういう言葉遣いをしていたのだったらとことん軽蔑するかもしれないが、関崎さんだけは決してそう思わないだろう。
「本当に、ごめん。申し訳ない」
ふかぶかと礼をした。座っている梨南の頭と、関崎さんの下げた頭とがぶつかりそうなくらいだった。
「だから、好意は嬉しい。嬉しいんだけど、でも、今は、そういうこと考えることできなくて、つまり、その。俺、決して、嫌いだというわけじゃなくて、ただ、俺のうち貧乏なんで俺、公立だから、どうしても、受験しなくてはならないから、それに」
意味が不明な言葉がまた混じった。
「青大附高には多分いけないんだ。うちは公立だから、公立高校入試を受けなくてはならないし、そうなるとたぶん、そういう風な付き合いというか、そういうのはできないと思う。だから、あのその俺のうち、貧乏だから、奨学金貰ってあの、青潟東に受からないとまずいから、だから本当にごめん」
またもそもそと言葉を発している。梨南はひとことももらすことなく言葉を拾い上げた。
「俺、君の気持ち、どうしても、こたえられない。ごめん、本当にごめん。つまり、君の気持ちはうれしい、けど、どうしてもそれに答えられないんだ。ごめん。決して君を嫌いだからというわけでは絶対なくて、その」
ところどころ言葉がつぎはぎされているのがわかる。梨南はじっと見上げた。
──私を、嫌いじゃないの?
──関崎さん、私を、嫌いじゃないのね。
──男子なのに、ローエングリン様なのに、私を嫌いじゃないんだ。
ローエングリン様でない男子に、「嫌いじゃない」「嫌いにはならない」と言われたことはある。
ローエングリン様に、そういわれたことは、生まれて初めてだった。
新井林以上に頭がよくて運動神経抜群で、そして男らしいあの人に。
たったひとり、梨南のほしいものをそっと差し出してくれた人が、今目の前で見つめてくれている。
「嫌いでない」で十分だった。「嫌いでない」という打消しは、「想いの成就」と同じ意味。
──私のことを好きでいてくれるんだ。
──あんなに醜い姿をさらけ出した私を、関崎さんは、嫌いでないと言ってくれるんだ。
「私のこと、本当に嫌いでないのですか」
もう一度、梨南は訊ねた。疑いを完全に消したかった。消してくれると信じた。
「うん、好意をもたれた人を、嫌いになれるわけがない」
どもりながらも、とつとつと関崎さんは確かに答えた。
──嫌いじゃない、私を、嫌いじゃないんだ。
完璧でない自分を、関崎さんは「嫌いじゃない」と言ってくれた。
あの佐賀はるみ、新井林健吾にとことん見下された、存在すべきでない自分を関崎さんは百パーセント受け入れてくれた。嫌いでないと、確かに言ってくれた。耳に間違いはない。梨南はそっと見上げてもう一度、確認の瞳を探した。真剣なまなざしと、嘘のない口元が証拠として確かに存在していた。
「嫌いじゃないんですね」
繰り返した。
「あの、だから、俺、今はどうしても君の気持ちを受け入れられなくて、あの俺、ほんとそういうのがよくわからないから、本当にごめん」
言いかけた関崎さんに、梨南はもう一度続けた。
「私を嫌っていないのですね、本当なのですね。私を嫌いじゃないんですね!」
「あ、そ、そうだ」
「関崎さんは、私を、評価してくださるのですね」
「え? 評価?」
戸惑う風に息を止めた関崎さんに梨南は畳み掛けた。
「私、関崎さんにふさわしい完璧な人間として、あなたのお側に参ります。体調管理もろくにできない、またばかな奴らから見下されるような隙もあり、私はまだまだ百パーセント理想の姿にはたどり着いておりませんが、いつか私を見下した奴らをとことん叩きのめします、誰もぐうの音が出ないくらいに打ちのめします。、そして、関崎さんには完璧な姿を一年後、必ずお見せいたします。あの、私」
少しためらった。でも関崎さんが真剣な言葉で持って打ち明けてくれたのだ、梨南も話す必要がある。
「私は青大附属高校に進学させてもらえません。学校から追い出されることに決まっています」
もうすでに、担任から告げられた宣告。
一応はまだ希望が残っているとはいえ、梨南も土下座して許しを請う気はさらさらない。
「必ず、公立高校に参ります。私の成績は学年トップですのでおそらく、青潟東高校に進めるとおもいます」
本当のことだ。
「関崎さんも、青潟東高校に進まれるのですね」
目の前の関崎さんが言葉を失うように息を呑み、うなづいた。やはりそうだ。青潟東は、青潟市の公立高校の中ではトップ高校だ。もし青大附属から出るのならば、当然匹敵する学校に進学したいと思うのは当然のことだった。
「でしたら私、関崎さんのいらっしゃる青潟東へ、全力で完璧な人間となり行かせていただきます。私をばかにした人間たちを蹴散らして、絶対に関崎さんにふさわしい人間となって参ります。どうかその時まで待っていてくださいませ。私、関崎さんを追いかけて、青潟東に進学します」
言葉をまっすぐ、確かに届くように言い切った。そうすると、力がみなぎってくる。
担任たちが追い出そうとして公立へ進ませようとする動き、それすらも今はローエングリンさまへの道のりに過ぎない。
すべては関崎さんの元へ進むための道しるべなり。
梨南はもう一度、じっと関崎さんの瞳を見つめた。戸惑いがかすかに見え隠れする。それはしかたのないことだ。まだ自分は、美しい淑女としてのたしなみを完璧にまとっていないのだ。まだ、「嫌いでない」程度ならばしかたのないこと。でも、ローエングリンさまは百パーセントの自分ならば必ず、抱きしめてくれるはずなのだ。
──百パーセント、完璧な自分になれば。
梨南はつぶやいた。
──関崎さんは受け入れてくれる。嫌いじゃないといってくれる。
──私を見下したあいつらを、踏み潰せる。殺してやれる。
関崎さんは何度か同じ言葉を繰り返した。公立高校入試が終わるまでは待っていてほしい、という意味の言葉だった。
梨南にとって、一年も二年もたいした差はなかった。
「どうか待っていてください、私は完璧になってあなたへ参ります」
今すぐ、得られる答えだとは思っていない。まだ自分は、完璧ではないのだから。
でも、一年後、二年後、青潟東高校に合格し同じ高校でつながれるようになったらいつか。
「私をばかにする連中には決して負けません。戦いつづけます。そして完璧になって参ります」
梨南は繰り返した。何度も、何度も、答えを返した。
「その時まで、どうか待っていてください」
不器用そうな関崎さんの表情が、梨南にはすべてを受け入れてくれた答えに見えた。
「私、今の私以上に誰にも文句を言わせない自分になって、関崎さんの側にまいりますから」
はるみたちはさぞや物笑いにしていることだろう。完璧でない梨南の行動を逆手にとって、土下座させようとしているわけだ。担任たちも、男子たちも、新井林も同じような顔をして、
「しょせんお前は立村先輩程度で十分だ」
と鼻で笑おうとしているのだ。梨南がローエングリンと思えない人たちがふさわしいと決め付けようとしているのだ。ふざけるな、ばかにするな、と言い返すことすら許されないのではと一瞬壊れた自分がいた。でも、そんなことはないのだ。現に関崎さんは、完璧なローエングリン様でありながら、梨南を受け入れてくれたではないか。
──嫌いではない。
お茶を飲んでくれたとか、話をしてくれたとか、証拠は山ほどあるではないか。
梨南を価値ある人間として、扱ってくれたではないか。
一瞬でも、自分を存在しないほうがいい人間だと思ったのが、嘘のようだ。
はるみたちが梨南をばかにしようが、関崎さんは確かに、認めてくれたのだから、何も怖がることはない。
「杉本さん、一緒に帰ろう?」
関崎さんが出て行った後、そっと様子をうかがいにきた清坂先輩と、後ろからそっとのぞきこんでいる立村先輩。
青大附中二人の先輩の視線が、暖かかった。
梨南は清坂先輩に対してのみ、同じ暖かみのある笑顔を送った。
「元気になったみたいね、よかった。ちゃんと、話せた?」
戸口でちらっと関崎さんと話をした後、難しい顔をした立村先輩がものを言いたそうにしているのを、梨南は無視した。
「杉本、お前、話を聞いてたんだろ」
「はい、おかげさまで、ありがとうございます」
きっと視線をぶつけた。もうこの人は、梨南を裏切った人なのだ。ローエングリン様とは程遠い人なのだ。
「だったら、わかったんだな」
「立村先輩にお話する必要はございません。お礼は申し上げました。ありがとうございます」
関崎さんとは程遠い不細工な顔をちらりとみやった後、梨南はきびすを返した。あわてて清坂先輩が割り込む。
「どうしたの、何か、あったの?」
「関崎さんはすばらしい方です。私はあの方にふさわしい、完璧な人間になります。戦います」
「戦うっていったい」
立村先輩がまた梨南を追い、覗き込む。邪魔くさかった。用務員のご夫婦および、側で見守ってくれていた水野さんにも頭を下げた。
「関崎さんのために、私は完璧になるんです。敵を叩きのめして、絶対に」
「杉本、少し話し合おう、少しいいか」
「いいえ、先輩とお話する必要はございません」
冷たく言い返した。そのくらいしないと、この頭の弱い不細工な先輩には伝わらないのだ。清坂先輩も気遣ってくれたのか、
「いいよ、また明日以降、ゆっくり話したほうがいいと思うな。立村くん、今日は早く杉本さん連れて帰るからね」
言葉をなくしたまま、立村先輩はじっと梨南を見据えていた。最初から関崎さんが梨南のことを相手にしようなんて思っていないとか、勝手に決めつけた人を、もう許すことはできないだろう。
──関崎さん、待っててください。
振り返り際、眉をしかめるような顔で梨南を見つめた関崎さんに、そっと心で唱えた。
──あなたがいるから、私は戦います。完璧になれるように、一時たりとも、敵を許さないように、すべてを叩きのめして、関崎さんにふさわしい私となって、青潟東に参ります。ローエングリン様に愛される価値のある私として、絶対にあなたに受け入れられるようになりますから、どうか、待っててください。学年トップで、自分をきちんと管理できて、足を引っ張ろうとする連中を地獄に落とし、誰もが文句の言えない実績をこしらえて、参ります。たとえ評議委員から降ろされようとも、どういう屈辱を浴びせられようとも、関崎さんが私を嫌わないでくださったのは確か。この二年間で、私は完璧な評価を手に入れて、参ります。
立村先輩の見送る視線が邪魔だった。梨南は唇を結んだまま水鳥中学の裏門を出た。
──終──
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■関崎副会長のその後 ■関崎副会長と立村評議委員長に50の質問 ■立村評議委員長のエピローグ