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青潟大学附属シリーズ


  作者:舞夜じょんぬ

 

 

 時也の慢性的鼻炎の原因はそれなりの病名だったらしい。
 手術を必要とするほどではないという。成長期の間はまだ手がつけられないので、しばらくは薬で様子を見ようとのことだった。
 なんで彰子がそんなことまで知っているのか。
 決して時也を絞り上げて白状させたわけでも、診療室までナッキーとふたり押しかけていったわけでもない。三日後、時也のお母さんが彰子の家に来て大きなバウンドケーキを手土産にぺらぺらと話してくれたことだった。もちろん彰子の母と同じくどふりふりのピンクドレスを纏って。母よりもほっそりしているからフランス人形のようでかわいらしい。
 ──似合う人がうらやましいな。
 ふと、そんなことがよぎって慌てた。
 当然、手土産のケーキは母に取り上げられ、全部父に食べさせることになってしまった。残念だ。自分の体重増が将来三大成人病に影響するからだと母に聞かされても、やはりむなしい。
「悔しかったら、少しは意識しなさいよ。彰子だって愛嬌だけで売っていくだけだったら、これから勝負できないよ。世の中の目は、厳しいんだから」
 ──勝負?
 首をかしげてみた彰子に、母はぱりぱりの南部せんべいを皿に盛った。耳がしゃきしゃきして美味しいし、ごま味もなかなかのもの。でも、甘いケーキの方がいいのも確か。
「あんたって子はほんっと、人を疑うこと知らないからねえ。今まではそれでもよかったけど、お姉さんになってくるとそうもいかなくなるんだからね」
 ──お母さん、人のこといえるの?
 さらに首を反対側にかしげた。もう母は返事をせず、自分用のケーキをぱくついている。仕方なく彰子も、そのままかぶりつくことにした。
 例の耳鼻科トリブルデートにて聞いたところによると、ナッキーが精一杯、時也のためにクラス女子と対峙しているらしい。その辺は心配していなかった。まあ女子だって、時也の病状がよくなったら文句を言うネタはなくなるわけだから、これ以上不潔扱いすることはないだろう。
 父からはクラス情報をあまり聞いていなかった。話もしなかった。
 彰子も無理に聞き出す必要もないと思っていた。
 何か困ったことがあればナッキーあたりから連絡がくるに違いない。

 彰子にはようやく、青大附中二年D組内の「気になること」を整理する余裕ができた。ナッキー、時也と出かけた耳鼻科へのデート、あれはごく普通のおしゃべりと、帰り道母からのお菓子配布つきでめでたく終わったけれども。
 ──あきよくん、まだあの時のこと、怒ってるんだなあ。
 あれから一週間、南雲くんは口を利いてくれなかった。

 もちろん朝の挨拶はいつも通り、
「あきよくん、おはよ!」
と彰子の方から声をかける。
 軽くうなずく感じで答えてはくれる。しかし、それだけだ。妙に言葉が少ない。
「今度、例のイラスト見せてね」
 通りすがりに一声かけても、妙にびくっと肩をこわばらせ、頷くかよそ向くか、そのどちらかの行動を取る。一週間続いてようやく避けられていることに気づいた。
 ──まずいなあ。あの日は時也を待たせていたから、スケッチブックの絵を見ていく余裕なかったんだもんなあ。一応、あきよくんには説明したけれど、確かに一方的に断っちゃったようなもの。友だちだったら、そりゃいやよね。反省しなくちゃ。
 彰子は次の授業の教科書を机から取り出した。理科の実験が、教室で行われる予定だった。  本当だったら教科書を持参の上、理科実験室へ向かうのが筋だ。でもこの日は、教育実習生の授業が入っていて、一日貸切になってしまった。仕方ないので二年D組の教室で、アルコールランプを持ち込み、マグネシウムを熱して酸化させるという実験を行うことになった。火を使うのでめったに教室でやるなんてことはないのだけれども、しかたない。机をそれぞれ班ごとに向かい合わせて、場所を広くこしらえていた。彰子の席は角の方だった。椅子の背を向けたら、隣りの班、南雲くんたちのところにぶつかりそうだった。南雲くんが隣りの立村くんの席を一緒に動かしているのが見えた。

「南雲、悪い。ちょっと手伝ってくれ」
 近くで声がすると思ったら、学習委員の男子だった。
 いつもは評議委員が先生の教科書を運んだり、細かい道具を持ってきたりするのが常だ。
 めずらしく今日は違うらしい。立村くんもいない。美里ちゃんの姿も見かけない。
「あん、なんだよ」
 愛想良い声で答える南雲くん。機嫌は悪くない様子。 
「実験室、やたらと細かいものが多くて運び切れねえよ。悪いんだけど、南雲手伝ってくれねえか」
 ははあ、どうやら、南雲くんに実験道具運びを頼んでいるらしい。
「いつもだったら立村に頼むんだけどさあ、逃げられたよ」
「さっき、三年の教室に行くって言ってたなあ。まだ戻ってないっか」
 どうやら学習委員の彼は、アルコールランプとか三脚とかを六セット一人で持ってくるのが不可能だということを認識しているらしい。そばで聞いている彰子も想像がついた。いつも理科実験室で用意する際は、平べったい木の箱にまとめて、一緒に運んでくるのが常だった。
 ふと一案が思いついた。ちらりと南雲くんに視線を送り、目が合うのを待った。ぴくりとしているのがわかる。
「じゃあ、私が手伝おうか? あきよくん」
 もうひとりはあらら、という風に顔を向けられた。
 南雲くんの方は無言だった。目をこわばらせ、笑顔なく彰子を見つめていた。今日の髪型はおしゃれな南雲くんにはまれながら、少し生え際が崩れている様子。たぶん寝癖が取りきれなかったのだろう。
「うわっ、奈良岡のねーさん、まじで手伝ってくれる?」
 手もみしつつ近寄ってくる学習委員の君に頷いた。この子の気持ちも察するに、ひとりじゃあいやだろう。
「どうせ私の筋肉だったらあっという間に運んでこれるし、いいかなって思ったの。ここで少し、余分な脂肪を減らさないとね」
「うはは、言えてる、感謝っすよねーさん。じゃあ俺も先に、先生のところさ行ってやばい薬品ないかどうか聞いてくるからよ。できたら、六セット、持ってきてくれるとうれしいぜ」」
「うん、わかった。じゃあ、あきよくん、一緒に行こうか」
 学習委員の君との軽い口調。ふだんだったら南雲くんとばかやっている時と同じのはずだった。
 南雲くんが何も言わず立ち上がり教室を出たのを、彰子は大急ぎで追いかけた。とりあえずは荷物運びを手伝ってくれそうだ。扉が閉まりそうなところもう一度開いて反対方向の職員室へ走っていったのは学習委員の君だった。
 ふたりっきり。あやまるにはいい機会だ。
 前回のことは南雲くんに時間を取ってあげなかった彰子が明らかに悪い。
 ──話せばわかってくれるよね。大丈夫。
 ひとりですたすた歩く南雲くんに追いついたのは、理科実験室前だった。
 戸口で振り返り、冷ややかなまなざしで彰子を見つめていた。 
 意外に根に持つ性格かもしれない。
 ──うわ、本当に怒ってるかも。
 彰子は思いっきりほっぺたのところをやわらかいままにして笑顔を振りまいた。
「待っててくれたんだね。ありがと。じゃ、お手伝いするね」
 無言で扉を開いた。中には誰もいなかった。消毒した後の黄色い匂い、口から空気を吸ったら咽をいためそうな塩酸っぽい匂い、ガラス戸に納まった理科実験道具の数々が迎えてくれた。
 
「アルコールランプは、どこだったっけ?」
 あえて気づかない振りをしながら反対側の戸棚を開ける。三角フラスコ、ガスバーナー、いろいろな長さの試験管一覧。ホルダーもさわると刺がささりそうな木製のものが並んでいた。横に細い小箱はリトマス試験紙。大抵実験で使う時、一、二枚くすねる奴がいた。
「ほらほら、あきよくん、リトマス試験紙あるよ。もらってく?」
 返事が返ってこない。すでに南雲くんはアルコールランプの揃っている棚の前に立っていた。鍵を開け、木製のおぼん型入れ物にひとつひとつ並べた。六セット用意しなくてはならない。あとは三脚だろうか。
「あきよくん、何か用意するものあとある?」
 さすがにこれ以上沈黙が続くのはまずいだろう。決して無視しているわけでないということは、彰子にもわかる。時折ちらちらと、振り返る様子を感じる。彰子が口を開こうとすると慌てて目を逸らす。たとえが悪いかもしれないけれど、立村くんのしぐさに似ている。今までの南雲くんにはない様子だった。
 ──こう言う時は、こっちからごめんなさいしとこうかな。
 彰子は「危険!さわるな!薬品あり」の張り紙がされている別の戸棚の前を通り、アルコールランプの並んでいる棚に近づいた。ついでにピンセットを六本掴んで。
 無視はしてない。確かに南雲くんは彰子の方を無表情で見つめ続けている。一切相手にしてもらえないのならばしかたないけれど、まだ脈はある。だいぶ古い木製おぽんの上に、ひとつひとつピンセットを並べた。ひとりで十分運べるだろう。
 一呼吸、二呼吸、置いた後に彰子は南雲くんの顔を見上げた。やはり背は高い。
「あきよくん、先週はごめんね」
 笑顔は絶やさないように、まずは話だけ聞いてもらえるように急いで続けた。
「せっかく、イラスト見せてくれるって言ってくれたのに、私の都合で無視しちゃった形になっちゃって。友だち待たせてたのはほんとうだけど、あきよくんをないがしろにしたと思われても、仕方ないよね。反省してます」
 できるだけ軽く、おしつけないように。母が父の機嫌を取る時いつもやっているように。大抵は、バーゲンでどふりふり服を買い過ぎた時によくするやり方だ。
 南雲くんはすぐに横を向いた。へらへら口調ではない。
「別に、そんなこと」
「ほんと? 私、あきよくんに思いっきり嫌われたかと思ってひそかに焦ってたんだ。よかった!」
 過剰なくらい「よかった」を繰り返してみる。どうもまだひっかかりが取れたわけではないだろうが、決定的に「お前とはしゃべりたくねえよ」と言われるよりはまだ、友情の脈はある。
「嫌われる?」
 目をアルコールランプに向けたまま南雲くんはつぶやいた。語尾は上げている。疑問形だ。
「やっぱりみんな仲良しな方がいいに決まってるもん。ね」
「仲良し、だけかよ」
 やはりまだ、許してくれてなさそうだ。いやはやと肩をすくめたくなる。でも彰子が話をすればなんとかなりそうだ。滑らかに言葉を緩めた。
 薄いあめ色のアルコールがランプの底で揺れている。キャップが揺れていた。マッチがないことに気づいて慌てて引き出しから取り出した。
「そうだよ。あきよくん。いつも思うんだけどね、私ははっきり言って一生ミスコンテストには縁のない顔してるし、親にはいっつも痩せろ痩せろって言われてるけれど、でも誰よりも得してるってね」
「得?」
 今日の南雲くんはずっと語尾を上げっぱなしだ。
「うん、私の身の回りにいる人って、みいんないい人ばかりだってこと。この前、小学校の友だちが私を迎えにきてたって話したよね。私、男子も女子もみんないい人ばかりがそばにいるから、安心して話ができるんだ。お母さんにも、私が人を信用しすぎるって言われるけれど、だって信じられる友達ばっかりだもの。ほら、あきよくんだって私にとっては、いい友だちだよ」
 一番わかりやすい言葉だろう。彰子のわかる範囲内で、一番南雲くんに伝わると思う言葉だった。
「友だち、かよ」
「そう。だから、そうでなくなってしまったらやだなあって思ってたの。怒ってないって分かったから、もう私も安心したな。よかった。じゃあこれ持っていくね。戸を開けてください」
 もう大丈夫だ。まだ機嫌を直したとは思えないけれど、友だちとしては問題なかろう。安心して彰子は両手を木のおぼんにかけた。持ち上げようとしたが押さえられた。右手側を抑えられた。小指だけ、南雲くんの掌に触れていた。
「あ、持って行ってくれるの?」
 答えはない。力が入っている。持たせようとはしていない。
「早く行かないと実験の準備が終わらないよ。いいって。私が持っていくからね」
 もう一度持ち上げようとしたが、さらに押さえつける。彰子の右肩に、南雲くんの顔が乗っかりそうだった。髪の毛が少し耳もとに触れた。
 息遣いが荒い。疲れているんだろうか。
「俺のことは、友だちなのか」
 耳もとに、息をたっぷり込めた言葉が流れてきた。
 気配が違う。
「そうだよ。それよりどうしたのあきよくん。具合悪くなったの?」
「答えてくれ。俺のことは、それだけなのか」
「それだけって、何が?」
「金銀のまだら自転車の奴、あいつよりも、俺は友だちなのか?」
 ──ナッキーのことだ。
 金銀まだらの自転車は趣味でなかったのだろう。思わず笑いたくなった。そういえばナッキーも南雲くんのことを「なんとなくむかつく」と言っていたっけ。
「そうだよ。ナッキーはそうだね、ちっちゃい時から友だちだよ」
「この前迎えに来ていた奴は?」
 ──時也のことだろうか? 
 調子が狂いそうで彰子も懸命に答えた。
「見てた? 時也も、友だちだよ。だから一緒に耳鼻科にお付き合いしたんだよ」
 そっと、横目で南雲くんの顔をうかがおうとする。うっかり顔をずらしたら顔と髪の毛がべっとりくっつきそうになる。そりゃあ、嫌だろう。できればもう少し、離れてほしいのだけど。でも下手なこと言ったら返って怒られそうだ。ただでさえ南雲くんのご機嫌は斜めなのだから。
 ──困ったなあ。逆効果だったかも。私ってほんっと、ばか!
 思い切りため息をついた後、彰子は軽く木製おぼんを持ち上げた。
「ほら、早く行くよ。うっかりここで落としたら、アルコールがぷんぷんで先生に怒られちゃう」
 もちろん笑顔を絶やさなかったつもりだった。戸口へ向かおうとつま先を出した。

「行くなよ!」
 鼓膜が破れるかと思った。まだ南雲くんの口元は彰子の耳もとに残っていた。
「俺の話、まだ終わってないだろ、奈良岡さん」
「だから、どうしたってのよ。あきよくん」
 耳を押さえきれず彰子はもう一度、アルコールランプを実験机に置いた。
「俺は、あんたのことを友だちなんかだと思ってなんかねえよ!」
「え?」
 力が抜けそうになる。思わず指先を離した。
 あれだけあやまっても、だめだったらしい。
 何を言っていいかわからない。彰子は首を振っていた。
「あきよくん、ごめ……」
「違う、聞けよ!」
 自分の手がいきなり厚く覆われた。指先が動かない。南雲くんの指先がしっかと押さえてくる。握り締められたと気づいたのはまだ後だった。
「ちょっとちょっと、あきよくん、なんかとんでもないとこ掴んでるよ。ほらほら、離して。また噂されちゃうよ。私なんかと……」
「されるなら本望だ!」
 逆効果。完全に彰子は読みを誤った。手の甲からにじんでくる湿り気は汗だろうか。顔をのぞけず、だんだん心臓の鼓動が指先のぬくもりと重なってくる。いつもの南雲くんの口調ではない。いつものように
「あれ、ねーさん、どうしたっすか」
と声をかける明るい「あきよくん」ではなかった。
 視界に入る南雲くんの顔に笑顔はない。彰子が分かるのはなんかわからないけれど南雲くんが本気だってことだけだ。
「本望ったって、そりゃ困るでしょって」
「好きな相手に好きだといってどこが悪いんだ!」
「は?」
 手が離れない。完全に南雲くんの中のモーターが暴走している。彰子の中の精神的鼓膜が破れていく。
 ──好きな相手に好きだと言って、って、あきよくん、まずいよそれは。
 南雲くんの言葉は途切れず、まだ手を離してくれない。状況が把握できないまま、言葉が続く。
「奈良岡さん、俺、軽いと思われてるだろうけどさ、今言ったことは嘘じゃない。ほんと。それだけは信じろって」
「だから、あきよくん、ちょっと待って。頭の中が混乱してるんだけど」
「話は一言だけだって。奈良岡さん、俺は本気だ。付き合ってください」
「付き合うって、でもあきよくん、言いたくないけど確か、先週」
 彼女と別れたんでしょ、言うつもりだった。遮られた。
「好きな子ができたから、別れた」
「好きな子って、今の話だと下手したら私のことになっちゃうよ、日本語文法上、それはまずいでしょいくらなんでも」
「まずくないって言ってるだろ!」
 南雲くんの顔を見ないようにして、彰子はひたすらアルコールランプのふたを数えていた。さすがに心臓がとくとく言い出してきた。
 繋がらない。南雲くんと「告白」の意味がわからない。
 第一、「付き合ってください」ったって、いきなり言われても困る。
 彰子が知りたいのは、南雲くんが彰子のことを「友だちじゃない」と言ったのに、なぜ「付き合ってください」になるのか、そのつながりだけだ。一生懸命彰子があやまっても許してくれなかったのに、なぜ、今になっていきなり「付き合って」と言い出すのか、わからない。
 ──どうしよう、どうすればあきよくんを冷静にさせられるんだろう。
 ──きっと、私がまだ怒らせてるかなんかしてるのかも。
 ──だって、今の話からすると、私と付き合いたいってこと言ってることになっちゃうよ。  ──それだったらいくらなんでも、あきよくん、いやでしょう。
「奈良岡……彰子さん、俺と」
 さすがの彰子も黙るしかない、混乱を制する一言が、南雲くんの口からこぼれた。
「南雲秋世と、付き合ってやってください」
 おそるおそる横を見る。目が合った。からかい調子だったら笑ってごまかそうと思った。でもだめだった。彰子の目からみても、南雲くんの瞳は少しだけうるみ加減、笑みは目尻一滴残っていなかった。
 ──なんで?
 あらためて指先の神経を震わせてみる。じわっと南雲くんの手のひらから熱いものがにじんでくる。
「もし、あの自転車野郎と付き合っていたとしても」
「ううん、それはないよ。ないけど、ちょっと待ってね。あきよくんちょっと」
 失神しそう、ってきっとこの瞬間のことを言うのだろう。
 いいかげんな言葉を返したら、何が起こるか分からない。アルコールランプに火がついてしまったのだろうか。少しだけ底のアルコールが揺れている。あめ色に光っている。
 ──どうしよう……。
 ちょうどチャイムが鳴った。足早に駆け出す気配あり。廊下に誰かがうろついているらしい。急いで教室に戻らなくてはならない。頭の半分で冷静に考える彰子がいた。
 まだ「あきよくんの前では笑ってあげなくちゃ」と命令する自分がいた。
「あきよくん、今のこと、また、あとで聞くね。ごめんね」
「ごめんって」
「いや、そういう意味じゃなくて、ごめん、私、なんかまた変なこと言っちゃいそうだから、ちょっとだけ時間ちょうだいね。あの、とにかく」
 精一杯両腕に力をこめて実験セット一式を持ち上げた。やっと南雲くんの手も離れて落ちた。
「とにかく、教室に戻ろうね。私持っていくね」
 返事は待たない。とにかく理科準備室を離れないと、またとんでもない言葉を口走ってしまう。
 奈良岡彰子の人生において生まれて初めて聞かされた「付き合ってやってください」という言葉。
 どう調理していいのかわからなかった。
 言葉をおさかなさばくように解剖する時がほしかった。
 ──付き合って、って。
「奈良岡さん、俺は」
 南雲くんの追いかける声が何を言っているのかわからない。開けるのを待たず、背中で戸を押して彰子は廊下に出た。あぶなく転びそうになり、バランスを取った。もう人通りはない。二年D組の教室は同じ階だから階段を昇らないですむので急ぎ早に歩を進めた。風が窓から砂埃を巻き上げている。咽にひっかかりそうで咳が出た。背中越しに南雲くんがついてきているかと振りかえったが、いなかった。
 ──どうしよう、とんでもないことになっちゃった。
 教室の扉に佇んだ時だった。

「おい、聞いたか聞いたか?」
「まじかよ、ほんとか?」
 確かに扉越しすごい騒ぎになっているとは感じた。誰かにドアノブを開けてもらいたかったから、戸口席の誰かに合図するつもりで立ち止まっただけだった。盗み聞きなんてしようと思っていない。勝手に聞こえてくる。誰がしゃべっているのかなんてわからない。男子と女子だと、わかるだけ。
「えー、南雲くんが彰子ちゃんに告白しちゃったの?」
「うそでしょ! だって南雲くんには彼女がいたくせに」
「ううん、別れたってC組の子からは聞いたよ。彼女ショックで泣いちゃったらしいけれどね」
 早口だ。息を継がないで事実関係をどんどん積み上げていくのが女子のしゃべりだ。
 手元のアルコールが揺れている。
「おいおい、それほんとかよ」
「だって今、理科準備室で死ぬほど恥ずかしいこと、あいつが言ってるんだぜ。信じられるかよ」
「なになに?」
「付き合ってくれって。奈良岡のねーさんが露骨にいやがってるのにさ、南雲の奴、手を押さえつけてさまるでなんか脅迫してるって感じでさ」
「ちょっと待った。本当に相手は奈良岡だったわけ?」
「だから俺だって信じられないんだってさ」
 うろうろ、前側の戸に移動してみる。あまりにもタイムリーな話題に飛び込めない。さすがに彰子でもそこまでクラスの注目を浴びたくなかった。
 
 C組側の位置からは、同じく勢いよく盛り上がる声が飛び込んできた。やはり女子だった。 「聞いた? 今D組の男子が話してるの聞いたんだけど、……ちゃんの彼がとんでもない女とできちゃったんだって」
 ──とんでもない、女?
 口の中にセメントを流し込まれた感じだ。身体の節々が堅く、こわばってくる。耳だけがそよいでいる。聞き取ろうとしている。廊下にはまだ誰もいない。先生がくるかこないかの瀬戸際だ。
「ほらD組のすっごく太った子いるでしょ。あの子だって」
 ──そりゃあ、私のことだろうなあ。私より大きい子って男子もそういないもんなあ。
「知ってる知ってる、保健委員やってる、すっごく性格いい子でしょ。ああいう子大好き」
「性格はいいかもしれないけど、あの顔とあの体型だけで、私は絶対いや! 見てると暑苦しくってうっとおしいよね」
 彰子は一歩ずつD組側に横歩きして移動した。ずっと両腕で抱えているからどうしようもなかった。

 彰子は後ろを振り返った。ようやく南雲くんが廊下の向こうから現れた。
 気まずそうに、うつむき加減で、でも目をそらさずに。
「あの、さっき」
「あ、ご、ごめん。ちょっと私、おなか痛くなっちゃったみたいなんだ。今日の実験、パスするね。やだなあ。もう、なんか変なことばっかり言ってるね。じゃあ、これ、お願いします!」
 真っ正面に向かい、両手で差し出した。ランプの中のアルコールが、右左と揺れていた。
「俺、本気だからな、それだけは信じて」
 言いかけた南雲くんに小さく首を振り、目一杯笑顔をこしらえた。かなり無理していた。
「ほら、私は気にしないから。ね。私はただあきよくんの友だちでいたかっただけだから」
 がしっとおぼんを押さえてくれたのを確認してから、ぱらっと手を離し、一歩、二歩と後ろずさりした。
「ほんと、変なこと言ってごめんね!」
 髪がぱさぱさきしんでいる音が聞こえる。心臓が壊れそうだ。こう言う時こそ、青大附中の保健室は守ってくれる場所だと思う。保健委員だって身体と心の調子がよくない時はあるのだ。今、利用しなかったらどうするっていうのだ。
 全く冗談めいた風に南雲くんの表情は崩れなかった。だから怖かった。手に残った汗ばんだ感覚が、今ごろになり蘇ってくる。彰子は急いで階段を下りた。保健室は一階の職員室隣りにある。
 

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