第三章:不安
凛として冴えわたったものが、そこには漂っていた。聡明さと決断力を秘めた、目元と口元。私は素直に、それを美しいと思った。そこには一つの空間があり、私は声をかけることでそれが壊れることを恐れた。
せみ時雨だけが聞こえる、静かなひとときが流れて行く。目に沁みる緑の中に、そのまま溶け込んでいきそうな錯覚に捉われた。時間がループするような感覚。その中に心を預けそうになった時、彼女は再び口を開いた。
「・・・羨ましいな、そういうの。」
「え?」
「どうして、そこまで愛せるんだろう・・・? 私には分からない。」
私が黙っていると、彼女は挑むような笑みを浮かべて言う。
「ね、もっと先まで行きたいって、思ったことない?」
「えっ?」
どきりと心臓が跳ね上がる。耳たぶが、かっと燃えた。
委員長は何を言おうとしているのだろう。私に何を言わせたいのだろう。私を試しているのだろうか。それとも自分の体験を告白したいのだろうか。思考がどんどん先回りする。彼女の考えていることがつかめない。私は仕方なく、逆に問いを発した。
「・・・どういう意味?」
彼女はそれに答えず、いきなり核心に入った。
「私、許したの、彼に。」
がんと、頭を殴られたような気がした。一瞬、彼女が遠ざかったような気がする。怜悧で整ったその顔立ちが無彩色になり、目に見えないものが間に立ちはだかったようだった。複雑な感情が頭の中を交錯し、私は今初めて見るような気持ちで、茫然と彼女を見つめた。
私の変化を、彼女も敏感に感じ取ったようだった。渇きにも似た表情が、目元に浮かぶ。すがるようなまなざしが私を捉えた。
「・・・何故?」
私は、空気の塊を喉から押し出した。何かにからまったような声だった。
何故、私にそんなことを言うのか。兄の交際相手に過ぎないこの私に。そう言いたかったのだが、語尾はかすれて消えた。彼女はその言葉を違う意味に取り、弁解するように言葉を継いだ。
「尊敬できる人だと思った・・・兄の親友で、いつも私を気遣ってくれて。半年前に交際を申し込まれて、私、この人ならと思った。つき合い始めて・・・彼の優しさに触れて。舞い上がるようなときめきはなかったけれど、私、こんな性格だから、そういうものだと思ってた。彼もきっとこんな私を理解してくれているって。だから求められた時、後悔なんてしないと思った。けれど・・・。」
彼女の表情が曇った。視線が眼鏡の蔭に隠れ、膝の上で組み合わせた指を組み替える。
「それから、彼が見えなくなった・・・。彼は彼だったけれど、あの人の立っている高さが感じられなくなったの。そうしたら・・・自分が分からなくなって。私、本当にこの人を好きだったのかなって。」
意外な話のなりゆきに、私は息を呑んだ。こめかみが脈打つのが感じられる。こんなに頼りなげな委員長を見るのは初めてだった。印象が拡散し、輪郭が薄れていく。その感覚を裏付けるように、彼女は張りのない口調で続けた。
「手足が自分のものじゃないような・・・ひどく頼りない感じで。何かがなくなったような感覚なの。一人で立っていられないような・・・何かが足りないような。彼の態度が変わったとか、そういうことじゃないけれど、でも確かに変わったものがある、そんな感じがするの。彼と二人だけの時間を過ごしている時、『こんなはずじゃない』って。彼の手が触れると、胸の底が白くなるの。・・・それが分かったら、頭の中がもやもやしてきて。私、何をしているんだろう・・・なくしてしまったものを取り戻さなくっちゃって、気ばかり焦って。そのくせ、何もかも面倒くさくなって、放り出したくなってくるの。」
「・・・彼に、相談してみたの?」
「言えない、こんなこと。彼は優しいし、私のことを考えていてくれる。私がこんなふうに思っていること、知られたくない。」
「でも、それじゃ・・・。」
「分かってる、このままじゃ何も解決しないって。でも、どうしたらいいか分からない。どうしたらあなたみたいに愛せるのか、自分を取り戻せるのか・・・。」
「・・・彼のこと、愛していないの?」
「分からない・・・今は自分の気持ちがつかめない。ただ、こんなものじゃないっていう気がする。」
彼女は、俯いて黙り込んだ。
沈んだ雰囲気が私たちを包む。これは、私にとっては大きすぎる問いだった。私はこれまで、そういう突き詰めた形で彼とのことを考えたことはないし、そういう余裕もなかった。とにかく彼の許へ昇って行こうとするだけで精一杯で、日々の明け暮れを過ごしてきた。そうして彼は、自分も進みながら、そんな私を見守っていてくれた。
ふと、不安が脳裏をよぎる。
彼は、私を愛してくれているのだろうか。世間一般の男性は、キスをしたらその次を求めるものではないのか。若い男性の生理とは、そういうものなのではないか。なのに何故、彼は求めてこないのだろう。私が現状に満足しているからといって、彼もまたそうだとは言えないではないか。彼は、私のことを、どう考えているのだろう。「恋人」ではなく、ただの「女友達」だとしたら、私は・・・。
考え出すと、どんどん悪い方へ想像が膨らむ。そうしなければ彼の気持ちが離れていくというなら、私は彼に許すべきなのだろうか。彼が私に求めてこないということは、他にそういう対象がいるからではないのか。私は彼にとって、どういう存在なのだろう。身体だけを対象にされるほどおぞましいことはないが、逆に全く求められないというのは、私に魅力がないからではないのか。それとも彼は、私を理解した上で、自重してくれているのだろうか。それは私を大事に思っているということなのだろうか。 >
分からない。
私は、これまで彼を理解していると思っていた。そして、彼に理解されていると思っていた。私たちは、お互いを信頼し、一つの高みを目指して進んでいるのだと。けれども、委員長の告白は、その確信を大きく揺り動かした。今まで私が考えてきたことは、私の勝手な思い込みではないのか。彼にとっての私は、私にとっての彼より小さい存在なのかも知れない。彼女の言うことは、他人事ではない。私だって、彼のことが見えていないではないか。そう考えると、胸がずきんと疼いた。
「・・・ごめん、こんな相談しちゃって」私の表情の変化を見て、彼女は慌てたように言った。「あなたまで不安がらせてしまうつもりはなかったのに。」
私は力なく首を振った。彼女の陥っている空洞に、自分も落ち込んでしまったことが分かる。こんな些細なことで動揺するなんて、何と私の気持ちは脆いものだろう。たまらなく、彼に会いたくなった。会って、彼の気持ちを確かめたい。焦りにも似た思いに、私の心は浮き足立った。視線が落ち着きなくあたりを彷徨う。周囲の景色が、寒々としたものに見えた。『廃園』に突き放されたような感覚に、私は自分を失いかけた。