第四章:抱擁
茫然と座っていた私は、不意に抱きつかれて我に返った。
はっと視線を戻すと、委員長が私の胸に顔を埋めている。咄嗟に何が起こったのか分からず、そのままじっとしていると、背中に回された腕に力が込められた。
かすかに、シトラス系の香りが鼻腔をくすぐった。彼女は私の背中の布地を掴み、細かく肩を震わせている。それはまるで泣いているように思えたが、委員長が泣くなどということは信じられなかった。どう対処したら良いか分からず、私はおずおずと手を伸ばし、彼女の肩を抱きしめた。それは、普段見ていたよりずっと華奢な感じがした。
奇妙な連帯感が湧き上がり、彼女の心が伝わってくる。こんなに身近に彼女を感じたことはなかった。彼と会っている時に感じる、不思議な感覚・・・『心が重なる』ような感覚が、私を捉えた。一瞬私は、彼と二人だけで『廃園』にいるような錯覚に陥った。
さやさやと葉ずれの音がした。何故かはわからないが、その音は私を安心させてくれた。私が、自分の世界を失っているのではないということを、それは知らせてくれたように思えた。心が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。私は、徐々に温かみを増す周囲の光景に心を開き、そうして一つの言葉を受け取った。
ああ、そうなのだ。
胸の中に温かみが広がる。私はそれを忘れかけていた。自分が自分であるために、一番大切なこと。決して忘れてはいけないこと。全てはそこから始まるのだ。だから『廃園』は、私を突き放そうとしたのだ。私はその言葉を噛みしめ、自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと口に出した。
「・・・信じること。」
ぴくりと、彼女の肩が動いた。顔が上がり、私を見上げる。その瞳を通して、彼女の気持ちが伝わってくる。私はそれに向かって、そっとつぶやいた。
「自分と、彼と、周囲の全てを信じること・・・あるがままを受け入れ、それに向かって進むこと。・・・私にはそれしかできない。」
「・・・真理絵?」
「父が・・・洋さんとおつき合いをする時、そうだったの。家で会ってもらって、いろいろお話をして。それまでは、折に触れていろいろ彼のことを私に尋ねたりしたの。でも、一度会った後は、何も詮索しなくなった。」
「・・・」
「その時、父は言ったわ。『一度信じたら、疑ってはいけない』って。『信じて裏切られたら、自分の未熟を恥じればいい』とも言った。・・・相手が信じられるということは、自分を信じているから。自分が信じられるのは、周りの人たちが信じてくれるから。私、そう思う。・・・耀子、私、あなたを信じてる。だからあなたは、もっと自分を信じるべきだと思うの。」
「・・・」
「なくしたもの・・・あなたはそう言ったけれど、私は違うと思う。それは、なくなったのじゃなくて、形を変えただけだって。手を伸ばせば届くところに、それは必ずあるって、そう思う。」
「・・・」
「相手の人の立っている所・・・自分の立っている位置。信じて見回せば、きっと見えてくると思う。だって」私は彼女の瞳に微笑みかけた。「私にはこんなにはっきりと、あなたが見えるもの。」
「真理絵・・・」
彼女は、また私を抱きしめた。耳元に吐息がかかり、「ありがとう」と優しい声がささやく。しっとりとしたその声に、私は思わずはっとした。首を動かすと、目の前に彼女の顔がある。桜色の唇がふっと開き、笑みを作った。
「あなたなら、必ず答えを出してくれると思った。」
次の瞬間、唇が私の唇に重ねられた。一瞬、何が起こったのか分からず、頭の中が真っ白になった。茫然とする私から素早く身体を離すと、彼女は肩をすくめて笑い、スカートを翻して走り去った。後に残された私は、目を見開いたまま、しばらく動くことができなかった。
唇に手をやると、燃えるように熱かった。首筋にかっと血が昇り、頭の中でわーんと音が響く。どっと時間が動き出し、いくつもの思考が胸を駈け巡る。思わず立ち上がった私は、眩暈を感じてベンチに座り込んだ。
思考が混乱し、胸の中が波立っている。高まる鼓動に、耳の奥が疼いた。彼女の行為の意味を掴みかねて、心がかき乱される。そこから導き出された一つの可能性を、私は首を振って否定した。思考は出口を失い、堂々巡りを繰り返す。答えを出すことができなくなった私は、ベンチに縛りつけられたように動けなかった。
ゆっくりと、日が翳っていく。ヒマラヤ杉の影が濃さを増し、『廃園』は夕暮れの中に沈もうとしていた。涼やかな風が身体にまといつき、私は自分の居場所を探して、落ち着きなく視線を彷徨わせた。
空回りしていた思考は、やがて胸の奥に沈み込み、一つのものを形作った。私はそれを封印し、鍵をかけて一番奥深いところにそっと置いた。答えを出してはならないもの、触れてはならないもののように。
私は、彼に秘密を持ったことを自覚し、茫然とベンチに座ったまま、暮れ行く廃園の佇まいを見つめていた。
BACK◆