■芙蓉雅@西川京介さまのオリジナル詩篇・童話・小説は 「芙蓉雅オリジナル小説と詩の館」
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■登場人物
新井林健吾・杉本梨南・佐賀はるみ
◆◆◆
──健吾がいけないのよ、わたしのことをひとりにするから。
わかってくれている、と思っていた。はるみだけはどんなに遠く離れていても、俺のことをわかってくれていると……。
健吾は寒い冬の青潟の街を歩きながら、コートの襟を立てた。格好つけているというわけではない。ただ冷たい風が目に染みて、不覚にも涙がこぼれ落ちそうになっただけだ。
──喫茶店、ローエングリン。
ふと、ふくよかなコーヒーの香りが鼻をついた。そしていつも客引きをしている柴犬が、健吾の膝に擦りよってくる。
「……お前、俺の膝のこと、知ってるのか?」
首輪にローエングリンと名前の書かれている柴犬は、知っている、と言い他毛に尻尾を振っている。健吾はローエングリンの頭を撫でると、金色に縁取られた喫茶店の扉を開けることにした──なんという飼い主孝行な犬であろうか。
健吾はオペラのかかっている狭い店内を眺め、窓際の、ローエングリンを見ることのできる席へと腰を落ち着けることにした。ローエングリンは身体を丸めながらも目を薄く開け、次なる通行人が現れるのを待ち構えている。
「御注文のほう、お決まりでしょうか?」
「……ホットコーヒー、ひとつ」
とにかく、芯から凍えている体を早く暖めたいと思った。そして健吾はテーブルの上に水を置いた、感じのいい声のウェイトレスを見上げて絶句した。
「かしこまりました」
相手は自分が誰か気づいているふうでもなく、ポニーテールの長い髪を揺らしながら、カウンターでグラスを磨いているマスターに声をかけている。杉本梨南、だ。
──よりによって、何故こんな時に。
健吾はまたしても愛想良く通行人に尻尾を振っている、ローエングリンのことを恨みたくなった。青潟附属中学の制服を着た、カップル風の男女だ。また今度ね、と言って女の子のほうがローエングリンの頭を撫でている。
──また今度、か。
「そう気を落とすなよ、新井林。今度の大会が駄目でも、その次があるじゃないか。今は膝の治療に専念しろ」
鬼コーチ、権堂の言葉が今も耳に谺している。確かにチームメイトから鬼畜呼ばわりされるほどの監督ではあったが、彼は見込みのある選手であればあるほど、コーチ魂を燃やすという男なのだ。その男が気味の悪いほど優しいということは、逆に選手としてもう駄目だと言われたも同然のような気がして、堅固はやりきれなかった。
──しかも、驚かせようと思って突然会いに行った恋人の濡れ場まで目撃しちまうなんてな。
その上ふと立ち寄った喫茶店では、かつての宿敵・杉本梨南がウェイトレスをしていたと、こういうわけだ。
──この世に、今の男ほど不幸な男がいるだろうか?
いや、いない、と健吾が反語で打ち消していると、コーヒーが運ばれてきた。
「お待たせいたしました」
健吾はローエングリンの姿をじっと窓から見つめているふりをして、杉本梨南のほうには顔を向けなかった。そして彼女が立ち去ってからその後姿を振り返り、やはり間違いない、と確認した。
それにしても変われば変わるものだ、と健吾は思った。そもそも、こんな小さな喫茶店でウェイトレスをしているというあたりからして健吾には解せない。あの女の親は、娘がウェイトレスなんぞしようものなら、気違いにさえなりかねないような、そんな親だったはずだ。確かに今は冬休み。大学の休み期間を利用してバイトに励む奴はいくらでもいる。だがあの女は──……。
そこまで考えて健吾は、慌てて杉本梨南のことを目で追うのをやめた。もちろん向こうは気づいていないのだが、何故自分があの女のことなぞ目で追わねばならないのか、自分自身に腹が立ったからだった。
杉本梨南はカウンターの客に笑顔で愛想をふりまき、なにやらオペラの話をしているのらしかったが、健吾にはさっぱりちんぷんかんぷんだった。しかもその男、話口調や口の端のゆるみ具合からして、どう見ても杉本梨南目当てにカウンターの席に座っているとしか思えない。一度など、見るからにいやらしげな目で、あの豊満な胸に見入っていたではないか。
──あいつ、あんな顔して笑うんだ。
健吾の思い出せる杉本梨南の顔は、無表情かムッとしたような怒った顔か、さもなくば人を小馬鹿にしたような冷笑かのいずれかだった。しかも愛想笑いまでできるようになっているとは、これはもう驚きとしか言いようがない。
カウンターのインテリ風の男は、オペラやクラシック音楽についてうんちくを語り尽くしたあと、店を出ていったが、立ち去り際にレジ台の前で杉本梨南にこう言うのを忘れなかった。
「例の約束、覚えておいてくれよ」
──例の約束ってなんだ?
思わず健吾はもう一度杉本梨南の方を振り返り、そして慌てた。あやうく、視線と視線とがぶつかりあうところだった。
「ごめんなさい、西條さん。あいにくその日は友達がライブをやることになって……本当にごめんなさい」
インテリ風の男は、君には振られっぱなしだな、などといかにも70年代風のドラマ風な科白を吐きながら店を出ていったが、ローエングリンが彼に目もくれなかったところを見ると、おそらく杉本梨南も『もう来るな』と思っていたのに違いない。
──ふうん。あの女、結構もててんじゃねえか。まあ、昔ならともかく、今ならな。あのルックスとデカパイとで、馬鹿な男を手玉に取るなんてことなら、簡単なことかもな。あの女の本性を見抜けない、馬鹿な男が相手なら……。
そこまで考えて健吾は、自分が七年以上もつきあった恋人の本性を見抜けなかった馬鹿男であったことに気づいて、自嘲した。いや、自分の場合、馬鹿男どころではなく、間男だ。
──健吾が悪いのよ、私のことをひとりにするから。
バスローブだけを身に着けたはるみは、別れ際、彼女のマンションの玄関先でそう言った。
本当は、数ヶ月前から気づいていなかった、と言えば嘘になる。着ているものや身に着けているアクセサリー、バック……どれも高級そうなものばかりだった。でも彼女は高級そうに見えるけど、実はイミテーションの安物なのよ、と笑っていたのだ。そして健吾もまた、久しぶりに自分に会うので、はるみもはりきっておめかししたのだろうというくらいにしか思っていなかったのだ。でも今日、二ヶ月前に引っ越した、というマンションを訪れてはっきりした。ベットの中にうずくまっている、少し太り気味の中年男──あの男がはるみの胸やら腰やらに触れているところを想像しただけで、吐き気がする。
「……健吾」
不用心なことに、鍵が開いていた。仄暗い光が、窓からカーテンを通して斜めにさしている。
「はるみ、これは一体どういうことなんだ?」
健吾が掠れた声で聞くと、はるみは意外にも冷静に、隣の部屋へ行くよう目で示した。う……ん、と隣の中年男が身悶えたが、すぐにすーすーとのんきな寝息を立てている。夕べはそれだけ楽しんだってことかよ、と健吾は男を殴りつけてやりたい衝動にかられたが、かろうじて押えた。頭の中で、これは何かの間違いだ、とリピートする声が聞こえる。
「見てのとおりよ」
はるみは素裸のままベッドから起き上がると、床の上からバスローブを拾上げ、それを隣のリビングで着た。
「こういう女なの、あたし」
健吾は思わずはるみを平手で打っていたが、すぐにそのことを後悔した。自分が真に打つべきなのは、殴るべきなのは、隣の寝室で寝ているあの中年男のはずなのにだ。それなのに。
「……はるみ?」
隣の寝室から、寝ぼけたような声が聞こえてきた。どうやらまだ事態の深刻さに彼は気づいていないのだろう。
「さあ、気がすんだのなら早く帰ってよ。彼はきのう仕事が忙しくてくたくたなの。こんな面倒なことで気を遣わせたくないわ」
そうかよ、と健吾は唇を噛み、かつて守りたかった汚れなき存在に背を向けて、逃げるように走り去ろうとした。
「……健吾が悪いのよ、わたしのことをひとりにするから」
マンションの玄関先まで追いかけてきたはるみは、最後にそう言った。
「あんな男がいいのか? あんな……胸毛が生えていて三段腹の……」
「人を見かけだけで判断するのは良くないわ。彼、すごく優しくていい人よ。最初はただ淋しくて酔っ払った勢いでだったけど、彼、わたしさえいてくれたら、他には何もいらないって言ってくれたもの。美女と野獣というより、美女と猛獣だよな、これじゃあ……って、笑いながら……」
「要するに、俺よりあの男を選ぶっていう、そういうことだろ?」
健吾ははるみの泣きだしそうな顔を見るなり、逃げ出したくなった。浮気じゃなく本気ってことだ。はるみの泣き顔なんてもう二度と見たくない。小学時代だけでたくさんだった。
──はるみを泣かせないためにこそ、俺は存在してるんだって、そう思っていたのに……。
冷えたコーヒーの中に一滴、涙がこぼれ落ちた。自分はもう駄目かもしれないと、自己憐憫の情が次から次へと湧いてくる。
「お客さま、コーヒーをとりかえましょうか?」
ふと気づくと、杉本梨南がすぐ隣に立っていた。注文したコーヒーに一口も口をつけず、呆けた顔で30分以上も店の外を眺めている客──しかも今、店内には健吾ひとりしかいない。もしかしたらこれから自殺でもしそうなくらい、思いつめた雰囲気を自分は醸しだしていたのかもしれない。
「……いや、いいよ」
健吾は掠れた声で言い、コーヒー代の350円をテーブルの上に置いた。そして杉本梨南と目を合わせないようにしながら、喫茶店の金色の扉を開けた。ローエングリンがまるで『ありがとうございます』とでも言っているかのように、物凄い勢いで尻尾を振っている。
「ははは、よせよ。もういくらお愛想ふりまいても、俺は二度とこの店には来ないよ」
健吾は名残惜しそうにくうん、と鳴いているローエングリンの頭を撫で、そして店の窓を振り返った。
──気づいてやがった、あの女。
杉本梨南は健吾の座っていたテーブルを拭きながら、こちらをずっと見つめていた。そして健吾と一瞬だけ目があうと、逃げるように窓から消えた。
──気づいていたんだ。俺が泣いていることに。それでお情けでコーヒーのおかわりを……。
そこまで考えて健吾は首を振った。いや、そうじゃない。さっきのはあくまでも彼女の<善意>だ。今の自分が昔の自分ではないように、杉本梨南もまた、俺の知っている昔の杉本梨南ではないのだから……そしてはるみも……。
健吾は冷たい風にぶるっと体を振るわせると、コートの襟を立てた。何も哀愁漂う北の街の男を演出したいからではない。ただ、頬をぬらす暖かい涙が、彼にそうさせたのだ。
──終──
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