〜空露澪さま(「とらぶるめーかーず」「ぶらいとわーるど メジロブライトの末脚」)から
「馬に描かれた館」10万アクセス記念:いただきもの〜
「とらぶるめーかーず」
番外編
11
俺が目を覚ました時は、外科病棟のナースステーション近くと思われる病室にいた。いわゆる回復室。手術直後の患者が一時的に入る病室だった。
俺が寝ているベッドは一番窓際だった。既に朝の光が差し込んでいる。
俺は酸素マスクをまだ付けたままの状態で、点滴やら何台かの機械に囲まれている。それでもって、ベッドサイドに尿を貯める袋があるところを見ると、 確かに……違和感がある。耳を澄ませば、酸素が吸入される静かな泡の音と、俺の心拍に合わせた機械音が聞こえる。
誰か居るかな、と思って見回してみると、おそらくこの病棟の婦長さんと思われる、三本線の入ったナースキャップを付けた 三十代半ばくらいの看護婦さんがいた。
「成瀬さん、気が付かれました? 手術は無事に終わりましたよ」
「終わった……今……何時?」
「朝の七時ですよ。手術は四時間ほどかかったものの、内視鏡下の手術で済みました。開腹手術になってしまうと、 もう少し入院期間が長くなりますけどね」
「あっ、でも今日……月曜日だよな。どうしよう、今日……会議……!」
今日は朝から営業会議があるのだ。遅刻する訳にいかない。
「その身体で仕事ができるはずないでしょう。お母様が会社に連絡しておくから、今は身体を治すことを第一に考えるように伝えてくれと仰ってましたよ。 カルテを見ていると、タバコが一日に一箱で、お酒が一日缶ビール一本とありますけれども、この際ですから、
禁酒、禁煙なさって下さいね。かなり辛い味付けがお好きだということですが、胃に負担がかかりますので、当分は刺激の強いものは避けて下さい」
「で、飯はいつから食えるの?」
「夕べ手術したばかりですよ。当分は絶食です。先生の許可が出るまでは無理ですよ。明日ぐらいから少しずつ歩いていただきますが、今日は絶対安静でお願いします」
嘘だろ、タバコダメ、酒ダメ、それどころか飯も食えないなんて……。
そこへ、俺の手術を担当した外科の先生が入ってきた。
「おはようございます。どうですか?」
「うーん、夕べの痛みは無くなりましたけど、傷のところが少し……変っていうか、痛い……というのとはまた少し違うのか……」
「まだ麻酔が完全に覚めた訳ではありませんので。覚めてきたら痛みは出てきますが、どうしても我慢出来ないようなら、 痛み止めの座薬を用意します」
「……有り難うございます」
それから、九時頃になると何となく院内の空気も活動的になるのを感じた。ただ、この部屋だけは そんな一日の雰囲気の変化にも関係なく、結構頻繁に看護婦さんが出入りしている。
相部屋の患者さんが一般病室に移ったかと思えば、暫くしてまた別の手術を終えたばかりの患者さんが入ってくる。
今頃は俺のいない状態でも、会議が始まって俺がいないことを除いてはいつもと同じ一日が始まっているのかと思うと、 何だかやりきれなくなってくる。
麻酔が完全に抜けてくる頃には、かなりの手術の傷の痛みが出てきた。ナースコールをして看護婦さんに痛み止めの座薬をもらったものの、 それでも痛いものは痛い。開腹手術に比べれば痛みは少ないです、と言われていたものの、しっかり痛いではないか、先生の嘘つき!
結局何もすることがないものだから、眠るしか仕方がない。さんさんと太陽の光が降り注いでいるにもかかわらず、俺は寝ることにした。
とは言え目を閉じたものの、脳までが眠っている訳ではなかった。
と言うよりは、傷の痛みで眠れない、と言った方が正しい。
回復室では、テレビを見ることもできない。一般病室に戻らないと無理である。寝るしかない。
目を閉じていたものの、誰かが入ってくる気配を感じた。目を開けてみると、病院事務の制服を着た葵だった。
「葵……」
「繁……大丈夫?」
一応勤務中ということらしく、ナチュラルメイクはしていた。しかし、いくらなんでも、情報伝わるの早すぎないか? 葵がここの院長の娘で、しかも事務をしているとは言っても……。
「康行から聞いたんか?」
俺が思い当たるのは、これしかない。
「ううん、あたし、出勤したらまずは救急で外来や入院した患者さんのカルテ入力をしているの。 その中に……繁のカルテがあって、びっくりしたわよ。同姓同名の別人かとも思ったけど、
生年月日まで一緒だし。どうなったの? OB会で飲み過ぎたの?」
「いや、先生の話やと……それも原因の一つやけど、仕事のストレスとか、生活習慣にも問題ありって言われた。風邪とか以外は病気知らずやったのに……。 でも、お前仕事中やろ? 仕事以外で俺のとこくる時は私服に着替えてからにしろ。公私の区別つけなあかんで」
「うん、ごめんね……。でも、どうしても繁のことが心配で……」
葵が目を潤ませ、涙がシーツに落ちた。
「アホ、泣くなよ。この泣き虫。一応手術は上手くいったし、一ヶ月ほどの入院になるってのはちょっときついけど、 こればっかりはしゃあない。早く……泣きやんで笑顔になって仕事に戻れ」
葵は頷くと涙を拭き、微笑んで俺に手を振ると病室を出て行った。俺は葵を目で見送った。
でも、ホントはすごく嬉しい。
俺が入院したのを知って、飛んできてくれるなんて……。
本音を言えば、もっと長く側にいて欲しい。
けれどもそんなことをすれば、病院内で噂になってしまうのは火を見るよりも明らかである。 院長の娘ともあろう者が、勤務中に一人の患者……それも男……のところへ制服姿のまま仕事以外でちょくちょく顔を出すとなると。
俺はともかく葵が悪い噂を立てられたら、まして、親父さんやお袋さんの耳に入ったら……葵の立場がなくなってしまう。
次の日、俺は歩行許可も出たことで、一般病室へと移った。しかしながら歩くことが許されるのはトイレ、洗面所、談話室のみ。 談話室内には喫煙スペースもあるのだが、俺には先生から禁煙令が出されている。それに、談話室に行ったところでまだ
ジュースやコーヒーを買って飲むこともできない。それに、トイレに行くのもお供の点滴を連れて歩かないと行けないので、 病室でテレビを見るぐらいしか楽しみがない。ぼーっとしているのは本来嫌いなのだが、する事がないので仕方がない。
それから俺は徐々に回復の気配を見せて、五分がゆから食事を取れるようになり、点滴も四六時中する必要もなくなった。 しかしながら、相変わらず禁煙令は出たままで、入院中でしかも手術後だから抜糸までは風呂に入れないというし、
入院中だから毎日ひげを剃ることもないか、と思っていたら無精ひげは生えているし、髪も寝癖は付いているし、 週に一度しかシャンプーをして貰えない、というのでかなり自分でも髪が油っぽい重さを感じて気持ち悪い。
幸いにも一般病室の方は、毎朝新聞屋が病室に新聞を売りに来るので買って、読む事ができる。 俺の場合は入院中、マンションに配達して貰う新聞は全部ストップを掛けて、代わりに病室に配達してもらうように頼んだ。
相部屋なのは手術をした中高年や長期入院しているのは大正生まれらしきじいさんなど。八人部屋の中で、俺が一番若い。 たまたま、俺がこの病室に移る前に盲腸で入院した中学生がいたらしいが、その中学生の退院と入れ替わりに俺が入ってきた。
スポーツ新聞を読んでいると、秋華賞の追い切り情報なんかが書いてあった。
当然ながら俺の本命はドーベル。キョウエイマーチも前走、ローズステークスを勝っているものの、 かなり危なかしい感じを受けた。まあ、今回の前評判ではドーベル、マーチ、そしてシーキングザパールの三つどもえの様相が強い。
ただ、見たところパールは二〇〇〇でもちょっと長いという印象だ。マーチが二〇〇〇でぎりぎりかというイメージなので、距離適性から考えると、 やはり楽に勝てそうなのはドーベルしかいない。
葵は最初に来てくれた時に俺がああいう事を言ったからか、五時半頃に私服に着替えた状態で顔を出してくれるようになった。
そして、土曜日は葵は半日だけの仕事というので、二時頃に来てくれた。
「明日……秋華賞やな?」
「うん、シーキングザパールが回避したね」
そう、シーキングザパールはやたら難しい名前の喉の病気とかで手術を受けたとかで、陣営からは秋華賞の回避が発表された。 こうなると、馬券的には迷う事はない。ドーベルの単勝、ドーベルとマーチの馬連。はっきり言って本命党の為のレースになる。
「だから、俺としてはドーベルの単勝に一万円突っ込むで。キョウエイマーチはペース配分がはまれば恐いけど、 マーチに勝てるのはドーベルだけって俺は思ってる。そんな訳で葵、お前……俺の代わりにドーベルの単勝馬券買うて」
入院している以上、俺は馬券を買えない。誰かに頼んで買ってもらわないといけない訳で、親父やお袋に頼むのはちょっと嫌だし、 康行や兄貴、遥では競馬をしないから頼みづらい。他の連中には俺が入院している事はオフレコにしてある。頼める相手は葵しか居ないのだ。
「うーん、あたし……ドーベル、マーチの馬連なら頼まれるけど、ドーベルの単勝ねえ……一番人気だから大して付かないよ。馬連にしなさいよ」
「かまへん、俺はドーベルを応援する為の馬券を買いたいんじゃ!」
葵の奴、キョウエイマーチを応援しているからあんな事言いやがるんだ。
「……解ったわ。明日、秋華賞を見に行ってくるから。けど、一万円なんて病室内に持ち込めないでしょ。 千円だったら立て替えてあげるわよ」
「それが……持ってる。一万円。ほら」
俺は引き出しから兄貴から遥と二人分として受け取った、見舞金一万円を取り出して葵に握らせた。
「一ヶ月も入院するなら、あんまり無駄遣いしない方が良いわよ。結構テレビカード代も馬鹿にならないから」
葵は俺に一万円を突き返そうとした。それを俺は半ば強引に葵に握らせた。
「ええ、頼むから買うてくれ。ドーベルの単勝を」
「うん、解った。明日は秋華賞が終わって帰ってから来るからね。あたしはマーチとドーベルの馬連一点で勝負するから」
「金を誤魔化すなよ。テレビでドリーム競馬見てるから」
そんなやりとりがあり、次の日、俺は秋華賞を病室のテレビで見ていた。見事にドーベルが終始二番手を走っていたマーチを捕らえ、 二馬身差を付けて勝った。俺は静かにベッド上でガッツポーズをした。配当金を確認したところ、一万円が一万七千円に化ける……。鉄板レースと言っても、ドーベルが勝ったし大満足だ。
三着に入ったエイシンカチータの複勝の方が馬連より付いている。
日も暮れた頃、葵がホクホク顔でやって来た。まあ、馬連一点勝負と言っていたのだから、馬券的には大した配当ではなくても、 自分が応援している馬も連に絡んでいるだけ良しとしないといけないってところだろう。
「繁、配当金だよ。はい」
と言って渡されたのは、三万六千円。まさか、これって……。秋華賞の配当を思い出すと、つじつまが合う。
「おい、金額が多すぎるぞ。俺が受け取るべき金額は一万七千円やろ?」
「ううん、間違ってへん。だって……繁から預かったお金も馬連買うたのよ」
「馬鹿やろう、そんな事して外れてたらどうするつもりやったんや!」
信じられねえ。キョウエイマーチを絶対視していたのか? 言うたらなんだけど、オークスで十一着に大敗してるんだ。ドーベルに比べて、ある意味危険要素が高い。
「外れた時は、ちゃんと弁償するつもりやった。でも……的中したから配当分を渡さないといけないと思って……」
「とにかく、俺は一万七千円しか受け取らねえからな。残りの一万九千円はお前の責任や」
「そんな事出来ひんよ。元はあたしが繁のお金なのに、一万円マークしてしまったマークカードに馬連をマークして、 千円をマークした方にドーベルの単勝、マーチの単勝、複勝、ドーベルとマーチの馬連に二千円をマークしたんだし。
気が付いた時にはもう券売機にマークカードを入れた後で……ホントにごめんなさい」
葵は馬券に五千円を使ったのか。って事は……いくらプラスになったんだ? 複雑な計算は嫌になる。
「お前……収支は?」
「一応、五千円買って、戻ってきたのが一万三百円よ。ほぼ倍ね。だから、繁にはちゃんと三万六千円を受け取って欲しいの」
「まあ、えっか。棚ぼたのこの一万九千円……菊花賞に転がす。天皇賞は別に買うつもりあらへんし、菊花賞でブライトの馬券買うわ。今度は間違うなよ」
俺は結局、葵から三万六千円を受け取った。
「葵、この事……絶対俺達だけの秘密にしといてや。あの金……元々兄貴と遥からの見舞金やねん。 馬券買うたなんて二人に聞こえたら俺、絶対怒られるし」
「解った。あたし達だけの秘密ね」
葵の事を憎いだとか思っていたけれども、何故か今になってもこうして二人だけの秘密を抱えてしまう。
帰ってしまう葵を見送りながら、俺は複雑な思いに駆られ始めた。