〜空露澪さま(「とらぶるめーかーず」「ぶらいとわーるど メジロブライトの末脚」)から
「馬に描かれた館」10万アクセス記念:いただきもの〜
「とらぶるめーかーず」
番外編
13
星田病院の面談室。競馬の方は菊花賞前夜というここらでメジロブライト、一冠取って名を上げろ! と言いたくなる 状況である時に、俺は退院を間近に控えながらも、こうして葵、康行と三人だけになって康行から最後通告的な言葉を聞かされた。
──繁、お前……葵の事をどう思ってる。正直に言え。お前の返答いかんによっては、俺かってそれなりの行動を起こさなあかん様になる。
背中がむずがゆくなるような感情を味わう。正直なところ、折角治りかけた十二指腸潰瘍がまた悪化しそうな感じだ。
「……俺の答えは、既に皐月賞の時に言うてあるやろ。宣戦布告されても、お前と戦争する気は持ってへん。 俺が葵を愛していない以上、俺とお前で争っても無駄やって」
すると康行は表情を変えることなく、一枚の紙切れを出した。それを見て、どきりとする。
「これ以上、警告とか出しても無駄って事か。それじゃ解った。別に俺はお前と絶交するつもりはあらへんけど、 俺が繁と友達として付き合い続けるのは条件付きになる。……今後一切、プライベートで葵と逢うのを止めて欲しい。これが条件や。
葵、俺は既に院長先生や副院長先生に話をして、了解は得ている。結納金を用意出来なくても構わないって言われた。あとは、葵の気持ち次第だって言われた。 今すぐに……とは言わへんけど、葵の気持ちさえ固まったら、これにサインして、一緒に区役所へ出しに行こう。
葵の繁への思いは、知っているつもりや。でも、こんな繁を追い続けている状態の葵をこれ以上見ていられへん。 葵が幸せになる事を……と思って、今迄は黙って見てたけれども、もう我慢出来ひん。葵、俺と……結婚して欲しい」
「康行くん!?」
そう言って、康行は既に夫になる人の項目については全て記入済みで印鑑も押してある婚姻届を葵に手渡した。
婚姻届はあとは葵が妻になる人の項目と、婚姻後にどちらの姓を名乗り、新たにおく本籍地、葵が署名捺印する欄だけが空欄である。 証人の欄には既に葵の両親の署名捺印がしてある。
「明日……菊花賞だろ? メジロブライトが勝ったならば、その記念にそのまま婚姻届を出せば、 メジロブライトが菊花賞を勝った日イコール、俺と葵の結婚記念日になる。葵が好きなった競走馬、メジロブライトのG1レースの勝利と、
結婚とのダブルの祝いができるやろ? 俺は全くの独り身だから、苗字が星田になっても構わへん。けど、繁はそうはいかへんやろ? ゆくゆくは、店を継いで欲しいって繁は言われているんやから。葵は……お前との結婚話がつぶれてから、
ご両親との間に深い溝ができてしまっている。その溝を埋める為に……俺が必要とされている。 だから俺はあえて教授になる道を捨てて、来年の四月にはスピ大病院を出て、星田病院の勤務医になる事も内定しているから」
そもそも、うちの両親が葵との結婚を反対した理由は戸籍上では俺が長男である為に、最終的には既に株式会社化した うちの店を継いで欲しいと言われている事……。兄貴は所詮、養子だから兄貴の思う道を進ませようとさせている。
堅い仕事に就いていて、それでいて今は遥と幸せにやっている事を満足している。
──あとは繁、あんただけね……。
この間、お袋に言われた言葉。兄貴も聡美も結婚し、兄妹では俺だけが独身のままだ。
その時、康行が持っている医師用のPHSが鳴り、康行が電話に出た。
「はい、神城です。……はい、はい、解りました。すぐに向かいます」
康行がPHSを切ると俺を無視して葵に言った。
「ごめん、急患が入ったし行かなあかん。返事は……明日、菊花賞が終わったら聞かせて欲しい。 葵さえ了解してくれたら、すぐにでも婚姻届を出したいから、それじゃ」
それだけを言い残し、康行は葵に面談室の鍵を渡すと足早に面談室を出た。
面談室には俺と葵だけが残された。
元々競馬には興味がなかった康行だった。しかしながら、葵の好みに合わせようとして、あえてメジロブライトを見ている。
「……葵、幸せになりたかったら、俺の事は忘れて康行と一緒になった方がええで。あいつがすごい良い奴だっていうのは、 幼馴染であるお前が一番知っているはずや。あいつやったら俺と違って絶対裏切ったりせえへんで」
端から見れば、康行と葵の両親の絆というものは下手な実の親子以上のものがある。 康行のお袋さんが亡くなった時、あいつを支えたのは実の父親ではなく、葵の両親だった。
それに恩義を感じている康行は、特待生で大学院に進む事を辞退し、あえて苦労の多い小児科の勤務医の道を選んでいる。 小児科の救急外来態勢に関して、当直に対応出来る小児科医が居ないという致命的な欠点を抱えた星田病院の小児科医の道を選んだ訳だ。
卒業後二年間は殆ど丁稚奉公という形のスピ大病院での研修医としての勤務。ただ、康行の研修医生活も確か来年の三月一杯までの予定。 その後はあいつは星田病院で骨を埋める覚悟でいる。
「明日……なるべくドリーム競馬が始まるまでに仕事を終わらせる。仕事が終わったら、最後の繁と二人で過ごす時間が欲しい。 一緒に競馬中継を見て、メジロブライトが菊花賞を勝てば、あたしは康行くんのプロポーズを受け入れる事にするわ。
だから、事実上、明日が繁と二人一緒にいられる最後の時よ。いくら、追い求めたところであかんもんはあかんもんやね」
葵の言葉を聞き、俺の口からは初めてメジロライアンファンとしてはあるまじき言葉が口を突いた。
「……畜生、ブライト負けやがれ。この際、勝つのはシルクジャスティスでも、マチカネフクキタルでも、他の訳のわからん馬でも何でもええ。 とにかく……メジロブライトさえ負ければ俺はそれで満足や。どうせ幹夫の騎乗じゃ勝てる訳あらへんって」
次の瞬間、俺の頬に葵の紅葉まんじゅうが刻み込まれる。葵は俺に飛ばした右手を下ろさないまま、目を潤ませて、涙が頬を伝わっている。
「……最低、あんた……それでもライアンのファンなの! ドーベルはいくらG1を勝ったところで牝馬なんだよ。 繁殖入りしても、サイアーラインにライアンの名前を残す事はできひん。ブライトがG1を勝って種牡馬入りしてこそ、
サイアーラインにメジロライアンの名前が残るんだよ。ライアンのファンだったらブライトも応援しなさいよ! あたしは牝馬はマーチを一番に応援したけど、ドーベルだって応援していたんだよ。
距離適性としてキョウエイマーチはマイラーで、ドーベルは中距離馬だったって事だよ。 今年の四歳最強牝馬はドーベルだっていうのは認めるよ。秋華賞は両方の馬の良いところをきっちり出せたレースだから、
納得のいく結果に終わった。だから、今年の最優秀四歳牝馬は例えエリザベス女王杯の結果がどうであれ、 牝馬二冠を取ったドーベルが受賞するのはほぼ確実や。けど、ブライトは菊花賞を勝たんと後があらへん。
あたし、サロンブライトっていうホームページを作ったけれども、あの掲示板で、ミッキーの騎乗に問題ありとかいう人だって出てきてる」
「……事実やろ、菊花賞は正直なところ……騎手の腕がものをいうで。そうなると、本来中距離馬だろって言われてる マチカネフクキタル……鞍上は南井やぞ。ひょっとしたらひょっとするって事もありうるぜ」
「見苦しいわ。あたし……やっぱり繁と一緒に菊花賞見るの止めるわ。繁がブライトに負けて欲しいなんて思っているんだったら、 あたしは繁と見ても楽しくあらへん。あたし……ブライトが菊花賞を勝つのを見届けてから、康行くんと一緒に区役所へ行くわ。婚姻届を出しに。
女って……愛するよりも愛される方が幸せなんやってようやく解った。あたし、繁を愛して繁が幸せになってくれる事で、あたし自身も幸せになれるんだと思ってた。でも、それは違ってたんだね。
繁をいくら愛したところで、その思いが報われへんのやったら……あたしもオールドミスと言われる前に自らの幸せをつかみ取る事にするわ。……出ましょう」
葵は面談室の電気を消し、ドアを開けた。俺が廊下に出ると、葵も出て面談室の鍵を掛けた。
一旦俺の病室に戻り、葵は自分の荷物をまとめる。
俺は帰ろうとする葵をエレベーターの前まで見送る為に歩く。
エレベーターにも一緒に乗った。この間、俺も葵も何も言わない。
一階に到着したエレベーターから降りて、正面玄関前のロビーに出る。面会時間が終了している為、ロビーは静まりかえっている。
「繁……さよなら。もう、明日からはお見舞いに来いひんから。同窓会やOB会以外では会わへんようにしようね」
葵の言葉を聞いて、俺は体内に流れる血の全てが心臓に流れる感触に襲われた。息が詰まる。
このまま、葵を帰してしまって良いのか? それまで、ずっと抑圧されていたホントの俺が、心に呼びかけている。
「……葵!」
しかし、葵は俺の呼びかけに大して振り返る事もなく、正面玄関から出てしまった。
急に、俺の心の中には後悔の念がよぎり始める。
これでは十四歳当時の俺以下ではないか。
あの頃はかなり俺も無茶はやっていたものの、葵に対する気持ちだけはずっときれいなものだった。
まあ、中学生だった俺はかなり心の中では色狂いだったとは言え、まだうぶだった葵が俺の要求を拒んだら、 葵の為に我慢出来るだけの思いやりは残っていた。葵が酷い目に遭わされた時、最初は処女を強引に奪われたなんて思って、
かなり凹んだものの、後に……葵の意志でするのがホントの初体験、と気持ちを切り替えるようになり、 高等部卒業直前、初めて葵を抱いた時には何とも言えない満足感があった。日に日に葵への愛情が深まり、
葵を必要だと感じたから、就職活動の直前にプロポーズだってしたんだ。ただ、猛反対されて俺だけじゃなく、 両親の事をボロカスに言われたばっかりに……俺は半ば逃げるように就職と共に上京した。
五歳の時、御所で会ったあの女の子……。「パパとママがバイバイするかもしれへん、葵もパパとバイバイせなあかんの?」 と言って泣いていた、五歳になる直前の葵。俺はあの時、初めて自分の秘密基地と呼んでいたお気に入りの木に葵を招待した。
それまで、女の子なんて人形遊びに夢中になって鬱陶しいと思っていたのに。
あれが俺の初恋と知ったのは、葵の両親が和解して、葵もお袋さんとばあさんに連れられて家に帰ってしまってからだった。
上手い具合にスピリチュアル学園に入学した事により、葵と再会を果たす。
そして、一年生の冬、廊下で遅刻しそうになった葵とぶつかった。
──ご、ごめんなさい!
──あぶねえなあ……!! あれ? 君……。
あれが、俺と葵が急接近するきっかけとなった。
──あたしは、好きな人がいます。……それは、ちっちゃくて痩せてるけど、ハンサムで、スポーツマンで、英語が得意で、 正義感は強いんだけど、スケベで、数学能力が異様に低くて、怒りっぽくて、ひねくれている人です。
──あたしは……そういう繁くんだからこそ好きになった。何か、繁くんを見てたらあたしの無力さを思い知らされるみたいで……ちょっと悔しかったの。
──ねえ、繁。確かに運転うまいのは認めるけど……過信しないでよ。もし、スピードの出し過ぎで事故起こして、もしもの事あったら、あたし……。
葵のこれまでの言葉が次から次へとフィードバックする。
──あたしは……やっぱり繁の事が好きなの。はしたないって思うかもしれへんけど……あたしを……抱いて。
──どんなに望んでも、届かない想いってあるんだね。あたしは繁の事が今でも好きやけど、繁はもうあたしの事なんか眼中にないんでしょ? 思いが叶わないのやったら……あたし、一生独身でいるつもりよ。
葵は俺と別れてからというもの、やりきれない寂しさから身近にいた康行に抱かれ、それでも満たされることがなかったために、 勤務先の妻子持ちの上司の甘い言葉に引っかかって、情欲に溺れてしまったらしい。話を聞いて、俺はそいつに食ってかかったら
葵の方が誘惑してきたとか、自分は葵の事を何とも思ってないが、つい抱いてしまったら情が移ったとかいわれて思わず殴ったが……。 正直なところ、今の俺だってやってる事は葵の不倫相手と一緒じゃないか!
この日、俺は結局消灯時間を過ぎても全く眠れず、病室のベッドの上で葵の事ばかりを考えてしまっている。
葵と別れてから、自分の方が相手よりも多く愛してしまうと負けてしまう。そう俺は考えていた。
ネット上のHollyhockさんが葵と知って、俺が何をしたかと言えば、自らの欲望に身を任せ、 Hollyhockさんのライアンの息子への好意を逆手にとって、葵を抱いてしまった事。
そうする事で、俺の方が優位に立てると信じ込んでいた。
けれども、それは大きな誤りだった。葵への想いは封じ込めていたはずだったのに、葵の不倫を止めさせたり、 その結果として、瑠璃に振られたのは瑠璃を通して別の女性を見ているという理由。その別の女性というのが、他でもない葵だったのだ。
瑠璃はそれを俺から感じ取ってしまい、俺の前から去ってしまった。
俺の辞書には「最愛の女性」という意味は、「俺にとって一番大切だと思える女性」と定義づけていて、 中二の時に、「その相手は星田葵」と付け加えた。ただ、それを二十一の時に消し去ってしまった。
それが俺にとっての、人生最大の過ちである事に気付かないまま……。
葵の俺に対する愛情を、俺はこれまで土足で平気で踏みにじり続けてきた。
気付かないうちに、俺は葵の愛情に甘え続けていた。
俺に未練を残して、報われる事もないのに俺に近付いていた葵を見苦しいと思っていたのだが、 見苦しいのは本当は俺の方じゃないか!
翌日、俺は病室で菊花賞をテレビ観戦した。メジロブライトはそれまでとは違い、 早めに積極的な競馬をした。しかしながら、それが裏目に出てしまい、本来の末脚の勢いは殺されてしまい、
末脚勝負に出たマチカネフクキタルが勝ってしまった。メジロブライトは二着争いでダイワオーシュウにさえ 鼻差で競り負けた三着に終わった。
俺がたった一度発した、メジロブライトに対する呪いの言葉は、本当に菊花賞馬という称号をメジロブライトから奪ってしまう結果になってしまった。