〜空露澪さま(「とらぶるめーかーず」「ぶらいとわーるど メジロブライトの末脚」)から
「馬に描かれた館」10万アクセス記念:いただきもの〜
「とらぶるめーかーず」
番外編
17
夜中の三時。それでも俺は眠っていない。よれよれのスウェットを着ている俺は、缶ビールを五本飲んだものの、 それでも眠る事が出来なかった。缶ビールの空き缶五本がテーブルや床に転がっている。
ホンマなら、ちゃんと親父やお袋に俺には葵しかいないというのを説得して、葵との結婚を認めて貰うつもりだった。 けれども、俺がこうして拒否したら、おそらく親父やお袋は路頭に迷う羽目になるだろう。
畜生、また胃が痛み出した……。けど、飲まずにいられへん。
六本目の缶ビールを取り出し、開けようとした時だった。俺の携帯が鳴る。
発信元は実家だった。俺は携帯には出ずに切る。固定電話の方は留守電にしてある。
パソコンでインターネットをすると、メッセンジャーソフトではHollyhockがオンラインになっているとの表示が出ていた。
早速、俺は葵……Hollyhockにメッセージを送る。
──まだ起きてたのか?
すると、暫くしてからレスが返ってきた。
──あんた、一体何してるの? 遥から電話がかかってきたのよ!
──遥から?
──あんたのご両親が、憲嗣さんに電話したらしいのよ。実家を怒って飛び出したとかで。
更に続けて第二段。
──それで憲嗣さんから聞いた遥が、あたしの携帯に電話してきたの。電話しても出ないし、家出したのかと思って心配したんだから!
──俺の気持ちなんかお前に解ってたまるか! 落ちるからな。
ダイヤルアップ接続を切断し、俺はパソコンをシャットダウンした。
その後も俺はビールを飲み、六本目のビール缶が空になったところにインターホンが鳴った。
こんな時間に誰だよ、怒鳴り返してやる……。
「誰じゃ、こんな時間に!」
──葵です。ちゃんとあたしの話を聞いて。
「……しゃあねえな、あがれよ」
オートロックを解除し、葵を部屋に入れた。
真夜中というのですっぴんのままで普段着にダウンジャケットをまとった葵は、かなり不機嫌そうな表情である。 俺の顔を見るなりいきなりキッチンに向かったかと思うと、水を入れた雪平鍋を持ってきて俺の頭から水をぶっかけた。
おかげで床は水浸し。俺は髪からスウェットまでずぶ濡れだ。
「いきなり何するんじゃ!」
「繁の馬鹿っ! ええ加減目を覚ましなさいよ。あたしには不倫の時に偉そうに言うといて、 自分が辛い立場に立たされたら、現実逃避する訳なの? 今ので頭冷やしなさいよ!」
それだけを言うと、葵はトートバッグから携帯を取りだして、どこかへ電話を掛けた。
「もしもし、遥? ごめんね。こんな時間に。あのアホやったら、ちゃんと自分のマンションにいたから。心配せんといて。 うん、ごめんね。それじゃお休み」
葵は携帯を切って、トートバッグにしまった。
俺はぶっかけられた水により、にわかに寒気がしてきた。十二月の真夜中に、冷や水をぶっかけるなど尋常じゃないぞ。
で、葵はというと、空になった雪平鍋はキッチンに戻し、バスタオルと雑巾を持ってきた。
「ほら、頭拭いて着替えて」
葵は俺にバスタオルを渡すと、雑巾で濡れた床を拭く。俺も濡れた髪を拭いて、別のスウェットに着替える。
一段落付いたところで、葵はテーブル周辺に散らかっていたビールの空き缶を全部片づけた。
「とりあえず……寝とかなきゃダメ。寝て起きたら……きっと冷静に物事を考えられるから、ね?」
「お前はどうするんや?」
「明日……って言うかもう今日だよね。ローテーションでは休みやから、今日はあんたが会社に行くまで付いてる」
「お前も寝んとあかんやろ……」
「生憎やけど、あっちの方はあかんで。あたし、今女の子やし。繁のシーツや布団、汚したらあかんから徹夜する」
女の子……要するに生理時の葵というのはかなり神経質になるし、ぶちぎれる事も多い。俺に水をぶっかけるという過激な行動も、 おそらくはそのせいだろう。普段の葵だったら学生時代ならともかく、今だとここまではしないはずだ。
そんな訳で、大学時代は葵のそういった微妙な心理状態の変化に気を配りつつ、求めていた訳だ。それこそ、絶対避妊しなければならない時期とか 比較的安全な時期を考慮しつつ……。そんな訳で、幸いにもこれまでは葵を妊娠させてしまうというへまはしなかった。
「けどなあ、風邪引くぞ。シーツが汚れたら洗濯したらええだけの話やろ? お前が責任持って洗濯しろ。 風邪引かんように、一緒のベッドに入れよ」
結局、添い寝という形になってしまった。
翌朝、目が覚めた時には異様に頭が重かった。二日酔いか? 今迄、二日酔いなんてしなかったのに……。
いや、全身に悪寒が走るし、関節にはだるいような痛みがある。
毛布と掛け布団はしっかり着込んでいるにもかかわらず、異様に寒い。
そして、隣りに寝ているはずの葵が……居ない!
「葵……?」
驚いて目をぱっちりと開け、辺りを見回すと、葵は既に起きていてキッチンから氷枕を持ってきた。
「繁、目が覚めた? あんた……すごい熱だもん。寝てる間に熱を測らせて貰ったら、三十九度あったもん。ごめんね……あたしのせいで」
どうやら葵は女の子の峠は越したようで、顔つきなどは普段の葵に戻っている。
「……何時?」
「八時過ぎよ」
「げっ、遅刻やんけ! すぐに電話して……」
「繁、今日一日は休んだ方が良いって! ほら、責任持って電話だけはして」
葵に促され電話に向かい、俺は部長に電話をして、嫌みの一つを言われつつも、お大事にと言われて欠勤が認められた。 風邪が治って出勤したら、平謝りものだな……。
「繁、おかゆ炊けたよ。食べて」
葵が炊いてくれたおかゆと、冷凍しておいた鮭の切り身が焼いて置いてある。
「頂きます。葵も食パンでも適当に焼いて食ったらええで」
「有り難う。そうしたら、トーストでも貰うわ」
二人で顔を付き合わせ、俺はおかゆを、葵はトーストを食った。
「ごちそうさま、旨かったよ」
何の変哲もない、普通のおかゆだが不思議と旨く感じた。
「繁、今日は一日寝ててね。ほら、お薬も飲んで」
風邪薬と十二指腸潰瘍の薬を飲み、俺はベッドに横になった。葵は後片付けやら、洗濯やらをしてくれる。
洗濯物を全て干したところで、葵が俺の側へ来た。
「繁、あたしそろそろ帰るから……今日は一日寝てるのよ」
「葵、待って。帰らんといてくれ……」
「繁……」
俺が今迄抱え込んできた様々な思いが、今になって洪水のように押し寄せる。
「ごめんな……夕べの事。実は……」
俺は葵にナルセスポーツが経営危機に立たされている事、それに関連して大樹商事が買収しようとしている事、 そして、交換条件として俺と大阪支社長の娘との結婚話が出ている事、両親は俺が結婚して全てを丸く収めようとしている事、
これがまとまらない場合は俺はリストラされて、なおかつナルセスポーツも倒産は免れないだろうという事を話した。
「全然知らんかった、そんな話が出て、繁が悩んでいたなんて……。でもね、倒産とかリストラになったら、生活が大変になるよ。 あたし……ホントに繁の事を愛していたけど、そんな事情があるんだったら、繁……あたしの事は忘れて。その支社長のお嬢さんと結婚して……
幸せになった方が良いよ。愛だけで結婚しても……経済的に困難な状況やったら、愛すらも見失ってしまうかもしれないのよ」
「お前……ホンマにそれでええんか? 康行は明美ちゃんでもええ様な感じなんやろ?」
「うん……だから、あたしは一生独身で居る。何とか、一人で生きていくから。あたしは繁に幸せになって欲しいの。 だから、あたしはここで……繁とバイバイする。繁……身体、大事にせんとあかんで」
俺に精一杯の笑顔を見せる葵。
違う、俺が望んでるのはそんなんじゃない!
「葵……」
引き留めようとするものの、熱のだるさで身体が思うように動かない。
「繁、あたしは陰で応援するからね。それじゃ……」
葵は帰ってしまった。
何でよりによってこんな時に風邪なんか引いてしまうんだ!
幸い、その日の夜には熱も下がってきた。
少し身体が楽になったところで、俺は机の中から便箋と封筒を取りだした。
一晩考えた結果だ、俺は後悔しない。むしろ、こうしない事には周りに流されたままではその方が一生後悔すると思う。
京都営業所に到着し、俺は部長に退職願を提出した。
「これは……どういう事だね?」
「……申し訳ございません。どうしてもこの先、叶えたい夢がありまして、引き継ぎを終えたところで退職させていただきたく思います」
「希望退職者として募っていたのは、四十歳以上で課長以下の役職の社員と三十歳以上で主任以下の社員だ。 二十代の社員は……大阪支社の勤務、もしくは関連会社の出向という形にして解雇をする予定はない。
それに……大阪支社長のお嬢さんとの縁談が上手くいけば……成瀬副主任の実家の会社も助かるし、君も一気に係長級への昇格になるし、 我が社としても、取引上でプラスになるから……悪い話ではないと思うのだが」
「単なる出向、という形なら受けさせていただきますが……結婚が絡むのでしたら、申し訳ありませんがお断りいたします」
「業務命令に従えないと言うのなら、懲戒解雇もやむを得ないところだぞ。それに、大阪支社長のお嬢さんとのお見合いは今夜じゃないか」
「私一人の個人的事情、と言う事で丁重にお断りいたします」
「懲戒解雇、と言う事になると次の就職が難しくなるぞ。実家で働くにしても、倒産するかしないかの瀬戸際に立たされている時だろう」
「それは覚悟の上です。それでは失礼いたします」
仕事に戻り、普段通りの業務をこなす。
変な話、大きなリスクは抱えている。例え、葵との結婚を貫こうとしても、懲戒解雇されたという事になれば、 葵の方が俺を振ってしまうかもしれない。けれども、もはや自分の心に嘘はつきたくなかった。
後輩社員には、それとなしに営業のノウハウというものを伝える。俺が抜けても、業務に支障を来さないように。
そしてその日の夜、とあるホテルのレストランにて俺、親父、菅原支社長、そして若葉さんの四人が集っての見合いの席がセッティングされた。
お約束のように、俺と若葉さんが二人きりで話をするように持って行かされ、俺達は二人でレストランを出た。
ロビーで、俺は若葉さんに言う。
「……申し訳ありませんが、今回の縁談は無かった事にしていただけないでしょうか?」
「あの……どうしてですか? 私は繁さんに叱られてからというもの、二度とあのようなミスは起こさないように一所懸命仕事をしてきました。 それに……本気で叱ってくださったのは、繁さんが初めてだったのです」
「あの時は……あなたがすごく落ち込んでいたから、励ます意味で言うただけです」
「私に……どこか不満がございますか?」
「いいえ。決してそういう訳ではありません。ただ、僕には既に……心に決めた人が居ます。 そのような状態であなたと結婚しても、あなたを幸せにしてあげる事は出来ないからです。
まだ若いのですから、この先……いくらでも素晴らしい男性が現れると思います。ですから……僕の事はどうか忘れてください」
俺達は親父と大阪支社長のところに戻り、二人に丁重に謝り、若葉さんを支社長と共に返し、俺は親父と帰る。
「……どういうつもりだ。うちの会社がつぶれてもええんか、お前は!」
ホテルの駐車場で、親父の車の助手席に乗っての親父の第一声だった。
「ええとは思ってへん。けど、俺が彼女を愛していないのに結婚しても、彼女を不幸にしてしまうだけや!」
「繁、愛情だけで結婚しても、経済力がなければ相手にかなり苦労を掛けさせる事になるんだぞ。 父さんだって、母さんと結婚して間がない頃は……お前を身ごもっている身で店を手伝わせるような羽目になってしまって、
予定日よりも早くお前を出産してしまったんだ。ぎりぎり未熟児ではなかったものの……」
親父は車のエンジンを掛け、俺のマンションへ向かって運転してくれる。
「この前……言うたように、馬鹿だって言われるかも知れへんけど、俺には葵しかいいひんのや。 今回の一件ですごい親不孝してしまうけど、どうしてもこれだけは譲れへんかった。
単なる出向やったら俺はすんなり受け入れた。けど、例え懲戒解雇になっても、自分の心に嘘を付いて結婚する事は、 互いを不幸にするだけやから……ごめん、親父」
「……繁がそこまで言うなら仕方がない。けれども、それ相応の覚悟が必要だぞ」
「解ってる。ちゃんと……葵にプロポーズする」
マンションの前で下ろして貰い、親父と別れた。
数日後、俺は京都支社長及び部長に呼び出された。
ふたを開けてみると、一月十五日付をもって俺を解雇するというものだった。ただし、懲戒解雇ではなく、普通解雇であった。
当然ながら、大樹商事がナルセスポーツを買収するという話もご破算になった訳である。
ただ、一応一月十五日付とは言っても、事実上、明日からは来なくても良いと言うもので、一ヶ月分の給料は支払うというものだった。 つまり、来年の一月二十五日に受け取る給料が最終の給料であるのだ。
その日、大樹商事での最後の仕事を終えてから、俺は葵の携帯に電話をした。
──もしもし。
「葵? 繁です。今すぐに……会いたいんや。言うておきたい事がある」
──繁、どうして? あなたはもう、あたしと別れて支社長のお嬢さんと結婚するんじゃなかったの?
「会ってから、みんな話す。今……どこにいる?」
──仕事が終わって……買い物に行ってるところなの。だから、駅前にいるの。
「解った、今からすぐに行く。二十分後ぐらいに……そっちへ着くようにするし」
そんな訳で、俺はすぐさま車を運転して駅前へと向かった。
「葵!」
雑踏の中に葵を見つけ、路上駐車しておいて葵の元へと走る。
「繁……」
「大事な話があるんや。暫く、付き合うてくれへんか?」
車で向かった先は、東山ドライブウェイの頂上にある将軍塚。京都市内のデートスポットとしては定番中の定番だ。 市内の夜景を一望出来るのだが、ここ目当てに訪れるカップルが多いのは少々仕方がない。
一応、大学時代にも葵とは何度もここへ来ているし、今更夜景を見るつもりもないし、車を止めたまま中で話を始める。
「あのな……俺、会社辞める事になった」
「何で!? まさか、あの話断ったんじゃ……!」
「ああ、断った」
「どうして? 繁にとってはいい話だったんじゃなかったの? あたしは繁が幸せになれるんだったらそれで良いと思って諦めるつもりだったのに……」
違う! 葵が犠牲になって俺が幸せになるなんて、そんなのは俺の幸せじゃない!
「葵、俺が幸せになる為には……葵が必要なんや。葵が幸せになってこそ、俺は初めて幸せになれる。 お前一人を残して、俺一人が幸せにはなれへん。だから……一緒に幸せをつかみ取ろう」
葵がポロポロ涙をこぼす。
「何で? 何であたし一人の為に、繁が犠牲にならんとあかんの? それに、そんな事したら店だってつぶれるんじゃないの?」
「何とか……ええ方法を考える。このままじゃ、かなりやばい状況やから……とりあえず、借金出来る当てがあれば借金するし、 無理そうなら、違う形で何とかする。葵、ごめん。ホンマやったら、お前には苦労させんとこうと思ったけど、
俺はどうしても葵でないとあかんのや。最悪……結婚を許して貰えたにしても、指輪すら買うてやれへんかもしれへん。 けど、そんな状況でも俺は側にお前さえ居てくれたら、何とか頑張れるから……」
俺は助手席の葵を抱き締める。
「繁、そういえば今日って……クリスマスイブだね」
「そうやった。バタバタしてて忘れてた」
「この前の約束、ちゃんと守ってくれたんだ……別れを覚悟してたのに……」
約束しても、断られる可能性もあった。けれども、こうして逢ってくれる……。
「出来る事なら、あたしは病院を継ぐつもりはあらへん。医者でもないし、康行くんと結婚するつもりもあらへんから……。 康行くんは明美と結婚して、病院を継げば済む話なのよ。あたしは、どこまでも繁に付いて行く。成瀬葵になって、繁の子供を産むわ」
「葵、お前……何でそんなに可愛いんや? 何でそんなにいじらしいんや? お前がそんなんやから、俺はお前を愛さずにはいられへんのやで……」
俺は葵と唇を重ねた。この夜、俺の部屋で葵と二人きりで過ごした。