〜空露澪さま(「とらぶるめーかーず」「ぶらいとわーるど メジロブライトの末脚」)から
「馬に描かれた館」10万アクセス記念:いただきもの〜
「とらぶるめーかーず」
番外編
18
あんまり派手に馬券を買う訳にはいかなくなったので、有馬記念は多分当たらないとは思いつつも、 俺の願いを込めてメジロドーベルの単勝を百円だけ買った。葵と一緒に百円ずつ。
残念ながら、メジロドーベルは有馬記念を勝つ事が出来なかった。八着だった。 勝ったのはシルクジャスティス。葵は怒り狂っていた。メジロブライトが出走していれば、
ひょっとしたら勝てたのではないかと言うのだ。確かに、四歳牝馬が有馬記念を勝とうとすると言うのは かなり無謀な挑戦である。過去にはヒシアマゾンですら二着だったし、昨年のファビラスラフインも
ジャパンカップの好走の反動からか大敗している。牡馬だと四歳馬でも結構勝ったりしているからなあ。 ただ、このレースでは河内はダンスパートナーの騎乗があるし、陣営側がドーベルとかぶるのを嫌ったというのもあるし、
ここで無理に出すとなると、幹夫に戻さないといけないという事情もあるだろう。 本気で河内への乗り替わりを考えているとしたら、来年出走しても遅くはない訳だ。メジロブライトは来年に期待だ。
そして正月が来て、葵は喪中という事で年賀状は書かなかったものの、大晦日の夜から一九九八年を迎える瞬間は、 葵と二人で俺の部屋で過ごした。正月明けからは、俺は職安に通わなければならない。金杯どころではないのだ。
一月十五日、この日、俺は正装に身を固めて葵の家へ向かった。
葵の家の応接間。俺と葵の他に、葵の両親とばあさんが居る。
丁度五年前、同じように挨拶をした時には、大反対されてしまい、一度は破局を迎えてしまった。
「成瀬くん、話というのは何だね?」
葵の親父さんが俺に尋ねてきた。一応、葵からは話は通してあるらしい。
「単刀直入に申し上げます。葵さんと……結婚させてください。お願いします」
深く頭を下げ、返事を待つ。緊張が高まる。
「私が五年前に……君と葵との結婚を反対した理由を覚えているかな?」
「僕が……まだ学生で、しかも医学部に在学していなかった事、そして、うちの両親が 僕に将来的に店を継ぐ事を望んでいたからですね?」
「それもあるのだが……今、再び私が反対したら、成瀬くんはどう答える?」
どうやら、試されているらしい。
「確かに、僕はしがないサラリーマンで、しかも今は失業してしまった身です。 その上、実家の会社の方も倒産の危機に立たされている状況です。 しかしながら、僕は誰よりも葵さんを幸せにする自身はあります。他のどの男性にも絶対に負けません」
力強く、葵の親父さんの目をしっかりと見つめて答えた。今度は例え、どれほどの罵詈讒謗(ばりざんぼう)を 受けたとしても、俺の気持ちは決して変わらない。
「実のところ、一般企業の場合はそういうリスクを抱えているだろう。例え、どんなに有能な社員だったとしても、 会社が倒産してしまえば嫌でも路頭に迷う事になる。私は葵をそういう目に遭わせたくないのだ。
だから、私は葵には成瀬くんよりも康行くんを結婚相手として勧めたのだ」
「……仰る事はごもっともです」
「しかし……この前、明美から康行くんの事が好きだという話を聞いたのだ。それで、康行くんにも、葵にも気持ちを確認した。 すると、康行くんはかなり前から明美とデートをしている事を打ち明けて、葵はどうしても成瀬くんの事を忘れられないのだという事を聞いた。
田川(たがわ)とかいう男と不倫をしたのも……全ては葵が成瀬くんを忘れようとする余りに起こした浅はかな行動だったというのも知った」
それを聞いて、俺はどきりとした。
「成瀬くんが葵を説得した事で、葵はすっぱり田川とは手を切った。それに……葵と結婚したいと考えた結果、 自らの縁談をダメにしたそうだね。それも、実家の危機的状況にもかかわらず。そこまでして、葵と結婚したい理由を教えて欲しい」
「上手く言えないのですが……僕は葵さんが側にいて下さるからこそ、色々と励まされたり、心が安らいだりしたからです。 これは……他の女性からは絶対に得られなかったものでした。ですから僕は、葵さんと一緒に幸せになりたいのです」
「そうか……成瀬くん、葵の事を頼むよ」
「有り難うございます。必ず……葵さんには僕と結婚して良かったと思って貰えるようにします」
俺は深々と頭を下げた。
「ところで……実家の方の負債はどの位だね?」
「確か、父に聞いたところによれば……二億という話です」
「二億か……ちなみに、急ぎで返済する必要のある借金は?」
「ひとまずは、今月中に五百万を……」
しかしながら、どうしてそういう話を聞くのだろう?
「解った。そのうち……お父さんにお目にかかって、話をしようと思う。それと……仕事を探しているのだったら、 丁度、うちと取引している医療機器メーカーが営業職を募集しているという事だった。ちょっと声を掛けてみるよ」
「有り難うございます。もし、良いお返事が戴けるのでしたら……」
この後、俺は寿司をごちそうして貰い、次の日曜日、つまり三日後に俺の両親も集まって話し合いをする事になった。
葵の家を出て、見送りに出てきてくれた葵が途中まで付いてきてくれる。
「葵、お前……かなり親父さんに裏で手を回していたみたいやな」
「うん……って言うか、お父さんにあたしはやっぱり繁と結婚したいっていう事打ち明けたのよ。 最初、お父さんと喧嘩になったけど、そこへ明美が出てきたの。あたしと康行くんを無理矢理結婚させるのは止めて欲しい、
そこで、明美はお父さんに自分は康行くんが好きだって打ち明けたの。その結果、あたしは嫁に出て 明美と康行くんが病院を継ぐって事で話がまとまったのよ。それで、お父さんも繁との話し合いに応じる気になったのよ」
「けど……うちの実家の事も喋ったのか?」
「うん……ごめん、余計な事まで喋ったかな? これが為にまた反対されたら……」
「って、了解してくれたじゃないか。ただ、負債とかの額を喋ったのはちょっとまずったかな……」
「お父さんがどんな考えなのかっていうのは、あたしもまだ解らへんけど……」
「でもな、葵。おまえ、前に自分だけ輝いてへんって言うてたやろ? 絶対そんな事あらへんで。 誰も気付いてへんかもしれへんけど、お前が今まで俺にしてくれた事。あれを見てたら……葵だってしっかり輝いている。
他の奴らが例えお前を必要としてへんでも、俺にはお前が必要なんや。葵の輝きは……俺が独り占めしたい」
「繁……」
ビルの陰に隠れてキスを交わし、そこで別れた。
早速ながら次の日、俺は葵の親父さんが紹介してくれた医療機器メーカーの人事担当者と会う事になった。
履歴書を持って提出したものの、残念ながら先方の希望が医療関係従事経験者、もしくは理系学部卒業という条件だった為に、 経済学部卒の俺は今回はご縁がなかったという事で……と断られてしまった。
この日の夜、健と電話で喋ったのだがあいつ曰く、工学部卒で営業をしている奴もいるけど、いくら会社命令とは言えどもそれって少しばかり悲しいと言う。 健も下手したら、営業に回されてしまうかもしれないと言っているのだ。
健との電話を終えてすぐ、今度は翔一から電話がかかってきた。そうだ、翔一だったら……!
しかしなあ、翔一から借金しようと思っても、金がもとで友情を壊してしまう事もあるって聞くし……黙っていよう。ところが……。
──繁、今度、うちのグループの関連企業がレジャーランドを作る事になったんだ。 それで、各種のスポーツ関連の施設の備品を繁の実家から注文しようと思うんだ。
「ホンマか! それやったら……親父に話を通しておく。あとは親父と話し合って契約してくれ。俺は今はナルセスポーツに籍を置いている身と違うから、 俺の一存では動けへんし……頼むわ。有り難う」
──でも、星田はホントに繁には過ぎたぐらいの彼女だな。僕の母なんか星田が繁ではなく、僕を好きになってくれていたらって嘆いていたよ。大事にしろよ。それじゃ。
え、何だよ、最後の翔一の言葉? 翔一のお袋さんは葵を気に入っていたのか? 瑞穂の事を余り快く思っていないらしいとは聞いていたものの。 だとしたら、葵がもし、康行と一緒になっていたらきっと話はややこしくなっていただろうな……。
それで、土曜日。俺は手伝いがてら、ナルセスポーツの本社で仕事をしていた。そこで、親父から聞いた信じられないような出来事。
まず、星田病院が整形外科の関連施設として、スポーツ医学センターを作るという事になり、リハビリならびにトレーニングの為の 機器をうちに注文する事になり、立小路グループのレジャー関連企業が新規レジャーランドを出店するというので、うちに大口注文をしてきたというのだ。
この二件の大口注文により、何とかその利益で当面の借入金の返済に関してはめどが立つというものだった。 それでこれが一段落付いたら、親父は会長職に退き、俺が社長としてナルセスポーツの指揮を執って欲しいという話だった。
学生時代の友人って、金には換えがたい財産であるという事を俺はこの時改めて思い知らされた。 大学時代、サークルのOBの先輩が社会人になったらなかなか新しい友達は作れないから、
今、しっかり友達を作って友情をはぐくんでくださいと仰っていた。翔一とは大学時代は違うサークルだったものの、 中等部から高等部に掛けての間に既に友情ははぐくんでいたし、康行、健、チーコ、遥、瑞穂、あずさ。
皆それぞれに素晴らしいものを与えてくれた。そして……葵。俺は葵に出会った事で、本当の愛を知った。 出会った頃は単なる恋心しか知らなかったものの、十三年という歳月はかなり遠回りをしてしまったが、
俺に究極の愛というものを教えてくれた。
日曜日、俺と両親、そして葵と両親が料亭に集まって、食事をしながら話し合う事になった。
二月一日付で、俺がナルセスポーツの社長に就任する事、結納は三月八日に行い、それまでに、 スピ中時代の恩師、来待先生に仲人をお願いする事、そして、挙式は当初、五月三日はどうか、と言われた。
丁度、この日は日曜日。ゴールデンウィークという事で葵の両親も休みが取れるし、しかも大安だからと言われたのだ。 しかしながら、この日に挙式をしたら……確か、丁度春の天皇賞当日だろ? 葵は多分、これを知っているはずだよなあ。
俺は葵に小声で囁いた。
「葵、五月三日挙式っていうの……断った方がええぞ。この日、天皇賞やろ?」
葵は自分の手帳を広げて確認する。
「ホンマや……メジロブライトを応援せんとあかんし。入籍はブライトが勝てばこの日にしてもええけどね。 お父さん、出来たら挙式は……同じ五月でも十七日がええわ」
「十七日か? しかし……この日は先勝だ。挙式をするなら午前中の方が良いという事になるが、準備が大変だぞ」
「あたしは元々、大安とか仏滅とか信じてへんもん。十七日は……繁の誕生日だから」
確かに、二十七歳の誕生日ではあるものの、これって……誕生日に合わせるんだったら葵の誕生日に合わせるべきだろ?
「結婚記念日は、俺の誕生日よりもお前の誕生日の方が良くないか?」
「でも、あたしは八月生まれでしょ? しかも、お盆だし……他の招待客の事を考えたら、 帰省しているような時に挙式されるよりも、五月の方が時期的に良いんと違うかな?」
「そうか……だったら有り難く」
葵の両親から俺の両親に対し、五年前の詫びの言葉も入り、その償いの意味も込めて、葵の両親が 葵への生前分与という形で、ナルセスポーツに資金援助をしてくれる事になったという。葵だけに生前分与となったのは、
葵が星田家を出て一切の星田病院の経営権に関しては放棄するから、という理由らしい。後に、俺と康行の間で 遺産相続の争いが起きてしまわないように、という考えだろう。葵の受け取り分から資金援助をする分を差し引いても、
結婚後の家を買うだけの資金は残る。俺が大樹商事にいた頃の給料だけを貰うようにすれば、何とかそれで食っていける。
その次の日曜日、俺は葵と京都競馬場へ行く前に二人で宝石店に立ちよった。 マリッジリングの方はごくシンプルなプラチナのリングで、俺のには1998.5.3
A to S、葵のには1998.5.3 S to Aという刻印を入れて貰う。 これはすんなり決まったものの、問題はエンゲージリング。一応、俺の給料の三ヶ月分という事で予算を考えるものの、一生ものだから
俺も葵も納得のいくものにしたい。
「でも、繁は五月生まれだからええやんな。誕生石、エメラルドやんか……チーコはルビー、遥はサファイア、 みーちゃんとあずさちゃんは真珠なのに……あたしはペリドットだよ」
そうか、葵はエメラルドが好きなんか……それに、誕生石エンゲージのカタログを見ていたら、 ダイヤモンドが一番高いのは当然として、その次に高いのがエメラルドとルビーとサファイア、その次が
パールとアクアマリンとピンクトルマリン、その他のが一番安い……ペリドットを含めて。 同じ緑色の石でも、エメラルドの方が若干濃い色をしている。ペリドットって少々華やかさに欠けているかな?
十二月の誕生石がトルコ石というのは十二月生まれの女性をかなり気の毒に思ってしまうのだが。 ちなみに俺が女なら、ダイヤモンド、ルビー、エメラルドならまだ許せるが他の石はちょっと許せないかもと思う。
個人的に地味な宝石って送っても喜ばないんじゃないかと思うのだ。
けど、普通エンゲージリングってダイヤモンドか花嫁の誕生石ってのが普通の相場だよな。 よーし、ダメもとで聞いてやれ。どうせなら俺だったらこういうのを……。
「すみません、こっちのカタログの指輪ですけど……これ、中央に誕生石が入って両側に小さなダイヤモンドですよね。 これを中央の石をダイヤモンドにして、サイドにエメラルドとペリドットっていう風にして貰えますか?」
「……繁!?」
俺が宝石店の店員さんにリクエストしたところ、葵が驚いて俺を見た。
「その場合でしたら、だいたいこのようなご予算になります……」
俺の予算と相談してそれぞれの石の大きさも決める。葵が小声で俺に言う。
「繁、そんな注文したら高くなるんじゃない? あたし、別にシンプルなものでええよ」
「何言うてるねん。一生ものやろ? 俺はお前に納得のいくようなエンゲージリングを渡したいんや。お前、エメラルドが好きなんやろ?」
「うん……」
「だから、エメラルドも入ったエンゲージリングを渡したい。ただ、ペリドットがあらへんっていうのはちょっとおかしいし、 かといって、エメラルドとペリドットだけでは石が二つっての、どうも縁起悪いし、メインにダイヤモンドを入れる。
誕生石の意味見ろや。ダイヤモンドは清純無垢。エメラルドは愛、幸福って意味があるけど、 ペリドットは夫婦の幸福、和合って意味があるから俺としては三つとも外せへんのや。だから、俺は葵にこの三つの宝石が入ったエンゲージリングを送りたい」
「そうか、永遠の輝きであるダイヤモンド、それを繁とあたしの誕生石で飾るデザインか……」
「それは素晴らしいご提案ですね。元々エンゲージリングは古代ローマでは左手の薬指には心臓に直結する愛の動脈が通っていると信じられていたことから 婚約の証として男性から女性に鉄の指輪を贈ったのが始まりです」
結局、セミオーダーという形でエンゲージリングを注文して、内金を支払って俺達は淀……京都競馬場へ向かった。
この日、メジロドーベルは日経新春杯に出走するし、メジロブライトは中山のAJC杯に出走する。
ブライトは見事に連勝してみせたものの、日経新春杯は少々後味が悪くなってしまった。ドーベルが勝てなかっただけではなく、 このレースを勝ったエリモダンディーはゴール後に骨折が判明、ウイナーズサークルに現れる事はなかった。
しかも、数日後、エリモダンディーは骨折のストレスからか腸捻転を起こし、帰らぬ馬となってしまったのだ……。