〜空露澪さま(「とらぶるめーかーず」「ぶらいとわーるど メジロブライトの末脚」)から
「馬に描かれた館」10万アクセス記念:いただきもの〜
「とらぶるめーかーず」
番外編
5
桜花賞当日、ぐずついた天気で傘持参となってしまった。ターフビジョンに映されるドバイワールドカップのVTR。 映像で見ると、その壮絶な模様が改めて浮き彫りになり、場内もざわめいた。
オフで知り合いになった方々との交流を深め……野郎ばかりというのは少々むさ苦しいものがある。 阪神競馬場はレディースデーだというのに。
パドックではせいぜいメジロドーベルの横断幕が出ているあたりに陣取る。トライアルの影響で、 キョウエイマーチが一番人気、ドーベルは二番人気だ。俺は馬券資金を五千円用意している。
ドーベル単勝に三千円、ドーベル、マーチの馬連に二千円賭ける事にした。まあ、馬連は本命決着だったが五百十円でプラスになったから良しとしよう。
結果はマーチが四馬身差の快勝、ドーベルは二着だった。しかしながら、この荒れた馬場では先行するマーチの方が有利で、 距離が伸びて馬場が良くなればドーベルが逆転する事も十分に考えられる。
今回のオフに参加したメンバーが、遠方からの参加者が多かった為に阪急梅田駅で解散となった。 俺は京都線に乗り換え河原町まで乗ってから、三条京阪までひたすら歩く。そして、地下鉄東西線に乗って帰るのだが、
山科駅で降りて改札を出た時だった。やたらと浮かれたセミロングヘアの女がいた。
やたらとテンションが高そうなのだが、俺にぶつかりそうになるのにも全く気付かず、よそ見して俺にぶつかってきた。
「ご、ごめんなさ……繁!?」
呼びかけられてその女を見ると、葵じゃないか。しかも、去年の秋華賞の馬番馬名入りTシャツを着てやがるし、この年になってすっぴんか……。
「お前……何してるねん」
「阪神競馬場に行って来たの。インターネットで知り合った幹夫さんのファンの女性とオフをして、 一緒にキョウエイマーチを応援して、大いに盛り上がって帰ってきた所よ。馬券だってしっかり取ったし。
単勝も、馬連も」
「それは宜しゅうございました。それじゃ、俺は帰るし」
ドーベルが勝てなかった事で、はしゃげるような気分じゃねえ。一緒に騒げるとしたら、メジロブライトがG1に勝った時だ。
「待ってよ、折角会うたのにもう帰るの?」
地下道から地上に出る階段を上がろうとして、俺は葵に腕を捕まれた。
「当たり前や、明日は仕事や。お前も明日仕事やろ。早めに帰って寝ろ」
「……解ったわよ、何そんなに怒ってるのよ」
「お前、ネットで好きな相手見つけたんやろ。それやったらいつまでも俺と深く関わったらあかんで。 俺とお前は今では単なる元同級生。でないと、そいつが誤解する」
すると、葵が今にも泣きそうな顔をした。
「……振られたわよ。結婚を考えてる彼女が居るんだって。あんたと出会ったばっかりにあたしは男運が……!」
そう言って葵はふくれっ面をする。こんな公衆の面前で止めてくれ。
「……解ったよ、ちょっとだけやぞ。この前書いた手紙に俺の住所書いてあったやろ。 俺の住んでるマンションすぐ近所やし……飲みに行くか? その代わり、割り勘やぞ。馬券取ったんやったらそこそこ金持ってるやろ」
はっきり言って、葵に飲ませたら非常に危険なのは大学時代の経験から既に承知だ。それでも、駅前のとある居酒屋に入った。
一品料理を数品と、俺は生ビール、葵はカルーアミルクを注文する。
「……タバコ吸うぞ」
黙って頷く葵。本来、タバコが嫌いな奴だ。けど、こっちは付き合わされた方だし、こっちの勝手も聞いて欲しい。
乾杯後、一気にカルーアミルクを飲み干した葵。ええのか、そんなハイペース。
「すみません、ファジーネーブル一つ!」
ファジーネーブルが出されると、更に葵は飲み干し、三度メニューとにらめっこしている。 危険すぎて、俺はビールや日本酒、焼酎のお代わりをする気になれない。葵に追加オーダーされる前に、
俺は葵からメニューを取り上げた。
「葵、止めとけ。お前酒弱いんやし……」
「何よ、繁が連れてきたんでしょ。久々なんだし飲ませてよー」
既に顔は耳まで真っ赤になっている。女の酔っぱらいほど見苦しいものはない。
「お前、それでサニーエンジェルズの先輩達に散々迷惑かけてきたやろ。男なら許されても、女なら許されねえ事ってあるんだよ」
「何よ、男だから、女だからって! だいたい世の中おかしいわよ! あたしは好きで女に生まれたんと違う。 だいたいどんなに頑張っても、女だからという理由で門前払いっておかしいでしょ! あんたは一流企業に就職出来たけど、
あたしは散々面接まで言って落とされて……結局流通業に就職する羽目になるんやし……」
この後、延々と葵の愚痴を聞かされ、適当に俺は聞き流した。変な話、女子でも一流企業に就職した奴はいくらでもいる。 葵はなまじっか、ガキの頃、頭が良すぎた為に妙なプライドを持ってしまったばっかりに、一部の奴から反感を買ったのだ。
その結果、中二の冬に葵のプライドを一番傷つけるような形の事件が起きてしまったのだ。それ以来、 葵の成績は下降線をたどる一方で、結局立ち直れたものの、大学は医学部に進めず、就職も自分の希望するような業種には就職出来なかったのだ。
葵の努力の仕方って、どうもイマイチ間違っている。康行のような努力の仕方だと、目的も達成出来たのに……。 かなり要領といった面では致命的な欠点を抱えている。
「葵、もう出よう。お前……これ以上飲んだら絶対つぶれる」
「何よ、もっと飲ませてよ。だいたいあんたがもっとうちのお父さんやお母さんを説得してくれてたら……」
葵を半ば抱えるように席を立ち、レジで葵の分の飲み代も支払う。
しかし……このままでは家に帰らせられない。大学時代に酔っぱらった葵を康行と送っていった時、親父さんがカミナリ落としていたし、 あの優しいばあさんもかなり怒っていたから。
殆ど粗大ゴミと化している葵をマンションの俺の部屋まで連れ込んだ。
「ほら、靴脱げよ」
靴を脱がせて部屋に上がらせ、とりあえず俺のベッドに横にさせた。
葵はとろんとした目つきで俺を見ている。しかしながら、視点は全く合っていない。 ほろ酔い、というものなら色気もあって可愛かったりするのだが、これほどの泥酔状態では正直、食指も動かない。
俺は兄貴の家に電話を掛けた。
──もしもし。
遥の声だ、ラッキー。
「あっ、遥? 繁やけど……」
──どうしたの、繁くんが電話するって珍しいね。あっ、そうか。チーコのお祝いの相談?
「そうじゃねえって。実は、たまたま葵にばったり会うて、行きがかり上飲みに行く羽目になったけど、 あいつに酔いつぶれられてしもて、このままじゃうちに帰せねえから……その……アリバイを……」
──私と飲みに行ったって事にすればいいのね。
「そういう事。俺と飲みに行ったなんてあいつの親に聞こえたら、話がややこしくなるし……」
──アリバイ工作はするけれども、繁くん。葵との結婚を考えていないんだったら手を出したらダメよ。
「手を出せるような状態じゃねえよ。むしろ萎える……。とりあえず、葵が動けるような状態になり次第帰すからって伝えといてくれよ」
こんな状態の葵に手を出せる奴、よっぽど女に飢えてる奴だ。
──解ったわ、最近……抹茶アイスクリームを食べていないのよね。
口止め料は抹茶アイスクリームか。そのくらいならたやすいご用だ。
「抹茶アイスなら今度手みやげで用意してやる。そしたら頼むで! それじゃあな」
──うん、バイバイ。
電話を切り、ベッドを見ると葵が居ない。このおぞましい声は……トイレだ。
「どうしよう、ごめん、繁……」
この悪臭……トイレで吐きやがった。しかも、パーカーやTシャツも汚している。
「ばかやろう、何してんねん! だからあんまり飲むなって言うたのに……洗濯するからパーカーとTシャツ脱げよ」
葵の背中をさすって吐けるだけ吐かし、雑巾を用意して床を拭き、汚れたパーカーとTシャツを受け取って 汚れを洗剤を付けて落とし、絞って乾燥機に入れた。
正直、着替えを着せたくない。また汚されたら……と思っていたものの、目の毒である。
「マウスウォッシュで口をすすげ。それからうがいしろ」
洗面所でうがいをさせた。俺は急に眠気が襲ってきた。仁川まで行って帰ってきて、疲れたかな? 着替えもせずに、ベッドに入り込んだ。
あかん、すっかり寝てしまった。目覚まし時計は夜の十時を指している。というか、何かやたらベッドが狭いと思えば…… げっ! 葵と添い寝、しかも……俺も葵も生まれたままの姿で毛布だけかぶっていて、ゴミ箱にはいわゆる使用済みのものがあるし……。
とどめにベッドサイドの脱ぎ散らかした俺達の服と、シーツの微かなる湿り気。
葵にうがいをさせてから、今迄の記憶が全くない。しかしながら、動かぬ証拠はきっちりある訳で…… で、問題の葵はといえば、静かな寝息を立ててまだ眠っている。これは下手に起こさない方が良いのか、
それとも起こしてきっちりと聞き出した方が良いのか……。どっちにしても、遥が聞いたらちゃんと責任とって葵と結婚しろと言いそうだ。
変な話、男は減るもんじゃないし、愛情と切り離す事は出来る。けど、女はそうはいかんやろ。愛情表現の一手段としてのものなんだし。
「うーん……」
葵が寝返りを打つ。俺の肩に葵の腕が触れた。それで、葵がゆっくりと目を開けるのに伴い、俺のその後の記憶もまざまざと蘇る。
「……繁?」
「二度と、こんな事するつもりあらへんかったのに……本能に任せてするって俺……最低やな」
葵に背を向けて、脱ぎ散らかした服を着る。
「どうして? あたし……繁に好きだって言われて嬉しかったのよ」
葵はすっかり酔いが覚めたのか、口調も普段通りのものに戻っている。
確かに、言うたのは認める。けどそれは目的の為なら手段は選ばない、というものだ。 少なくとも、葵と付き合っていた頃だったら葵をトランス状態にする事も考えていたのだが、
今の俺は自分の事しか考えていない。そこが最大の違いである。
「……ベッドの上やったらいくらでも嘘は付けるで。たとえ、どんなに憎いって思ってても、 身体の反応は別物やし。俺の両親を散々なじった奴の娘なんか、本気で愛する事が出来る訳ねえだろ」
「繁の言い方やったら、ロミオとジュリエットはナンセンスやって事になるやんか」
「あれは物語やし、イギリスと日本を一緒にするな。俺はお前に対して……もはや憎しみの感情しか残ってへん」
服を着終わった俺は、乾燥機から葵のTシャツとパーカーを取り出し、葵に渡した。
「着ろよ、そして帰れ。お前が俺の所に来てたなんて、お前の両親が聞いたら何て言われるか解らへんで。 それに、あの不倫……相手の嫁さんを泣かせたんと同時に、康行も裏切ってるんやぞ。そんな女を何で
俺が再び彼女にしたいって思うか? お前はどう思ってるのか知らんけど、俺にとって今のお前は 憎しみ以外は生み出さねえ。何も知らんかったら、一緒にメジロブライトを応援する事は出来るけど、
そんな気分にはなれねえ」
泣きじゃくりながら服を着る葵。そこへ、電話がかかってきた。
「もしもし?」
──成瀬さんのお宅ですか? 夜分すみません、桜木(さくらぎ)です。
「ごめん、ちょっと待って」
一瞬、俺の声がうわずる。俺は電話の保留ボタンを押して、葵に言う。
「悪いけど……彼女から電話やし、さっさと帰ってくれへんか?」
葵は不足そうにしながらも、俺の部屋を後にした。
康行さえ裏切らなければ、葵は康行と幸せになれたはずなのに、それを見届けた上で、 俺も結婚しようと思っていた。東京本社勤務当時に付き合っていた……桜木瑠璃(るり)と。
「瑠璃か? 久しぶりやなあ……元気か?」
瑠璃は俺が入社した年に某東京のお嬢様ミッション系女子大を卒業して入社した同期だ。新入社員研修後、たまたま同じ課に配属され、 その後も行われた集合研修では終わった後に一緒に夕食を取ったりしているうちに、深い仲になった。
当然ながら、社内の連中にばれないように仕事中は桜木さんと呼び、デート中は瑠璃と呼び分けていた。
中学、高校共に私立女子校だった瑠璃は、大学が無い進学校だった為に俺からは信じられないような受験勉強をしたと聞く。 競走馬で例えるならば、葵が夏競馬で早々にデビューし牡馬混合の三歳戦で勝ったりしてその貯金でクラシックを戦い抜き、
、クラシックも牝馬三冠取ったのに、古馬になってから牡馬混合戦はおろか、牝馬限定重賞でもさっぱり勝てなくなってしまうタイプならば、 瑠璃は牝馬限定の新馬、五〇〇万条件を勝ち上がってトライアルで優先出走権を得て、牝馬クラシックでは掲示板止まり。
しかしながら古馬になってから快進撃を続けて五歳時のエリザベス女王杯で悲願を果たすタイプだろう。
保留を戻し、再び喋る。
「ごめん、お待ち遠様。中学の同級生が来てて、今帰ったとこや」
──居ててもらってもよかったのに。私、あなたに報告しなきゃと思って……。
「何を?」
──実は、私……今年の十月に結婚する事になったの。
「そうか、おめでとう。で、相手は?」
──安原主任。
げっ、安原主任だと? あんな風采の上がらん、イエスマンか? ちょっとばかり凹む。 瑠璃は俺を振って……あいつを選んだのかい。
けど、そんな事瑠璃には言えない。苦手なお世辞で祝福する。
「そうか、安原主任だったら人当たりええからな。幸せになれよ」
──うん、ありがとう。成瀬さんも早くいい人見つけてね。それじゃ、お休みなさい。
「お休み」
電話を切った。時はいつまでも立ち止まる訳ではない。いつまでも過去を引きずってもいけない。 未来に目を向けなければ。
メジロドーベルは桜花賞には勝てなかったが、もう次のオークスに向かって調整しなければならないし、 メジロブライトだって皐月賞が控えているのだ。
なんとか、瑠璃の事は吹っ切れそうだが、俺はこの時、どうしても吹っ切れない相手が一人残っている事にまだ気が付いていなかった。