★ とかれない魔法 ★
青潟大学附属シリーズ
◆1
──いいかげんにしろ!
お父さんががお兄ちゃんを殴りつけ、怒鳴るのを初めて見たのは、私が四歳の頃だった。
日曜日だったことは覚えている。その日はお母さんがいなかったから。天気は晴れ。たぶん秋だったと思う。たぶんだけど。どんなきっかけだったかも、ほとんど覚えていない。ただ、お兄ちゃんが私の運んでいったキャンディーの束を思いっきり外に放り出し、ものすごい剣幕で怒鳴った時、口走った言葉だけは頭にしっかりと焼きついている。
──小春なんか、死んでしまえばいいんだ!
いつものように、私を庭に引きずり出して、芝生の上に突き飛ばした。
──お前がいるから、お前なんかがここにいるから。
背中に擦りつく草が痛くて冷たくて、私はただ泣きじゃくっていたらしい。どう感じたか、思ったかということは、四歳の記憶だからほとんど残っていないのに。鈍感すぎる私の性格は、この頃から出来上がっていたんだろう。
──ごめんなさい、お兄ちゃん、ごめんなさい。
言い慣れた謝り文句だった。お兄ちゃんは決して、お父さん、お母さんのいる時にこういうことをしなかった。おじいちゃんがいる時はもちろんだった。もし私に手を出しているところを見られたら、お兄ちゃんは一日中食事抜きにされてしまうだろう。私のわがままは大抵許してもらえたけれど、男だからという理由でお兄ちゃんはびしびしと叱られていたのを何度も見ていた。だから、私がお兄ちゃんに叩かれて泣くときは、できるだけ小さな声にしようと思っていた。四歳なのに、そんなこと考えるのか?って思われるかもしれないけれど、本当にそう思ったんだから仕方なかった。
私が時代劇のお白州で土下座するような格好で、何度も頭を擦り付けていると、不意に髪の毛を引っ張り上げられた。無理やりだったから、かなり毛が抜けたみたいだった。手に絡まった私の髪の毛を、お兄ちゃんは手を何度も振り払うようにして捨てた。
──小春なんか、僕の妹なんかじゃない!
お兄ちゃんの言葉は今でもはっきり残っている。
──小春がいなかったら妹は「るいこ」だったんだ!
──「るいこ」の方がずっといいんだ!
──小春なんかさっさと死んでしまえばいいんだ! 「るいこ」と交換しちゃえばいいんだ! お前がいると、みんなやあな顔するんだよ!
──「るいこ」の方がいいんだ! 「るいこ」の方が!
突然だった。奥の部屋で私たちの食べ残しを片付けていた父が飛んできた。いつもだったらもっと奥の部屋に入って、ひとりでプラモデル作りに熱中しているお父さんなのにだった。
──清明! やめろ!
私の前でさらに「るいこ」という名前を呼びつづけるお兄ちゃんに、お父さんが飛び掛った。むぎゅっとばかりにお兄ちゃんの短い髪の毛をひっぱりあげ、ものすごい音と一緒に地面に転がしてしまった。尻餅つく間もなく、お兄ちゃんは頭を打ちそうな格好でねっころがった。
──お兄ちゃん、寝てる。
そのくらいのことを思ったかもしれない。
──お前、いいかげんにしろ!
涙目のまま、私は泣くのを忘れてお父さんを見上げた。
──言っていいことと悪いことがあることくらい、小学生にもなってまだ気がつかないのか! 清明、こんなことしてたらな、お前。
次に続いた言葉を、どうして私は覚えているのだろう。
──もう二度と、「るいこ」に逢えなくなるぞ!
ほっぺたをさすりながらお兄ちゃんもお尻をつけて見上げ、大声で泣き出した。私も釣られて一緒に声を上げた。ふたり、芝生の上でただ、泣きじゃくるだけだった。仁王立ちで怒鳴っているお父さんがしばらく空を見上げた後、
「車に乗りなさい。小春にいいもの買ってやるからな」
お兄ちゃんにふだん見せるのと同じ笑顔を、私にくれた。
◆2
十年以上前のことを思い出すことは難しい。
どうして今になって思い出したのか、私にもわからない。
なによりもわからないのは、私がどうして、こんな硬い文章を書いているんだろうということだった。書かずにはいられなくなってしまったのは、外に言葉を出すことができなくなった、因果な口のせいだろうか。言葉が出てこないとどうして、がちがちな文章ばかりでノートを埋めたくなってしまうのだろうか。
いつもの私だったら、せいぜい授業中に回す友だちへの手紙で「ねえねえ〜、今度の日曜に美里とゆいちゃんと一緒に、『リーズン』のソフト食べに行こうよ!」といかにも子どもっぽいことを書いてみたりとかするのに。いつも、というよりも、言葉の残っていた時の私だったら、と言った方が正しいかもしれない。「美里に立村くんと今、どんなお付き合いしてるのかなってことも、教えてほしいし! それにゆいちゃんもアタック二回戦、チャレンジでしょ! 私なりにいろいろと教えてあげてもいいよ。あっそーだ。琴音のことも気になるしね」いろいろなことばかり、おふざけばかり。
すでに、修学旅行用の準備は終わっていた。明日の朝六時に出発するとあって、本当は早く寝なくてはいけなかった。昼間はひどかった雨も、夜十時代を過ぎると小ぶりとなり、十一時台の天気予報だと明日は快晴、とお天気おねえさんが差す棒もって話している。
お母さんがさっきまで私の部屋でいろいろと話をしていたけれど、ほとんどなにも聞いていなかった。きっと、うちのクラスのこととか心配なんだろう。私が言葉を咽にぺったりと張り付かせたまま、何も言わなくなったこと、きっと誰かにいじめられたんだろうと思っているに違いない。そんなことはない。いじめられたわけじゃない。すべては私が悪い。
──一緒によし恵ちゃんがいるから大丈夫ね。
頷き、お菓子の包みをすぐに取り出せるポーチに詰め込んだ。
──それと、あの男の子……のお母さんがね、さっきうちにお電話くれたのよ。
思い当たる節があるから、ただ頷いているだけ。
──もしよかったら、夏休みによし恵ちゃんと一緒に神乃世へ遊びにいらっしゃいって。
よし恵ちゃんだけでも喜んでいくだろうな、と思ったけど、今の私は余計なこと言わないですむ。よし恵ちゃんの憧れの彼がいるなんて、内緒だ。私をカモフラージュにしたいところなんだろう。
──修学旅行前にほんと、大変なことになったわよねえ。でもね、小春。大丈夫だから。みんな、お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもみんな、小春の味方だからね。
もう外した前髪のゴムを机の上に置いた。すでにパジャマに着替えておいたから、すぐに寝るつもりなんだと思われているだろう。
──もし、誰かにまたひどいこと言われたら、今度はすぐに狩野先生に言いなさいね。メモで書いて渡すだけでもいいのよ。それかよし恵ちゃんにお願いするとかね。よし恵ちゃんのお父さんもさっき、うちにお電話くれてね、みんな小春のこと大好きなんだからがんばれってエール送ってくれたわよ!
頷くだけで時が流れていく。
あの日までの私だったら、「もう! お母さんってばうるさい! 早く出てってようっとおしいんだからっ!」と押し出していただろう。口げんか、激しくやらかしていたかもしれない。簡単にひっこむお母さんじゃないから、「もう、小春もなにむくれてるのよ! いい? お父さんとお兄ちゃん、おじいちゃんの前ではそんな女の子らしくない口、利いたらだめよ! 嫌われちゃうんだからね!」と怒られ、拳骨ひとつもらうかもしれない。
──じゃあ、朝、四時半に目覚ましかけておくからね。おやすみ。
出て行き際、お母さんは不意に私をじっと見詰め、また近づいてきた。せっかくいなくなったと思ってせいせいしてたのに、油断していた。むかっときそうで背中を向け直したとたん、背中から抱きつかれてしまった。
──ちゃんと、どこかにいいお医者さんいるからね。どんなことあっても、小春がおしゃべりできるようにするからね。がんばるのよ。
お母さんの顔は見えない。目を閉じる。身動きしないでただ、立っている。
──お母さん、信じているんだから。本気で願ったら必ず想いは叶うんだって。お母さん、小春がちゃんと元通りになること、信じているからね。お父さんも、お兄ちゃんも、おじいちゃんも、みんな祈っているんだからね。
私がお母さんに授かった、ひとつの真理。
──本気で願ったら必ず想いは叶う。
信じている。信じているから、口には出さない。
◆3
ベットに入り、そっと目を閉じた。今日はいろいろなことがあったし、身体だけではなくて、気持ちもずたずたに疲れていたことを思い出した。なのに寝られない。言葉で全部吐き出すことができなくなったから、全身細胞がまだ騒ぎたてているのかもしれない。
四歳の頃、買ってもらった小さなテディ・ベアのぬいぐるみ。
中学三年にもなってまだぬいぐるみ抱っこして寝るなんて人には言えないけれど、こうしていないと落ち着かないのも私のくせ。宿泊研修の時も実は、こっそり持って行っていた。評議委員会合宿の時も、触れる場所にこっそり置いておき、人の眼を一瞬盗んでぎゅっと抱きしめた。ずっと抱っこしていなくてもいい。一度、目の前でだっこしたらそれだけで落ち着く。でも、今夜は一緒にいてもらわないと、言葉にならなかった気持ちの嵐が収まらないかもしれない。長丁場の修学旅行だし、早めに寝ておいたほうが酔わないためにもいいとわかっているし。
テディ・ベアの顔と私の鼻を付き合わせる。
──天羽くんに、似てる。
放課後、真面目な顔をしてじっと私に向き合ってくれた、彼の顔にそっくりだった。がっちりしていて、いかにも応援団やりたさそうな顔しているのに、おしゃべりすると愛嬌たっぷりの関西こてこてネタの連発だった彼の口元。いつも「小春ちゃん、あのなあちょいとばっかり頼まれておくんなせえ」とか、からかい半分で話し掛けてくる彼。「俺、ルパンとしてはつい、照れちまうんだよあ、レイモンド様」と、白いドレス姿の私ににっこり笑いかけてくれた瞳。
──嘘じゃない。嘘じゃない。
繰り返し、胸の奥でつぶやいた。また、全身細胞を元気に起こしてしまったみたいだった。目が冴える一方。目を閉じれば今度はテディ・ベアに似た彼の顔が思い起こされてしまう。
──嘘だったら、あんなに優しい思い出なんて残らないよ、天羽くん。
今年の二月から私と天羽くんとの間に起こった出来事は、あまりにもあんまりなことばかりで、私の本心よりも先に、言葉を欲する場所の方が参ってしまったらしかった。少なくとも私はできるだけ、普通になろうと努力してきたつもりだった。哀しいとか辛いとか、人前では絶対に出さない、と決めていたつもりだった。本当に仲良しの子の前でしか泣きたくなかったし、天羽くんが私よりもいいと思って選んだ、今の彼女に意地悪をするなんて考えたこともなかった。そんなことしたら、一層天羽くんに嫌われるとわかっているから当たり前だった。
少女漫画ではいつも、「恋のライバル」という存在がいて、完璧すぎるくらいの美貌と能力を持ち、私みたいなぐずでとろい女の子は翻弄されてしまう。それでも、憧れの彼は最後にぐずでとろい女の子を選んでくれるはずだった。よっぽどのことがない限り、そのお約束が崩れるなんてことは、なかった。
決して私は、クラスの女子たちから比較して可愛くもないし、美人さんでもない。評議委員会の女子で較べてみても、私だけが一番おばさん臭い顔をしているし、おしゃれセンスもぜんぜんない。本当だったら、うちのクラスの評議委員でがっちり頼れるお笑い兄さん・天羽くんとつりあうなんて想像すらしてはいけなかったのだろう。ただ、私が一、二年だけ評議としてコンビを組んで、やたらと行事の多いうちの学校で自然と天羽くんとおしゃべりする機会が増え、なんとなく周りからも「公認カップル」扱いされてきたら、やはりこれは決まりなのではと思い込んだ、それがいけなかったのかもしれない。思い上がり、ただそれだけだったんだと、今は思う。
入学した時から、あったかそうな人だと感じた。
どんくさい私が、どこに座ればいいかわからなくてまごまごしていた時、すぐに 「ここだよん、ほーら、魔法のテーブルかけ!」……今でもこのギャグの意味がわからない……連れていってくれた時。
ほぐれたような笑顔が焼きついて、それが一目ぼれのきっかけだったのかもしれない。中学に入ったら、素敵な男子と出会えるかなと夢見ていたから、即、出会えたことに感謝でいっぱい、毎日テディ・ベアに話し掛けていた。
──あのね、天羽くんっていうのよ。
──私も、お笑い番組、もっと見なくちゃ。たまに面白いらしいこと言うんだけど、私にはわからないの。関西系?
ビデオを録画して、毎日テレビのバラエティー番組やコメディばかり観るようになって、私もずいぶん詳しくなった。天羽くんも「いやあん、ばかあん、もう感じるう」というような下ネタ系のギャグ以外は私が突っ込んでやると喜んでくれた。
「小春ちゃんってずいぶん、話わかると違う? 女子でここまでっていないよなあ、えれえやっちゃ」
──それもこれも、みんな、嘘だったんだろうか。
もうそれは認めなくてはならない事実なのだから、しかたない。
今だに私は受け入れられずにいるのかもしれないけれども、受け入れない限り、天羽くんは私を許してくれないだろう。何を許されるのか、それ自体が私には見えない謎なのだけれども、天羽くんの言うことはきっと、正しいのだ。
──俺は、入学した時から、あんたのいい子ぶった態度が大嫌いだったんだ!
晴れた五月の空。美術の写生授業。天羽くんが言い放った言葉。
もう、他のことは覚えていない。
一緒に天羽くんと今付き合っている近江さんが、つまらなさそうな顔をして突っ立っていたことくらいは見ていたけれども、もう私には同じ言葉のフレーズしか頭を駆け巡ってくれなかった。
──大嫌いな奴を無理やり好きになることが修行のひとつだったから?
混乱した頭の中で天羽くんの言いたいことを整理していき理解できたことはひとつだけだった。天羽くんは、私が王子様だと認定した同じ瞬間に、「この女子大嫌いだ」と決め付けたということ。その気持ちは今まで一度も変わったことがなかったということ。
──じゃあどうして、一度でも付き合おうって言ってくれたの?
──もう一度だけ、チャンスをくれればちゃんと、天羽くん好みの子になるから。
──でしゃばらないで、いつも笑顔で、泣かないで、クラスのために一生懸命で、手抜きしないで、それで……。
私のできることは、たぶんすべてしたと思う。
もう三年になってからは評議委員から降りたけれども、決して愚痴なんてこぼさないと決めていたし、よし恵ちゃん以外の人には一言も文句を言わないようにしてきたつもりなのに。
天羽くんはきっと明るく元気で、関西ギャグに詳しくて、それでいて楽しいタイプの子が好きなんだって思っていたから、私もそれにあわせるように毎日努力してきたつもりだった。お母さんの言っていた通り、「本気の願いは叶う」はずだから。
けど、叶わないってこと、なんだろう。
私はもう、天羽くんを思いつづけることすら、許されないのだ。
天羽くんが望んでいることはひとつだけ。
──私をとことん、嫌いたいだけ。
──そして一切、縁を切りたいだけ。
──そうしてくれたら、これ以上、決して嫌いにならないようにしてくれる。
◆4
だけど、今日、評議委員長の立村くんが取り持ってくれた「弾劾裁判」で天羽くんは、泣きそうになりながら、半年振りに私を「小春ちゃん」と呼んでくれた。
「奇岩城」撮影が終わるまでは、いつもそう私を呼んでくれたささやかな呼び名すら、もう聞くことができなくなった。代わりに「西月、あんた」の呼び捨てのみ。半径一メートル以内には近寄るな、むかつく、うせろの連発。きっとお付き合いしてもらえてどこか気が緩んで、甘えすぎてしまったのかもしれない。
小さい頃から夢だった、恋人同士の指輪プレゼント。
王子さまから薔薇を捧げてもらう夢。
一緒に手をつないで帰る放課後の道。
いつか、叶えたいものばかりで毎日溢れていた。だから、ついそれをくちばしってしまったのが、男子にはうざったく思われたのではないか?というのが、友だちの意見だった。だからこのあたりはみな反省した。もう二度と、なにかちょうだいなんて言わないと決めた。うっかり冗談を言ってしらけさせるのがまずいんだったら、おとなしくすればいい。
──評議委員、私と一緒にやるのがいやだったら、降りればいい。
もちろん、確かに、三年女子評議を降りるというのは周りからさんざん色々言われた。 「天羽のせいかよ」とこづかれたり、「最低! いくらなんでも今の彼女を入れるなんて!」と怒ってくれた友だちもいた。でも、それはしかたないことだ。天羽くんが望んでいることを、私はただするだけだったし。ただ、評議委員の仕事はうちの学校特有なのだけれども、かなり複雑でいきなり途中入会した人にはしんどいだろうなと思った。だから、二年三学期のうちから今の彼女……近江さん……には意識を持ってもらったほうがいいな、と余計なことを考えてしまった。つい、ロングホームルームでよけいなこと、言ってしまったのかもしれない。私みたいな、天羽くんにとって価値のない子に、くだらないこと吹きかけられるのはたまったもんじゃないと思われたのかもしれないけれど、それ以来天羽くんはさらに私を無視するようになった。評議経験についてののささやかな手伝いすら、余計なことだと言って、一切近づけてくれなくなった。
──どうすれば、私のこと、もう一度、好きになってもらえるんだろう。
私はもう一度、テディ・ベアに話し掛けた。
──るいこ、どう思う?
テディ・ベアの名前だった。もちろん家族にも友だちにも、内緒。
初めてお兄ちゃんがお父さんに殴られて大泣きに泣いた晴れの日。
結局ふたり、べそをかいたまま車に詰め込まれ、デパートのおもちゃ売り場に連れて行かれた。お父さんはもともとお兄ちゃんのことが大好きで、一緒にプラモデル作ったり、お馬さんの話……いわゆる競馬……をしたり、男の子しかできないおしゃべりばかりしていた。私が一緒に入れてもらおうとするたび、「小春には難しいよ」と遠ざけられてしまった。お母さんがすぐ私を別の方むかせようとするので忘れるのは早かったけれども、やっぱり淋しかったことは否めない。
思い出せば、この時初めて、私はお父さんにおねだりしたんじゃないかなと思う。いつもはお母さんかおじいちゃんあてだった。大抵なんでも買ってもらえたけれども、なんとなくお父さんには「あのお人形、ほしいの」と言ってはいけない雰囲気が漂っていたし、お兄ちゃんも私がお父さんに近づこうとすると殴りつけてきた。
三人一緒というのは、この時が最初だった。
──小春、ほしいものあったら買ってあげるよ。何がいい?
──くまさん。
おもちゃ売り場の柱周りにたくさん積み重ねられていた中で、私は「るいこ」を見つけた。
──このくまさん、「るいこ」って名前にするの。
それほど思いつめた言葉ではなかった。お兄ちゃんがしつこいくらい「るいこ」と繰り返していたから頭に焼き付いていただけだった。お父さんがいきなり私を抱き上げ、そのままテディ・ベアの値札を取ってもらい渡してくれた時の気持ちよさったらなかった。お父さんが私を全身でだっこしてくれるなんて、お兄ちゃんみたいでかっこよかった。
──小春、ひとつだけ、お約束してくれるかな?
──なあに?
──お兄ちゃんが言ってたことを、内緒にしてほしいんだ。
私の性格から考えて、難しいことを思い出すことはできないだろう。きっとお父さんが次に続く言葉を念押しさえしなければ、私はすっかり忘れて次の日にまわしていたことだろう。
──るいこのこと?
頭の上に、さっきお兄ちゃんによって乱された髪の毛を直す気配を感じたような気がする。
──お兄ちゃんね、学校に大好きな子がいるみたいなんだよ。その子のことが大好きなんだけど、さっきお兄ちゃんと約束しておいたから安心しろよ。もうその子のことは忘れて、小春のことを大切にするからな、とね。
何を言っているのか、四歳の脳では理解できなかった。言葉だけを丸覚えしているだけだった。
──お兄ちゃんはこれから絶対、小春以外の女の子を妹になんかしないと約束してくれるから、今日のことは、おじいちゃんやお母さんに内緒にしてもらえないかなあ。
内緒もなにも、鳥頭の私には、既に記憶から消えかけていたはずなのにだ。
──そうしたら、お兄ちゃんは小春のことを守ってくれる、王子さまになるって約束してくれるよ。いいかい?お父さんがこれから、お兄ちゃんに呪文をかけてくるからな。そうしたら、小春をお姫様にしてくれるぞ。今日のことを誰かに言ったら最後、その呪文は解けてしまうからな。ゆびきりげんまん、できるかな?
幼稚園で「王子様とお姫様」の童話は数多く読んでいた。だから、お兄ちゃんが王子さまになる呪文がどんなものかはわからないにせよ、なんとなく自分にいいことが起りそうということは感じていたのだろう。
──ほんと?
のろまな私はそれしか言わなかった。
──魔法をかけにじゃあ行ってくるから、小春はくまさんと遊んでなさい。
そこのおもちゃ売り場では、女児・男児のおもちゃ遊び場が半々で設けられていたようだった。私がテディ・ベアと初対面の挨拶と今後の相談をしていた間、お兄ちゃんとお父さんが何か真面目な顔をして話をしていた。もちろん内容なんてわかるわけもなかった。ただ、お父さんがお兄ちゃんに呪文をかけて、一緒に車へと乗り込む時に、
──さ、小春から先に乗れよ。
まごまごしている私を両腕ひっぱってだっこして、一緒に隣り合って座ってくれた。
さっき、髪の毛を引っ張って、「お前なんか死んでしまえばいい!」と叫んでいたお兄ちゃんの顔ではなかった。何度も、髪の毛を撫でてくれた。しかも、思いっきり笑っていた。お父さんと時たま目を合わせていたけれども、そんなことは後から思い出したことだった。
お兄ちゃんにかけられた魔法の呪文。ずっとそれから記憶から抹消されたはずだった。
今、言葉を失って後までは。
そう、お兄ちゃんにはまだ、私をお姫さまとして扱ってくれるような呪文がかかっているようだった。私があの日のことをおじいちゃん、お母さんに打ち明けない限りは、こうやって毎日、私の部屋を覗き込んで、
──小春、大丈夫か? 悪い奴がいたら、お兄ちゃんがやっつけてやるからな!
──小春のこと、みんな可愛いって言ってたぞ! 自慢なんだからな!
と、聞いていると恥ずかしくなるような言葉をたくさんプレゼントしてくれた。
今日だってそうだった。
──小春、お前、いくらでももてるから大丈夫だよ。あんな奴よりももっといい奴いるだろ? ほら、「迷路道」のお坊ちゃま。
目の前に浮かんでくる、顔立ちだけが少しはっきり目の、同じクラスの男子。
──俺はな、お前に馬鹿な奴と付き合ってもらいたくねえよ。あいついい奴だから、思い切ってあいつに切り替えてみるのもいいと思うぞ。いいか小春、男はな、今ボケやらかしていても、あとで大化けするかもしれないしな。じいちゃんも言ってただろ? 今泣いてもちゃんと取り返せるよってな。
やっぱり、今でもお兄ちゃんは、私の王子さまのままだった。
お父さん、ものすごい呪文をきっと「私四歳、お兄ちゃん七歳」のあの日、晴れ渡った空、どこかでかけたに違いない。どんなことがあっても、私は呪文の効果を無くすることなんてできやしない。ただ、腕の中で眠っているテディ・ベアに、記憶のひとつを隠すだけ。
──るいこ、聞いてくれてる?
◆5
──天羽くんに、許してもらう方法を教えてください。
「るいこ」を抱きしめ、鼻と鼻をぶつけ合い、身体の中からざわめく声を聴いた。
──よし恵ちゃんも、それと、あの。
目を閉じると、じっと真剣な顔をして……よし恵ちゃんとはふざけあっていたみたいだ。やっぱり仲良くなったんだろう……私に「してほしいことあったらする、けどしてほしくないことはしないから、安心して」と訴えてくれた片岡くんが浮かんできた。一ヶ月前までは、一瞬だって思い出したこともない、クラスの男子だったのに。今はもう、おじいちゃんも、お父さんも、お兄ちゃんも、お母さんも、みな片岡くんを応援している。
私を、救ってくださいとばかりにだ。よし恵ちゃんじゃないけれども、「片岡くんを利用しろ」ってことなんだろうか。なんだか汚いような気がしてならない。
けど、今私がしようとしているのは、まさにそれでしかない。所詮、私も汚い人間なのだ。だから、天羽くんには好きになってもらえなかったのだから。
片岡くんは、クラスの男子としても決して劣っている子じゃないと思う。一年時に彼が起こした「女子体育更衣室下着ドロ事件」についても、私は最初から犯人を彼だと決めつけたくなかった。かなりの物的証拠が残っていたらしいけれど、それで決め付けたらクラスには泥棒がいることになってしまう。そんなのはいやだった。別に片岡くんを気にしたわけではなかったけれども、天羽くんはこっそり弾劾裁判を男子たちと行ったらしい。
その頃から私は思っていた。天羽くんは、間違っていることを間違っている、と指摘されたらすぐに納得して反省する人だって。そういうことをちゃんと指摘できる女子が好きだって。だから、天羽くんにはっきり言ったのだ。
「証拠がないのに決め付けるなんて、最低よ! 片岡くんが犯人だって決まったわけないじゃない!」と。
その時天羽くんは相変わらずへらへらと
「さっすが小春ちゃん、けどまあその辺はノーコメントで許してや〜!」
とお笑いでごまかしていたらしい。けど私としてはどうしても納得いかなかった。好きと言う気持ちと、クラスメートを犯人扱いするという許せない態度、それが重なりあわなかった。だから意地でも私は、天羽くんに見せ付けてやりたかった。
──片岡くん、おはよ!
クラスの男女ともに無視状態が続く中、私は片岡くんに朝夕の挨拶を続けた。片岡くんだけではなく、他のみんなにも。年賀状もきちんとみんなに出すように決めていた。ひとりだけでも出さなかったら淋しい思いするだろうし、そういう心遣いするタイプの女子こそきっと天羽くんは好きになってくれるはず。そう、私の行動はすべてが天羽くんに向けられていたと今になって知った。だからなのだ。だから、私は嫌われた。
──片岡くんに、信じられないくらい本気で想われたかわりに。
いろいろなことがあって、片岡くんがただのお金持ちお坊ちゃまでなく、不器用だけれども一生懸命、私のためにだったら何でもしたいと思ってくれていて、私が夢見ていた「指輪」と「薔薇」を用意してくれたことを知った。よし恵ちゃんも片岡くんとかなり仲良くなったらしくていろいろな話を聞かせてくれるけれども、実はかなりのぼけかます子らしいとか。
──私の写真、机の上に毎日飾っているんだって。
──変だね、あまり、私、気持ち悪いって思わなくなってる。
私がしゃべり方を忘れたあの時以来、片岡くんは、私を連れまわしたからこうなったんだと勝手に自分を責めている。違うのに、勝手に咽に言葉が絡んでしまっただけなのに。責任を感じてくれなくたっていいのに。片岡くんはなにひとつ、悪くない。片岡くんは私のことをただ、大切にしようとしてくれているだけ。薔薇の花も指輪も、私がほしがっているから。片岡くんのふるさとに連れていってくれると言ってくれたのも、私が天羽くんのいる教室に行きたくないと泣いたから。片岡くんはちっとも悪くない。
ただ、受け止めることができなかった私が悪いだけ。
──これが、天羽くんだったら。
仮定の言葉を口癖にしてしまう、私の物言わぬ咽もとの言葉が悪いだけ。
──もし片岡くんが私のことを好きでいてくれるのだったら。
言葉をもっていた頃の私だったら、きっといつものごまかし笑いで「ありがとう、でも私、まだ好きな人がいるから」と答えただろう。もう天羽くんに好きになってもらえないとしても、心の奥でこっそりと天羽くんの姿を追う自由はあるはずだ。見えないように、決してばれないように。でも、天羽くんの言葉はすでに、そう思う気持ちそのものが不快だというように聞こえた。どんなに私が心の奥に秘めていても、それを敏感に感じ取り、押し付けがましく思ってしまう天羽くんには堪えがたいものなのだろう。
もう、私にはひそかに思うことすら、嫌われる対象でしかないのだ。
よし恵ちゃんが言った通り、「嫌われてあげる」これだけしかないのかもしれない。
一切希望をもたずに、忘れるしかないのかもしれない。
でも、と私は「るいこ」に話し掛ける。もちろん心の奥のみ響くように。
──天羽くん、言ってたよね。
──もし、私が片岡くんに、やさしくしてあげれば。
──これ以上、私を嫌いにならないですむかもしれないって。
今の私が望むことはひとつしかない。天羽くんにこれ以上嫌われたくないということだけだ。もしそのためにできることだったら、私は何でもするだろう。土下座しろといわれたらためらうことなく一日中ひれ伏すだろう。裸になって走れといわれたら、今の私ならきっとそうするに違いない。服を脱げといわれたら、きっとためらわない。羞恥心も、天羽くんに嫌われないという保証さえあれば、捨てられる。
──クラスの「下着ドロ」の恋人になることも、たやすいこと。
決して私は片岡くんが嫌いなわけではない。むしろ、一緒に学校を抜け出しうろうろした時から、他のクラス男子たちよりも一歩近い存在として映っていることは確かだった。私のために給食のパンと牛乳を持ってきてくれたことも、いきなり自分のふるさと……あまりにも遠すぎるので私も、これはまずいと判断し、通りすがりのお菓子屋さんから狩野先生に連絡して止めさせたのだけれども……に連れていこうとしたり。もし、彼が「下着ドロ」の犯人なんかでなかったら、私は天羽くんのことを忘れようとして付き合うかもしれない。
でも、片岡くんと付き合った場合のリスクが、余りにも大きいことを私は忘れていない。
女子同士の間で、評価の低い男子と付き合うと大抵、馬鹿にされたり悪口の対象になったりするものだ。あんなことが起る前なら私も、人を貶しあうグループのひとりでいただろうけれども。「下着ドロと付き合うんて最低よね。自分のパンツ見せてやってるのかしら」「ほんと、常識ある人だったらねえ」と笑えただろう。でも、今、私が笑われる立場に立ったとしたら、どのくらいの友だちが残ってくれるだろう。片岡くんおよびおつきの教育係さんの大ファンたるよし恵ちゃんは別としても、他の子たちはどうするだろう? もちろん片岡くんのちょっととぼけた性格を知れば、若干増える可能性はあるけれども、クラス全員の前で「下着ドロをやらかしたのは、僕です」と告白してしまった以上、もう女子たちからは相手にしてもらえないはず。
今までの私なら、決して踏み入れない場所だ。
けど、もし天羽くんが望んでいることだとしたら。
私と片岡くんが付き合って、仲良しになったとしたら、天羽くんは喜ぶのだろうか。
もし、喜んでくれるのだったら……?
──大丈夫、心配しないで。
自分の中の自分が答えを出すのが聞こえる。
──本気で願えば叶うはずよ。お母さんだって言ってるじゃない。本当に叶ったじゃない。お兄ちゃんにいじめられて泣いていた時、小春は「私」を見つけてくれたじゃない。
「るいこ」がつぶやいている風にも聞こえた。黙りつづけると自分と無機物の声が混じりあい、わけがわからなくなる。
──お父さんがお兄ちゃんに、呪文をかけて素敵な小春専用の王子様に仕立ててくれたように、これから小春も、天羽くんに呪文を唱えるのよ。片岡くんと付き合って、完璧に天羽くんの希望をかなえてあげるの。そうすれば必ず、天羽くんはもう一度小春ちゃんを思ってくれるはず。約束してくれたじゃない。片岡くんに優しくしてくれれば、これ以上嫌いにならないって。小春がお兄ちゃんの秘密を言わないでいるうちはずっと、自分専用の王子様としてお兄ちゃんを側に置いて置けるのと同じ。片岡くんをみんなの前で恋人扱いしてあげれば、必ず天羽くんに魔法はかかるはずよ。
テディ・ベアの名が「るいこ」ということを、私は決して口にすることはないだろう。
四歳のあの日、手に入れた王子様を失いたくない、それのために。
だからもう一度、私は呪文を唱えて天羽くんの願いをかなえることにする。天羽くんは鈍感な私よりも、ずっと繊細だったんだと改めて思い知った。私とは正反対の、クールで頭の回転が速くて、クラスなんかどうでもよくて、女子たちの話題には入っていく気さらさらないという近江さんを選んだ人なのだ。私が身体と心ともに天羽くんへ尽くそうとしても、むだだ。また天羽くんを追いかけながら片岡くんと付き合った振りをしても、きっと彼は見抜くだろう。「だからあんたのいい子ぶったとこが嫌いなんだよ」と怒鳴られるだろう。もういやだ。
私はこれ以上、天羽くんに憎まれたくない。
好きになってもらわなくてもいい。
──私、心の底からちゃんと、片岡くんのこと、好きになるから。
──だから、天羽くん、私をこれ以上、嫌いにならないで。
カーテンを開け夜空を見上げた。ひしゃく星がはっきり形付くられていた。
十年前のあの日と同じ、明日はきっと青空だ。
──終──