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■――桜の日――■
小学校入学式にて。ある少年と杉本梨南とのスケッチ

原稿用紙10枚弱





  1

 なぜあの日、彼女は口紅をつけてきていたのだろう。
 もしかしたら、あれがすべてのきっかけだったのかもしれない。

 初めて梨南と出会ったのは、小学校の入学式だった。あの頃から変わらない長い髪を束ね、馬の尻尾のように、頭てっぺんにのっけていた。さらに猫の耳風の大きなリボンを垂らし、紺色のふわふわしたドレスを纏っていた。足までくるようなずるずるのスカートに、白い羽織みたいなものを巻きつけていた。今の時代ははやらないようなフランス人形のような格好だった。
 両親らしき人に連れられて自分の席を探していた。彼女は全く動かないままじっと教室の一点を見つめていた。たまたま僕が教室に入って行った時、梨南のお母さんが、
「梨南ちゃん、ここよ、いらっしゃい」
 と、一番後ろの席を指差していた。そしてお父さんらしき人が手を取って連れて行っていた。

 なんでだろう、僕もその時は両親と一緒だったはずなのに、当時の記憶が薄れている。特に僕なんてぼおっとしている性格だったから、人に連れて行ってもらわなければどういけばいいかなんてわからなかったはずなのに。たぶん突っ立ったままだったのだろう。僕はただ、彼女の顔に赤チンみたいなものがついているのに気が付いて、じっと見つめていただけだった。
 ──可愛いなあ。
 心に感じたことが、僕の場合すぐに言葉として飛び出す。
 誰かに聞かれたのかもしれない。
「可愛いなあ」
 思わず僕は、側にいた誰か……たぶん母さんだろう……を振り払ってフランス人形風の子のもとへ走っていった。僕はいつもそうだけど、いいと思ったことをがまんすることができない。悪いことはがまんするものだと思っているけれども、喜んでくれると思ったら、即座にやることがくせだった。
「瞬、どうしたの」
 たぶん母さんが止めたんだと思う。
 でもいやいやをして、たぶん梨南に近づいたんだと思う。
「僕、秋葉瞬(あきば しゅん)っていいます。名前なんて言うの」
 小学校に入ったら、初めて会った人にはきちんと自己紹介しようね、と幼稚園の先生に言われていた。
「私?」
 声はゆっくりとして、でこぼこのないはっきりしたものだった。
 今まで聞いたことのない大人な言い方だった。
「うん、なんて読むの」
 ぴかぴかに磨かれた机の左手がわには、ひらがなで名前が書かれていた。けど、僕には読めなかった。赤で囲われたシールの名前を彼女は指差した。
「ごめん、僕読めないんだ。読み方教えて」
「すぎもと、りなん」
 まっすぐなまなざしで、彼女……杉本梨南……は名乗ってくれた。
 僕と幼稚園で一緒だった女の子にはない名前だった。
「りなん?」
「うん、あきば、しゅんって読むの?」
 梨南は僕の左胸にぶら下がっていた名札をすぐにすらすら読んだ。
「うん、そうだよ」
 いつのまにか母さんが僕をひっぱりに来たらしい。頭の上で、梨南のお母さんらしい人にぺこぺこ謝っている声が聞こえていた。僕は目をそらさず、ずっと梨南のことを見つめていた。何か話したいことがあるんだけど、わからなかった。もういちど、
「りなんは、可愛いな」
 と繰り返した。
 梨南は黙って僕のことを見つめ返しただけだった。
 あの頃から梨南は笑わない子だった。



 たぶん母さんに怒られたかなにかしたのだろう。僕はひたすら泣いていた。入学式そうそう大泣きしてしまうなんて、情けないありさまだった。
 ちゃんと並んでね、おなまえの順番にね、ほら、秋葉くんは一番前に来てね。
 これから担任になるはずの先生が僕を廊下の一番まん前に連れ出した。
 べそをかいたまま天井を見上げ、僕は涙目のままフランス人形のような梨南を探した。口に赤チンをつけたまま、女子の並ぶ後ろの方にいた。
 今思えばしかたないことだった。
 梨南は「すぎもと」だったのだから、あいうえお順でいけば僕の隣りにくるわけがなかったのだから。でも、僕にはわからなかった。
 ──りなんといっしょに並びたい。
「僕、りなんと一緒に並びたいよ」
 うちの母さんよりも年取った先生は僕を眺めて、
「はあ?」
とつぶやいた。
「りなん?」
「うしろにいる口に赤チンをつけた女の子と並びたい」
 隣りにいた「あ行」の女の子がいやだったわけではない。
 ただ、僕は梨南と一緒にいたかっただけだ。
「赤チン?」
 目を丸くして先生は僕と、そして梨南の方を眺めた。その顔がやがてきりきりと引き絞られてきたようだった。
「いけません。秋葉くん。前にいてね」
 言葉は優しげだったけれども、なんとなくちくちくする響きが残っていた。  早く気付けばよかった。  どうして僕は聞いてしまったのだろう。
「どうしてだめなの? 僕、りなんが可愛いから側にいたいのに」
 本当のことを口にしただけだ。
「いけません。みんなの前でそういうことを言ってはいけません」
 隣りの女の子は何も言わなかった。後ろの方も何も言わなかった。
 ただ、向こうの方から一声聞こえたのを拾っただけだった。
「きもちわりいなあ、ちかよんなよ」

 ──気持ち悪い?
 そんなわけない。梨南みたいな可愛い子が、気持ち悪いわけなんてない。
 そう感じたのが、実は僕だけだったことに気付いたのはずっとずっと後のことだった。



 僕が涙目のまま、ずっと入学式中ぐずぐすしていたけれど、梨南は何も言わなかった。きっと僕がどこにいるのかわからなかったのだろう。でも僕の目には、いっぱい渦みたいなものが白い曇り色の中でうごめいていた。
 ──りなんみたいな可愛い子はいない。本当にいない。
 ずっとそればっかり考えていた。
 それまで決して僕はませていたわけではなかったと思う。女の子もいた幼稚園だったし、みんなと仲良く遊んでいたつもりだった。ただ、僕と遊ぶのはみなあきてしまうみたいで、いつのまにかひとりになっていた。どうしてかわからなった。
「りなん、かわいいなあ」
 隣りの女の子が黙って僕の方を見た。
「可愛いと思わない?」
 僕の悪い癖が出てしまったと気付くのは、ずっとずっと先だった。
「わかんない」 
 それだけしか言わなかった隣りの女の子。
 ──あんな可愛い子がいるのに、どうしてみんな何も言わないのかな。
「ね、可愛いよね」
 そればかり繰り返してみた。でも返事してくれなかった。最後には先生に
「秋葉くん、静かにしなさいね」
 と声をかけられた。どうしてだろう。可愛い子を可愛いと言って、どこが悪いんだろう。

4   

 式が終わって僕は、梨南の姿を探していた。
 そしてすぐに見つけた。口もとに赤チンをたくさんつけた女の子はひとりだけだったからだった。
「りなん、こんどは一緒に並ぼうね」
「どうして」
「だって、りなんは可愛いから。僕は一緒にいたいんだ」
 僕の心にそのままつりあう言葉を並べた。
「可愛いってなあに」
 赤チンを塗った唇が動いた。真っ白い顔にはっきり濃く出ていた。ドレスが歩きづらそうだったので、僕はテレビに出ていたみたく、脇のスカートをそっと持ち上げた。花嫁さんのようにした。
「ありがとう」
 笑わないけれど、梨南はそう言ってくれた。僕の目をしっかと見て。いっしょに教室に入っていった。

「あ、へんなの、あいつらくっついてるぜ」
 僕と梨南が入って行った瞬間、窓際近くの席から大きな声が響いた。
 背が高くて、目が大きい男の子だった。
「きもちわりーの」
 誰も真似しなかったけれども、その男の子は僕を頭のてっぺんから足先まで眺め、
「なんだよ、口、すっげえ汚ねえの」
 梨南の口元を指差した。
「きもちわりい顔にきもちわりい色ぬってるぜ」
 梨南は動かなかった。ただ、きょとんとした顔で立ちすくんだだけだった。
「くっついてるお前もきもちわりいの」
 僕は思わずうつむいて足と頭と手を眺めた。今日は汚くしていない。
「きもちわるくないよ、りなんは気持ち悪くないよ」
 隣りで立ちすくんでいた梨南は、口を尖らせている男の子をじっと見つめ返していた。
 何も言わず動かないでいた。  



 ランドセルに物を入れるのにこんな時間かかるなんて思わなかった。
 僕がもたもたしている間に、梨南はお父さんお母さんと一緒に外へ行ってしまった。
 帰る前にみんなで写真を撮ることになていた。
 記念撮影ってことだった。僕が一番最後に教室を出た時、先生に言われた。
「秋葉くん、今度はもっと早くできるようにしようね」
 ──うん、でないとりなんに追いつけないから。
 ──これからずっと、りなんのそばにいるから。
 お母さんがずっと怒っていたけれど、僕はずっと泣いていたけれど。
 梨南はもう女の子たちに混じって、後ろから二番目のところに立っていた。
 今度こそ、梨南の側に居たかった。
「今度は僕、りなんの側に行くからね」
 手をひっぱられて真ん中に連れて行かれた。でも先生にまた怒られた。
「いけません。秋葉くん。秋葉くんは前に行きなさい」
 また涙がめのしっぽの方に溜まってきた。
「ううん、梨南の側に行く」
 僕が手を振り切って、赤チンをつけた子の側に近づこうとしたとたん、さっきの男の子がじろっと見た。
「お前、気持ち悪い奴好きなんだなあ」
 その子は、ずっと後ろの方にいた。
「あの顔、げぼってくるよなあ」
 梨南は何も言わないで、その男の子を見つめていた。
「そんなことない。僕はりなんの側に行く」
 先生が怒るのを無視して、僕が行こうとしたとき。
「あんなブスよりも、俺ははるみがいい。俺もはるみのそばがいい」
 はるみ、と呼ばれた女の子が振り返った。
 髪を二つに分けてしばった女の子だったことしか覚えていない。
「こいつがブスの側に行ってもいいなら、俺ははるみの側がいい」
 先生はすっかり頭を押えこんでしまい、何度も叫んでいた。
「みんな、おとなしくしなさい! みんなが好き勝手なことしたら、困るでしょ」
「ううん、困らないよ。みんな幸せになるよ」  
  僕は先生をなだめるようにしてそう言った。
 みんながわいわいと騒ぎ始めると同時に、梨南と目が合った。
「待っててね、りなん。僕と一緒にいようね、可愛いんだから」
 梨南は首を振って、突然泣きじゃくり始めた。顔を覆って突然お母さんのいるところへ走っていった。

 あの時、悪口を言った男の子とはるみという名の女の子が、小さい頃からの仲良しだったこと。
 あの男の子が梨南のことを大っ嫌いだったこと。
 先生が梨南の口もとについていた赤チンのことをものすごく怒っていたこと。
 そしてなによりも。  
  梨南が本当はあの男の子のことを好きだったことを。
 どうして僕はあの時気付かなかったのだろう。
 僕は六年間知らないまま、ずっと叫びつづけていた。
「りなんが大好きだよ。りなんが女子の仲で一番可愛いんだよ」

 あれから六年の間、梨南はあの男の子と激しくにらみ合いを続けるようになった。
 はるみという名の女の子と仲良しになって、その男の子から引き離そうとしていた。
 ずっとけんかばかり続けていたけれども。
 そして、僕は梨南にあれから一度も口を利いてもらえなかった。
 ずっと梨南が大好きだったのに。
 今でも、大好きなのに。
 言えば言うほど、梨南は遠くへ逃げてしまう。

 ──あの男の子より、どうして僕だったらだめなの。梨南は可愛いのに。  
 

──終──
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