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青潟大学附属シリーズ  高校編


  作者:舞夜じょんぬ

19

 とりあえず例の写真集は鞄の中に深く押し込み、こずえに従って向かった先は、なんとA組の教室だった。
「うちの教室で、まずくないのか?」
「ないよ。だってあんたが杉本さんにちょっかい出してるの、周知の事実じゃん」
 こずえにあっさり返され、一言もない。
「中学で声をかけるといろいろと差し障りがあるし、早朝デートしていたんだってことにしておけば丸く収まるじゃん。それを見つけた私があんたたちにエロ事指南してたってことに」
「断るそれは」
 冗談じゃない。顔を背けてシャツの襟を軽く直す。
「あんたにそれ言われる筋合いないよ。自習してるくせにねえ」
 全く間の悪いところ見られたものだ。まあ、下ネタ女王の永年付き合いあるこずえ相手だったのが救いといえば救いなのだろうが、それでもあまり知られたくはない事実でもある。
「言っとくけど、あれは俺の趣味じゃないからな。事情があって」
「言い訳するのもたいがいにしなよ、立村。なあに高校生の健全な欲求隠してるの。朝っぱらからばりばりだったってのがばれたからって、そう焦ることないじゃんよ。さっきも言ったでしょうが。私は美里にも杉本さんにも言わないからって」
 完全に誤解されている。かえって裏読みしてほしくないという気持ちはあるのだが、「キャリアOL」のハイヒールに踏まれて妄想する自分をイメージしてほしくないという強い希望も持っている。だがしかし、こずえにそんなこと訴えるより考えねばならないことがたくさんある。上総はすぐに頭を切り替えた。
 ──そんなことより、杉本は。
 教室の扉を開け放したまま、杉本梨南がこずえの席に腰掛けていた。廊下から三列目、前から三番目。三という数字に囲まれた席だった。
 すうと立ち上がり、しゃんと背中を伸ばし、上総たちへゆっくりと九十度の礼をした。
 太目のお下げに編み込んだ髪が、揺れず、二本の編み縄に見えた。

「杉本さん、お待たせしちゃってごめんねえ。ちょっとこいつが遅刻してきやがってさ」
「立村先輩にしては珍しいですね」
 いつもの棒読みで杉本は上総を射た。きつい眼差しではあるけれども、どこか柔らかに見える顔立ちがずれているように見えた。黙っていれば杉本は、ぼんやりしたタイプと思われるのではないかとさえ思う。
「時間通りで来たんだよ、ちょっと用事があっただけであって」
 言い訳しようとすると、こずえににやりと笑われた。余計なことを言われてはかなわないので黙ることにする。
「とにかく、時間がないんだよね、だからさっさと進めるよ。立村もほら、ここに座んな」
 てきぱき指示を出すこずえが指差したのは、後ろから二番目の関崎が座る席だった。
「ここじゃ遠すぎるだろ」
「いいの、あんたはここに座ってな」
 お姉さんの言うことには逆らえない。しかたなく上総は言われた通りに腰を下ろした。こずえだけが立ったまま杉本の脇にしゃがみこみ、そっと顔を見上げた。
 ──こういうのもなんだけど、女子に対してはこの人、やさしいよな。

 足を組む格好で女子ふたりの会話に耳を傾けた。関崎の机には悪戯書きもないし机の中には置き教科書もない。きわめてシンプルだ。
「昨日も電話で話したことなんだけどさ、私は杉本さんの味方だってこと、わかってるよね」
「疑ったことはございません。清坂先輩もそうおっしゃってくださいます。ありがたいことです」
 棒読み口調で、こずえを見下ろす格好で杉本は言う。
「でしょ。美里もねえ、杉本さんのこと心配してるし、で、ご存知の通り突っ走っちゃったりするわけなんだけどさ。とにかくうちらの学年の女子たちはみな、杉本さんが無実だってこと承知してるのよ。まあねえ、男子についてはねえ」
「今更わかりきったことです」
 言葉を濁すこずえに、きっぱり答える杉本。表情に曇りはない。朝のまだひんやりした空気が漂う教室内に、ぴりりと響く。
「けどさあ、佐賀さんもずいぶん汚いことするよねえ。いくらなんでもさ、元親友に濡れ衣着せようとするなんてさあ。しかも生徒会役員をかばうってことでだよ、ちゃんとした証拠があれだけあるのに、ねえ」
 ──古川さん、ずいぶん昨日の話と違うことになってないか?
 初めて知る事実が多すぎて、言葉をはさみこむことはできない。
 この場では無理に会話に加わる必要なしと判断し、上総は聞き役に回った。
 しかし、予定が狂いそうな予感がする。
 ──清坂氏が、杉本をかばっていたのか?
 ──やはり佐賀さんが杉本に何かちょっかい出したのか?
 霧島から聞いた話には、先導しているのが藤沖であって、佐賀はるみは仕方なくそのフォローに回っているだけだということだったが。となると上総の読みは概ね当たっていたことになる。やはり糸を引いていたのが佐賀はるみだとすると、相当これはやっかいなことになる。勝ち目がない。
 こずえの話で、また一枚、皮がむけていく。
「つまりさ、佐賀さんは渋谷さんをかばいたくてなんないんだろうね。渋谷さんがおねしょしちゃった時、あの子同じ部屋に泊まっていたんでしょ。よく気付かなかったよねえ。気付かないふりしてたのかなあ」
「私は存じません」
「確か三人部屋だったんだよね。佐賀さんと渋谷さんと、あとほら、マッシュルームみたいな頭した女子、ええっと」
「風見さんのことですか」
 上総は目を背け、椅子の背に腕をかけ持たれた。
「そうそう、あの子生徒会役員じゃないのにさ、ずいぶんでしゃばってない? 私もなんかなあ、変だなって思ってたけど」
「風見さんは渋谷さんと小学校が一緒だそうです」
「あれれ? けど風見さんは確か品山じゃあ?」
 ──余計なこと覚えてるよな。
 こずえの記憶力が憎たらしい。知らん顔を決め込む。
「いえ、五年の時に棚氷小学校へ転校したそうです。そこで渋谷さんと出会ったとか」
「ふうんそうかあ。どっちにしても仲良しってことには変わりないよね」
「私には関係ありません。ただ」
 言葉のトーンがそこだけかすかに下がった。
「ただ?」
 上総もその響きに視線を戻した。杉本はほんのわずか、俯いていた。
「ふたりで佐賀さんの取り合いをしているように見受けられます。どちらも自分の親友にしたがっているような言動が見られます」
「親友ねえ。女子三人集まるといろいろ面倒だもんね」
 妙なところで納得しているこずえ。よくわからないが女子の世界はそうなのだろう。
「なんかひとりを独占したがっちゃう子が出てきてさ、外されたちゃった子がやきもち妬くんだよね。面倒ったらありゃあしない。別に三人でしゃべっていられればそれでいいけど、ねえ」
「そうですね」
 杉本は言葉少なく答えた。
「これも噂だけどさ、やたらとくっついてるんでしょ、渋谷さんが佐賀さんにべたあっと。それで佐賀さんが藤沖と相談して、なんとかせねばってことで杉本さんを呼び止めて」
「はい。その通りです。当然私は突っぱねました」
 ──さっさと話を進めてしまえばいいのにな。
 どうも、こずえのやり方にまどろっこしさを感じる。男子としてはこういう場合、結論として「杉本梨南に今後の判断をゆだねさせる」という目的があるのだから、すぱっとそのことを告げた後に判断材料を与えればいいのに、と考える。しかしこずえをはじめとする女子の考えは真っ向から異なるらしい。とにかくだらだら話を続け、その後でやっと「実は」と持ち出す。無意識に爪を弾いていた。こんなことすると母にものすごい勢いで怒鳴られるのだが。
「私には身に覚えのないことです。それをいかにも、私がしでかしたかのように決め付けられて説得されるのは不愉快です。しかし、この前古川先輩がおっしゃられたこともごもっともと思われます。渋谷さんにあてつけがましい行為をされるのはたまったものではありませんから」
「ああ、手首を切ったとかいう奴ね」
「どこを叩いても私からは埃が一切出ませんので、無理に無実を主張する必要はないと考えております。しかし、佐賀さんが生徒会一団を率いてむりやり事実を捏造しようとするのだけは許せません。なんとかしてただいま、渋谷さんと直接話をするべく、交渉しようとしているのですが」
 交渉している、のではない「しようとしている」のだ。
「捕まらないんだ?」
「その通りです。彼女のクラスを訪問して直接話をしようとするたび、誰かかしらから邪魔をされます。学校の帰り道に待ち伏せようとしても藤沖先輩に追っ払われます」
「ちょっと待てよ。お前それ言ってなかっただろ? 藤沖がそんなことしたのか!」
 考えるより先に上総は叫んでいた。しゃがみこんでいたこずえが思いっきり顔をしかめて首を振った。黙っていろという合図だろうが、知ったことじゃない。席を蹴って杉本の前に向かう。
「藤沖にそんな無礼なことされたのかよ」
「はい。先輩よりお許しをいただいてから毎日お話をと伝えるのですが、『近づくな』の一言で蝿の如く」
 言葉が出てこなかった。今までこずえとの対話で現れ出た事実はもちろん驚くことも多々あるけれども、少なくとも杉本の力量でなんとか処理ができるものと判断していた。しかし、藤沖ともあろうものが、年下の女子に対して自分の恋人……断言していいだろう……に手を出させないために、杉本を蝿扱いするとは。断じて許せることではない。
 相変わらず杉本の脇にしゃがみこんでいるこずえを一瞥した。
「古川さん、そういうことまで言われて黙っていろとは言えないよな」
「なあにあんた一人でエキサイトしてるのよ。だから男って単純よねえ。ねえ、杉本さん、そう思わない?」
 その言葉には反応せず、杉本が上総に答えた。
「男子はしょせん、私を嫌うのが常識ですから、今更驚くこともありません。さっさと消えてしまえばいいと思うだけのことです」
 お下げ髪はそのまま真っ直ぐ、揺らがないまま。

 ──なんでそんなに冷静でいられるんだろう。

 二年前、三年前の杉本梨南を知っている。
 自分なりの正義を貫くためには、たとえずたずたに傷ついても後悔しない。
 むしろその痛みすら誇りを持って受け止めていこうとする。
 勝ち目のない戦いを仕掛けつづけ、結局正しくやさしい人たちの元で白旗を無理やり揚げるはめとなり、哀れみのもと今の場所で蹲っている。
 欲しくてならなかった「価値」は、親友であってほしかった女子のもとへ一緒に持っていかれてしまい、今はただ指をくわえて我慢しているだけ。懸命にそ知らぬ振りをしても、周囲からは丸見えだから、可哀想なおばかさんとだけ、囁かれやさしく包まれる日々。
 戦っても戦っても、杉本梨南は誰一人、勝利を得ることができなかった。
 「価値」を手にすることができなかった。
 上総が懸命にその「価値」を手渡そうとしても、その輝きは杉本の求めているものとは程遠く、諦めのもとに受け取られるだけ。上総は受け取ってもらえただけでかまわない。ただ、ほしいものだらけの中学に、中途半端な「価値」だけ与えられて取り残された杉本が、それだけで満足しているとは思えない。
 だから、とことん叩きのめしてほしかった。
 「価値」そのものの姿でもって、何も持っていない杉本梨南の誇りすら奪おうとする連中を、堂々たる正論のもとで成敗してほしかった。
 なのに、それすらも「やさしい」人たちは許そうとしない。
 どちらも傷つかないようにと言いながら、結局は杉本梨南の一人負けだ。
 これ以上、黒星をつけたくないのに。善意の先輩たちと暖かい教師たちの思いやりで、杉本梨南ひとりだけ、突き落とされていく。

「立村、ほら、席に戻んな。私の話はまだ終わっちゃあいないんだからさ」
 動こうとしない上総をしっしと手で追い払う仕種をし、こずえは次の段階に入った。
「杉本さん、どうして藤沖がそこまで渋谷さんをかばうかわかるよね」
「同情しているからでしょう。それか私を嫌いなのか」
 凍った声。こずえは首を振った。
「違うよきっとね。単純な話、好きになっちゃっただけだよ。好きだからこそ、かばいたいと思うし、関係ない人のことなんか目に入らなくなったってだけ。まあ、そんなこと言ってもね、杉本さんがしっしってされる正当な理由になんかなんないけどさ」
「私はそう言うのに慣れております。だからそれはどうだってよいのです。ですが」
 その時、上総をじっと、黒い瞳で見上げた。潤んでいたように見えたのは気のせいか。
「立村先輩私は、イエスかノーかをはっきりさせたいのです」
 口をつぐんだのはこずえの方だった。そうされたら困るわけだ。
「先日も申し上げましたように、私自身が真実を知っている以上、他の人たちがどう判断しようが知ったことではありません。ですが、その濡れ衣を押し付けようとした張本人である渋谷さんとその周辺にいる人たちには、はっきりとそれが嘘であることを告げたいのです」
「杉本、その周辺にいる連中というのは、生徒会役員か」
 上総も畳み掛けた。そうだ、当然そうでなくてはいけない。
「そうです。私は修学旅行が終わってからいきなり佐賀さんに呼び止められ、あの事件は私の仕業なのだということをなじられました。同時に真実を告げるようにとも勧められました。当然私は真実を告げましたが、佐賀さんは信じようとしませんでした」

 ──やはり佐賀会長が絡んでいたのか。
「杉本、学校側からもいろいろ言われていたのだろう?」
「いえ、特に。ただ真実を曖昧にしようとしている気配は感じておりました」
「そうか」
 あの面倒見の良すぎる青大附属中学教師陣が、杉本梨南の件に関しては追い出す方にのみ力を入れ、留め置くことには一切無視という態度がいかに違和感あるか、上総はよく理解している。
「つまり無視されたということだな」
「そういうことになります」
 こずえを見下ろす格好で上総は、方向転換した。
「学校と生徒会ぐるみの工作を許すことが、俺はどう考えても納得いかないんだけどな。たとえ誰かが自殺しそうだとか言ったとしてもだ」
「立村、あんたの意見は耳がタコになるほど聞かせてもらったよ。だから今更これ以上話をすることはごめんだね。私は杉本さんに判断をしてもらいたいのよ。関崎だって言ったじゃん。杉本さんに意見を聞けって。杉本さんが何をしたいのか。単に事実関係を全校生徒の前で認めさせて渋谷さんを土下座させたいのか、それとももっと別の条件なのか。立村は一方的に杉本さんの考えを独裁者的に同じ方向へむけさせようとしているけどさ。けどそれは違うんじゃないの。あんたはあんたでいいの。杉本さんも杉本さんでいいんじゃないの?」
 痛いところを突かれた。
 関崎の言葉だった。
 カラオケボックスで熱く歌い上げた後に語ったことごと。

「俺ならまず、杉本さんの要望を聞く。その上で、俺がどうしてほしいかを訴える」
「人も死なせずにすんで、プライドも守られる方法を、一緒に考えてほしい、とだ」
 決して口はうまくない。が、その口からもれだす言葉は、重たかった。 
 
 その後に関崎は提案した。杉本に直接意志を確認し、その上で渋谷とさしで話をする機会を設けよと。
 そのために今朝からこんなことしているわけだ。
 杉本の意志を確認するという建前で、本当は誘導するために。
 その魂胆が見え見えで、それでも止められない。

「古川先輩、ひとつお聞きしてよろしいですか」
 杉本がいったん立ち上がり、スカートをきれいに押さえながらしゃがみこんだ。裾につかないように器用にひだを整えた。こずえと向かい合った。
「あの方がおっしゃったのですか。あの方がご存知なのですか」
 杉本は決して「関崎さん」とは口に出そうとしなかった。
 含みを持たせてこずえも答えた。
「そう、実はさ、昨日関崎がね、ちょこっと話、しててさ」
 ──あのカラオケボックスの不毛な会話をばらそうってのか!
 上総が割り込もうとするのを顔見ずに手だけでこずえが制し、そのまま続けた。
「やはり杉本さんのこと心配しててさ。私も最低限の話をしてさ、んでわかったんだけど」
 杉本の肩をそっと抱くようにして、こずえは立たせた。自分も一緒に立ち上がった。椅子に座らせ、杉本の前髪を指でさらりと梳いた。かがむように正面からこずえは囁いた。
「関崎は、杉本さんが潔白なんだって信じてくれてるよ」
 にっと笑った。杉本の瞳と、その唇がふっと膨らんだように見えた。

 取り残されていく。
 女子ふたりの会話に挟まれて、上総の周りの空気が透けて行く。
 今までずっと側にあったはずの杉本梨南のぬくもりが、こずえの方へ流れていく。
 七時過ぎ、太陽の熱でだんだん温まり始めからでは、決してない。
 
 もといた席に座った。関崎の椅子だった。
 こずえのやさしい説得が続く。

「とにかく杉本さんは、渋谷さんとさしで話をして、白黒つけたいわけよね」
「はい。それは譲れません」
「そりゃあそうだよ。でも、全校生徒の前で土下座させるつもりはないんだよね」
「させても結局疑われることは変わりありません」
「そっかそっか。だったら、この件、二対二で話をつけるってのはどう?」
「二対二、ですか」
「そ。杉本さんと渋谷さんとが顔を合わせて、実際何が起こったのかをすべて確認して、その上でこれからのことを話し合うってのはどう? そうすればまずすっきりするだろうし、知っててほしい方面、たとえば生徒会連中にもその話し合いを終わらせたと伝えておくだけでも違うしさ」
「でも学校側は?」
「学校側はただ、渋谷さんにこれ以上手首を切らせないようにしたいだけなんだから、こちらからそうしなくてもいいと安心させる話をしておけば丸くおさまるよ。ばっかばかしいよね。何もおねしょしちゃったくらいでそんな小細工しなくたってさあ、保健の先生に謝っておけばよかったのにね。そうしたらちゃんとうまくごまかしできたのにねえ」

 杉本はしばらく、こずえのしたいように身を任せていた。
 髪の毛を撫でられたり、ほつれ毛を直されたり。リボンを触れたり。
 女子同士でないとできないことを、さりげなくされていた。
 上総は関崎の席からそれをただ見つめるだけだった。
「私は話し合いを持ちたいのです。それだけです」
「その後で暴露するとかそういうことはしたくないわけよね」
「私を信じてくださる方がいらっしゃればそれで結構です」
「大丈夫だよ」
 もう一度、杉本にこずえが断言した。
「関崎は、杉本さんのこと、信じているよ」
 ──関崎が、どこまで信じているか証明できるっていうのかよ!
 怒鳴りたいのを耐えた。
「本当ですか」
「もちろん、だよね、立村? ああ、教えるの忘れてたけど立村の座ってる席、関崎のとこだよ」
 即座に杉本の目が上総に向いた。
 体中を駆け抜ける血が、瞬間はじけた。
向けられた表情に一瞬だが上総の見たことのないものがよぎっていた。
 
 ──杉本が、笑っているのか?

 今まで杉本が笑っているのを上総は見たことがなかった。
 一度だって見たことはなかった。
 たぶん、今もあれは顔の筋肉のふとした緩みに過ぎないのかもしれない。
 すぐにいつもの鉄火面に戻り、軽蔑するような眼差しで上総を射たけれども。
 ──杉本ってあんな風に、笑うのか。
 その笑みを向けた相手は上総であって、上総ではない。
 幻で片付けるしか、ない。ふっと息を止め、目を閉じた。不意に眠気が襲ってきた。

 上総は関崎の席から離れ、鞄を自分の席に置き直した。
 ちょうどこずえの右隣にあたる席だった。相変わらず女子同士の和み合いを続けているふたりに声をかけた。
「話し合いもう少しかかるだろ。何か飲み物買ってくる」
 無表情のまま、上総に「いえ、結構です」と答えた杉本。
「ちょっと待ちなよ、あんたがいなくちゃ何もなんないでしょうが」
「俺が喉渇いただけだから、関係ない」
 全く意味のない言葉で言い返し、上総は教室を出た。窓に差し掛かる緑色の陰が廊下にまだら模様を形作っている。ほんの数人出入りするだけの生徒玄関を横目に、上総は自動販売機でオレンジジュースを三本買った。すぐに持っていく気はなかった。
 ──どうせ話し合いなんか、あってないようなものだ。
 こずえの切り札「関崎は信じているよ」を出されたらすぐに結論が出るに決まっている。
 杉本がどんなにかたくなな態度を崩さなくとも、葉牡丹の鉢植えを手渡したかの関崎を見つめたら最後、すべてのカードが真っ白に染まる。どんな理不尽な要求であってもだ。
 あの微笑を見せる相手が一人である以上、しかたのないことだ。

 すでに周知の事実をまだ杉本は知らない。おそらくこずえも教えはしないだろう。王子さまの夢を思う存分描かせて、いつかそれが壊れるまでは風船を膨らませてゆき、やさしく正しい人たちの手に守られ、卒業と同時にはじけるのが落ちだろう。
 ──どうせ、何言ったって結果は一緒なんだからさ。
 三本の缶ジュースでもって、熱っぽい指先はようやく冷えてゆく。
 ──知らぬが花だ。関崎なんかどうせ、B組の静内さんと、なのにな。
 悪態を吐いてみる。
 
  
     
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