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青潟大学附属シリーズ  高校編


  作者:舞夜じょんぬ

38

 うまくごまかして早々にお帰りいただくか、それとも開き直ってとことん言いたい放題ぶちまけてやるか。そのどちらかを選択しようと、外の陽射しに頬を向けた時何かがちりちりと燃えるような音が聞こえた。もちろん、空耳だ。
 ──あいつらは。
 息が詰まったようで、声が出ない。同じものがつま先にもしこりのように溜まっている。
 じんわりと焼けてくる。関崎が上総の腕をつかんだまま、けげんな顔で振り返る。
「どうしたんだよ」
 そのままひっぱろうとするのを、抵抗せずただ動かずにいた。
 自転車置き場に足を向けたまま、土という名のフライパンにあぶられたままでいた。
 かつて、同級生だった連中なのか、それとも上級生なのかは読み取れない。
 小学時代の知り合いはできる限り顔を認識しないよう心がけている。
 それでも見えてしまうのは、ランニング一枚に暑苦しい黒のボンタン姿で、かかとを踏んづけている野郎たちだ。臍どころか下手したらその下までずるずるに見えてしまうかもしれないのに、あぶなっかしい格好でしゃがみこむ姿は、決して真似したくなかった。額を真四角にそりこみ、ついでに眉も落としている。
 典型的な「不良」スタイルだが、なぜか青大附属には見かけないタイプの集団だった。
 ──たぶんやっていることそのものは本条先輩の方がもっと派手だ。
せせら笑いたい。しょせん、見た目で脅したところでちっとも怖くなんかないと言い放ちたい。それができれば今、足がすくんで動けないなんてことはないだろう。なぜ動けないのか、なぜ、勝手に足が駅に戻ろうとするのか。一歩、後ろに足を引いてしまう。真っ黒焦げになる前に屋根のあるところへ戻りたかった。
「立村? どうした」
 関崎が腕を放し、尋ねてくる。
「なんでもない」
「なんでもなかったら、外に出られないなんてことはないだろう」
 面倒くさそうに首をひねり、ふっと視線を駅前の自転車置き場辺りに置いた。
 勘付いたのか。意外と敏いのか。上総は目を逸らした。声だけ聞いた。
「あいつらと何か、因縁でもあるのか」
 なぜ関崎は、直球ですべてを問おうとするのだろう。もっと確認すべきことはあるというのに。その確認すべきこととは。
「自転車はあそこに置いたのか」
 これからどうやって、家に向かえばいいのか、それだけのことなのに。 
 関崎はあっさり答えた。わざわざ指差した。 
「ああ、鍵もかけてある」
「家に、まず案内する。自転車で行こう」
 ──ということは、あそこに寄らねば帰れない。そういうわけだ。
 骨まで黒焦げになりそうだ。上総は大きく息を吸い込んだ。関崎と視線を同じ場所に落とした。たむろう十人ばかりのボンタン連中を無視するしかない。

 また、耳にちりちりと、何かの燃える音が聞こえる。
 ──あいつらは、俺のことを覚えている。
 忘れているわけがない。かろうじてあの十人の中に浜野がいないことだけは確認できた。もし仮に浜野がいたとしたら、ここで立ちすくんでいる上総を見つけて何もしないわけがない。関崎が側にいても関係ない。親しげな振りをして同窓会に誘うだろう。勘違いした関崎が、浜野に対して友好的態度を取らないとも限らない。たぶん、上総は両サイドから挟み撃ちされて完全に黒焦げ状態となるに違いない。
 ──浜野がいなければ、たぶん大丈夫だ。
 もともと浜野がひとりで仕切っていたようなもの。奴が命令しなければ、他の連中が一方的に上総へちょっかいをかけてくることはないだろう。もう三年も経ったのだし、忘れられた因縁をもって迫ってくることは、まずない。
 そう、信じたい。
 なのに、焦げてしまった自分の内側には、その信じる言葉が届かない。
 焦げていく。すべてが黒く、沈んでゆく。
 万事休す。

 不意に腕が上総の肩に回ってきた。筋肉質の引き締まった腕は自分のよりもはるかに太かった。
「立村」
 耳元に囁いてきたのはやはり、関崎だった。
「自転車、取りに行くか」
 上総の背中を片方の手で強引に押し出すようにし、続けた。
「なにかあったら、俺が加勢する。堂々と取りに行け」
 ──お前何もわかってないくせに、何言うんだよ!
いったい何が起こったというのか。関崎は無理やり上総を自転車置き場へ、身体ごと引きずっていった。足を引きずるようにして上総はふらふら歩いていくしかない。視線をあえてボンタン連中から逸らしつつ、上総は関崎のするがまま従い、身体を強張らせていた。
 なめらかに動き出すのは、心のことばだけ。
 ──なんで、なんで関崎、そんなことをするんだよ!
誰も上総たちにちょっかいを出してこなかった。他の連中がどういう顔をして上総を覗き込んでいるか知りたくもなかった。
 ──お前に加勢なんかされたくない。なぜ、俺をそんな扱いしようとするんだ? 何を聞いて、勝手に俺の家に来ようとするんだ? なぜ。
 自転車を漕ぐ一瞬前に、もうひとりの名前がこぼれそうになった。
 ──なぜ、お前は、あの菱本と同じように暑苦しいものを押し付けようとするんだよ!
 とっくにステーキランチは胃の中で消化されすっきりしているはずなのに、またおかわりが別の形で運ばれてきた、それが関崎乙彦という男として、品山の立村上総宅へギフトとして送られてきた。そんな感じだった。

 品山駅からは近道して草むらを通ることにした。来た道とほぼ同じだ。どうせ家には誰もいないし、たぶん冷蔵庫には飲み物の他簡単に食えるものも残っているだろう。
 自転車を並べて走りつつ、関崎がいきなり上総に話し掛けてきた。
「外でいい」
 ──外? 何言ってるんだこいつは。
「暑いだろう?」
 言われた意味がつかめず上総が尋ね返すと、
「夏だから、暑いのが当然だ」
 またわけのわからないことを言い切った。何が「外でいい」んだろうか。どこか行きたいところでもあるのか。いや、それはないだろう。関崎は最初から家に来ると話していたではないか。それともふたりで何か、運動でもしようなどと馬鹿なことを口走るのだろうか。悪いがジョギングはこの炎天下お断りだ。 
 ──しかし、関崎にしては珍しいな。
 意味不明なことを口走ったことが、こいつの場合あまりないはずだ。厳密に言うと話の方向が間違っていることは結構あるのだが、脈略のない説明はめったにしない。しかし今の「夏だから、暑いのが当然だ」と開き直られても困る。
 上総はいったん、ペダルを踏む足を緩めた。
 ちょうど小路角に「品山小学校」のたて看板がひっかかっていた。文字は白地に黒ででかでかと書いてあるので読めるが、かなり古いものでペンキの皮がはげていることを上総は知っている。そこの小路をつっきればあとは家まですぐ側だ。夏の草むらは青々として、ふくらはぎあたりまで細い葉の先がつんつんひっかかってくるのを感じる。
 まだ乗っている上総の脇に自転車をひっぱってきて、関崎は降りて、きちんと留めた。
「ここで話したいことがある」
 こう言い切る関崎に、何も言い返すことはできない。しかたなく上総は頷いた。
「話は聞くよ」
 即座に関崎の口からは、繰り返し聞かされた言葉があふれ出てきた。予想していたことではあるけれども、こぼれる言葉はフライパンに注がれる油のようなもの。

「単刀直入に言おう。俺は、立村、お前に復活してもらわないと困る」
 ──言いたいことあるなら、さっさと言えよ。
 聞き流せばなんとかなるだろう。用意していた言葉も上総にはちゃんとある。
「復活するとは、つまり、お前に英語科の運営する立場、つまり、委員に戻るべきだということだ。それは、俺ひとりが考えていることではない。藤沖も、古川も、それと他の連中も、あと麻生先生もだ」
 わざわざ説明されなくてもそのくらいわかる。
 麻生先生の件だけひっかかる。まさか、麻生先生のわざとらしい悪役ぶりを見抜けなかったのは自分だけだとか言わないだろうか。そうだとしたら、かなり、不愉快だ。
「まさか、それはないだろう」
 知らん振りを決め込んでおいたほうがよさそうだ。適当に流した。とたん、すぐにつっかかってきた。
「お前がそういう声を聞こうとしないからだ!」
 ──そういう声? ああそうか。俺ひとりが馬鹿だから何も気付かないだけだと思い込んでるのかよ。
 事実、菱本先生に暴露されるまでは、麻生先生の言動が芝居だとは思わなかった自分である。笑われてもしかたないとはわかっている。理解していることと受け入れていることとは違うという、ただそれだけだ。
 どこまでも熱い、関崎乙彦。一度言葉を切ると、こぶしを作り、揺らしながら訴えてきた。 
「とにかく、後期以降このまま英語科の平のままでいることは、許されないと思え」
「関崎」
 かなりむかつくので、まずは一言言い返してやらないと気がすまない。
「そんなことを伝えるために、品山まで自転車を漕いできたわけか」
 嫌味だとわかるだろうか。言った後で様子を伺う。やはり読み通り、関崎はさらりと受け止めるだけだった。あっさり納得して答えた。
「ああそうだ。一番のテーマはこれだ。お前がいろいろ事情を抱えていて、そのためにしかたなく身を潜めているということは、この一学期でよくわかった。藤沖からも、古川からも、その他いろいろなところからも話は聞いている。だが、外部生の俺からしたら、だからといってこのまま元評議委員長だったお前が、このまま何にもしないで過ごすのは間違っているように思う」
「間違っていないさ」
「いいや、間違っている!」
 ──よく、断言できるよな。そうきっぱりと。
 何度も、耳にたこができるくらい聞かされたその言葉。
 ──元・評議委員長だったら、自由になれないとでも言うのかよ。
 関崎は真面目で、先生・先輩たちからの覚えもめでたく、クラスメートからの信頼も厚い。たった三ヶ月ちょっとの間に、三年間評議委員会で積み上げてきた上総の地位をあっさり奪ってしまったではないか。恨みはしてないし、むしろ自分にとっては楽なので構わないが、それでも炎天下の下、踏ん反りかえって説教されるのは面白くない。当然、真面目に聞きたいとも思わない。
 じろりと見返すと、関崎はさらに言葉を連ねた。
「立村、お前なら今の英語科のクラス状況がどういうものだかわかるだろう?」
 ──もちろん、俺がいなくても自然と動いていくからな。
「藤沖は後期、評議委員を降りるかもしれないと話している。応援団結成の準備だそうだ。自然と男子評議委員のポストが空くはずだ」
 とっくに天羽たち元・評議委員チームから得ている情報である。もっというなら、クラスメートの噂話に耳を傾けていればいくらでも入ってくるものでもある。附属生なら当然のごとく、でも関崎のような外部生にとっては大事に思えるのだろう。
 知っていることだけでも伝えておいた方がいいだろう。
「もう関崎に後釜は決定していると聞いているが」
「もし推薦されたら受ける覚悟はある」
「そうか」
 本人がやる気まんまんならば、何も言う気はない。 
 ──ただ、とばっちりはノーサンキューだ。
 関崎は上総の顔を食い入るように見つめた。すでに顔と首筋は汗でぐしょぬれだ。髪の毛もシャワーを浴びたように濡れている。
「だが、あくまでもそれは仮定の話だ。知っているだろうが俺は、バイトで授業料を稼がねばならない立場だし、仮に評議委員を受けたとしても百パーセントこなせるかどうかはわからない。もちろん努力はする。手抜きはしない。だが、それをひとりで背負うというのは難しいと知っている」
「古川さんがいるだろう、それに」
「女子と男子とでは違う。まだ、後期改選は先のことだし、藤沖の応援団の件もまだ時間がかかりそうだとは聞いている。だが、仮に俺が評議に立った場合、外部生の立場ですべてを把握するのは不可能だ」
 いつものことだが、関崎はいつも「外部生」を引け目に思うような言い方をする。
 できそこない元・評議委員長よりも高く評価されていることを気付かないでもないだろうに。いくらでも周囲の友だちが、先輩が、先生が教えてくれるに決まっている。
 なのに、まだ使用済みの評議委員長に拘ろうというのはなぜだろうか。
 裏がある、とは思わない。ただ、単純すぎる。 
「だから、あえて、頼みたい。俺と一緒に、英語科のために立ち上がってほしい」
 笑いたくなる。たまに天羽が冗談めかして使うならまだしも、真顔で「立ち上がれ」とは。
 どうしても関崎の言い分を受け入れたくない。
「なぜ?」
 冷たく問い返した。全くもって関崎の情熱は冷めることを知らない。上総のぶつけた氷球をさらりと除ける。
「お前には、それができるんだということが、俺にわかっているからだ!」
 ──お前には何もわかっていないんだ。
 ──俺がかつて、どれだけしくじってきたか、どれだけ人望失ってきたかってことを。
 関崎が訴える幻想の立村上総は、もう、現実の上総のもとにはいない。
 役立たずで、嫌われ者で、しかも臆病者。
 保身のためには人を傷つけることなどへとも思わず、汚い手段を使ってでも懸命に生き残ろうと努力しつづけ、最後の最後で真実を暴露された裸の王様。笑えばいい。そのことを藤沖たちから聞いていないわけではないだろうし、上総も何度か関崎に話したつもりだ。それでもなお、関崎は上総の力を過剰評価しようとする。
 ──麻生先生が言う通り、二学期以降は俺が、関崎の僕になるしかない。
 もう覚悟はしていた。A組の連中も納得するだろう。
 無理に規律委員に押し込まれなくてもかまわない。関崎の肝いりで、などと枕詞がつく繋がりはもうたくさんだ。

「関崎はまだ、俺について本当のことを知らないからそう言えるんだよ。俺にそういう権利がないことは、すでに藤沖や古川さんから聞いているんだろう?」
「ああそうだ。噂だけは聞いている」
 憎たらしいことに、あっさり認めた。嘘を言わない性格、それは本当だ。
 炎はまだまだ燃え盛っている。だんだん自転車のサドルが熱してきた。ハンドルも同じだ。
 ──これで乗ったらえらいことになるだろうな。
「しかし俺は、実際この眼で見て、感じたことしか信じない。立村、俺は一年前、うちの中学の図書準備室で見た、あの場面を忘れてはいないんだ」
 まっすぐぶつけてきていた関崎が、軽く左に首を傾げた。視線を斜めに向けた。すぐに戻した。
「この前の一件で、やはり立村は変わっていないと確信した」
 ──確かに、俺は変わっていないよ、関崎。
 自嘲したい。全く変わっていないのは自分の方だ。
 ──全く成長してないってことさ。
言い返そうとした時、関崎が思いがけない奴の名を口にした。息が止まった。
「さっき霧島と話をしてきたが、あいつもお前の復活を願っているようだ」
 ──霧島が? あの、とことん俺を物笑いにして、わけわからない八つ当たりしてくる、あいつがか?
 それ以前に、なぜ、
 ──なぜ、関崎とあいつが話をしたんだ?
 かゆくなるほどの熱が、頬によぎった。すぐに思い出した。関崎の弟分になれとあおったのは上総の方だった。
「まさか」
 笑うしかない。顔を引きつらせるしかない。
 ──そうだった、俺はあいつに、関崎に懐けと命令したんだった。
「あいつは正直、視界が馬なみに狭すぎると思うところもある。俺も二年前はそうだった。だがそんなあいつがお前のことを評価しているのはすごいことだ。だが、そんなのはどうでもいい。俺はお前が密かにいろいろ動いていて、天羽に俺のことを嫌わないように頼んでいたり、規律委員会の中で俺が浮かないように南雲へアドバイスをしてくれたりとか、いろいり話を聞いている。俺が授業中ぶっ倒れて保健室に運ばれた時も、お前真剣な顔をして、轟さんを誤解しないようにと懸命に訴えていただろう? 正直そのことも納得はしていないが、俺からしたらそこまで幅広く手を回して、学校の中でうまく俺が生き抜いてこれるようにしてくれた手腕に感服する」
「皮肉か?」
 関崎はきっぱり否定した。
「違う。俺はあてこすりなんかしない。裏表はない人間だ」
 ──裏表がない、か。
 関崎をあらわす分かりやすい言葉ではある。刺いっぱいに言葉を丸め投げ返した。
「裏表、あって悪いのか」
 飛礫はあっさり、関崎に身をかわされ飛んでいってしまった。 
「さっき俺が言った、いろいろな噂は、お前の悪口だけではない。立村、お前が俺や他の連中のためにどれだけ陰で尽くしてくれているか、そういうことも混じっている」
「尽くしているわけじゃないさ」
「お前がどう言おうが、俺からしたら相当すごいことをしている。もし俺がそのことを知らないままだとしたら、すべて今までの出来事は自分の人徳だと勘違いしていただろう。もし俺が立村の現在の姿をそのまんま信じていたとしたら、後で俺は人の見る目がないことをいやというほど思い知らされていただろう。中学時代から、立村を知っていてよかったと改めて思う」

 ──やっぱりそうだよな。
 おそらく関崎は気付いていない。
 麗しき友情の現れのように聞こえるその言葉は、実を言えば今の上総を切り裂いているということを、知らないままでいる。
 ──中学時代、評議委員長だったあの頃の俺は、幻だ。
 ──あの時の色眼鏡を、関崎はまだ外せないだけなんだ。
 もし関崎の目に映る自分が本物だったら、上総は何を手に入れていたのだろう。
 ──本条先輩からの高い評価、新井林からのまじりっけない尊敬の念。
 それだけじゃない。
 こめかみがつんと痛くなる。
 中学二年、二月。中学校舎生徒玄関ロビーで、関崎は鉢植えを受け取っていた。
 その差し出される手で感謝の言葉を告げていた。
 阻止しようとしていた自分には、その鉢植えがどんな花だったのか覚えていない。
 ただ、もし関崎の認識する立村上総でいられたら、その鉢植えは自分が受け取っても不思議ではなかったはずだった。それが答えだった。 
「違う、関崎。中学時代の俺は、幻想だ」
「幻想?」
 
 感情のままぶつけたりはしない。
 論理的に納得がいく説明をしようと思う。
 関崎には、そういう説明をしないと、たぶん納得してもらえないだろう。
「俺は、青大附属に入る資格なんかないんだ」
 しっかり、ゆっくり、上総は語った。
「関崎、もう知っているだろう? 藤沖からも聞いているだろう? 合格取り消しになるようなことをやらかしたにも関わらず、周囲に隠蔽してもらってなんとかもぐりこんだ人間だってことをさ」
 藤沖を初めとするまっすぐな人々から軽蔑された、ひとつの出来事を。

「隠蔽だと?」
 振り返り、道なりに手を揺らした。方向を示したつもりだった。
「さっき通ってきたサイクリングロードと、川べりを見ただろう」
「ああ、見たが」
「あのあたりで俺は、同級生を一人、再起不能の怪我をさせた。すでに誰もが、そのことを知っている」
「誰もって誰だ」
「青大附属の同級生ほぼほとんどと、品山小学校の卒業生なら、すべてだ」
「謝ったのか」
 やはり、関崎も同じ痛みのつぼを突いて来た。
 ──本当は、俺が土下座しなくてはならなかったってことだよな。みな口を揃えて言うようにさ。
 なぜ、土下座なんてしなくちゃなんないのか、そう言い返すことすら許されない。藤沖にも杉本にも、みな軽蔑された上総の逃亡劇を、やはり関崎は理解しれくれなかったのだろう。
 関崎は上総を真正面に見据えた。もう髪の毛は汗の粒でいっぱいだ。
「馬鹿野郎!」
 ──やはり、関崎は、俺とは別世界の人間なんだ。
 腹の底から怒鳴った一声を、上総は受け止めた。一方的にこぶしを振り上げながら、上総の目を追いかけつつわめく様を冷静に観察する余裕があった。

「どういう理由があるにせよ、まずは自分のしでかしたことに対して頭を下げるのが礼儀じゃないのか? 立村、お前四年間も、何もしていないのか! なぜ、なぜ謝らないんだ!」
「謝りたくないからだ、悪いか」
「悪い、絶対に悪い!」
 両手で肩を押さえ込まれ、激しくゆさぶられた。
「立村、お前がなぜ、そんな卑屈におどおどしているか、その理由、わかるか?」
 揺らされているのは肩だけなのに、頭からつま先までシャッフルされる。 
「お前、本来自分がすべきことを片付けてないからだ!」

 ──こいつ、何を言い出すんだ!
 気が遠くなりそうだった。急速に頂点まで達したとたん、何かが突き抜けた。
「どういうことだよ! 何も知らないくせに、なんで勝手なことを言い出すんだ!」
 がまんしていよう。言いたい放題言わせて置こう。どうせ関崎にはわからない。そう決め付けようとしたのに、関崎は遠慮なく核心に近づいてくる。上総があえて口にしなかった一点を突き刺そうとする。
 しかも、揺るがない。今の上総は蝶の標本で真中を貫かれた格好のまま羽根をばたつかせているようなものだ。
「ああ、俺は何も知らない。噂だけだ。だがさっき、駅から出てくる時、なんでお前、不良スタイルの連中の前で足がたがた言わせてたんだ? あいつらがお前のしでかしたことを知っているから、怖いのか? 相手に再起不能の怪我をさせたとわかっているんだったら、まずは頭を下げて、土下座しろよ。それもしないで、ただ怖がって、青大附属で震え上がっているだけか。何もしないで、たただびくついているだけか! それで、ずっと四年間、ごまかしてきたわけか!」
 勝手に納得すればいい。わかっていても、なぜか口に素直に出てこない。吐き出す言葉で関崎の顔にへのへのもへじを書いてやりたい。
「わかっただろう、そういう人間が、俺だってことをさ」
「そうやって、また、またまた、逃げるつもりか!」
 サイレンに似た、蝉の声が一直線に響いた。
上総と関崎、ふたりしかいなかった。
 空の青さも、身を焼き尽くす太陽も、関崎のためにだけ備わっているように見えた。
 すべてを味方につけているのは、関崎ひとりだけだった。
 関崎は上総の頭を無理やりつかむようにして、正面に向けた。
「行こう」
「どこに」
「その、怪我をさせた相手のうちにだ」
「なぜ」
 想像つかない言葉の、鋭い針に、息の根が止まった。。
「俺と一緒に、そいつの家の玄関先で、土下座して謝ろう。相手がどういう反応するかはわからない。半殺しにされるかもしれない。それでも、青大附属で今だにおどおどびくびくしているよりは、何千倍もましだ。なにかあったら、その時は俺が全力で守る。お前が、過去の間違いをきちんと認めて、まっすぐ立っていこうとする、そういう男なんだということを、証明する。藤沖がわけのわからない怒り方をしたのは、単にお前が人を怪我させたことを隠したからじゃない。謝らなかったことが許せなかっただけだ。あいつもお前がきちんと筋を通して、するべきことをしたら、きっとわかるはずだ。そういう奴だろう? だから、今、やるべきことをやりに行くんだ。そいつの家、どこなんだ!」

 もうだめだ。
 同じ日本語を遣っているはずなのに、関崎の発する言葉は上総に届かない。
 英語よりもドイツ語よりもフランス語よりも、上総の知る限りの言語よりも、関崎の言葉は遠すぎる。
 意味がわからないわけじゃない。理屈が通っていないわけじゃない。悪意を感じるわけじゃない。ただ、受け止めたくない。それだけだ。どんなに関崎の言葉が正しくとも、上総は死んでも浜野を正当化する理由を認めたくはない。
 認めたら最後、すべてがこなごなに砕け散る。
 土下座して謝ったらすべて、今までの道が腐って融けてしまう。

 誰もいない。ふたりきり。
 自転車に無理やり、引きづられそうになるのを懸命に振り切った。叫んだ。品山駅からきた草むらの道を見やった。光の反射なのかすべてが淡い色に揺らいでいた。危うく消えてしまそうな色だった。
「何も知らないくせに、勝手に決めるなよ!」
 視界が薄赤く染まった。目の前にいたはずの関崎が見えなくなった。聞こえるのは蝉の声と関崎の焦りだけだった。ボールが跳ねたような感覚で膝をついたところまでは覚えている。関崎が懸命に語りかけてくるのは聞こえてきている。
「立村、おい、熱にやられたのか? 立てるか? 歩けるか? 吐き気がするのか」
 立たせられたことも覚えている。
「……それほどでも」
「ここからお前の家まで、どのくらいかかる?」
「三分もかからない」
 突然支えられてた関崎の体が低く下がるのを感じた。倒れそうになり思わず捕まった。
 薄目を開けてみると、関崎がすっと背中を差し出しているのが見えた。
 ──関崎? 
 問う言葉が見つからないまま、そのまましゃがみこんだ。ぶっきらぼうに関崎が地面をたたきつつ命令してきた。
「おぶされ」
付け加えた。
「行き方だけ上で案内してくれ」
「関崎、それは、自転車は」
「そんなのあとで引っ張ってくる。三分程度ならすぐに持ってこれる」
「関崎、いい、いいよ」
「日射病にやられてぶっ倒れる奴なんて陸上部ではざらだ、介抱するのは慣れている。安心しろ。立村、住所だけ言ってくれ。あとはわかる」
 
 ──何もわかっちゃいないんだ、関崎は。
 善意の塊、武骨な天使、天に突き刺す炎。それが関崎乙彦だ。
 誰よりも友情を大切にし、守ろうと心を砕こうとする。
 その善意ゆえに、上総の奥に潜む深いものを、細い針で突き刺そうとする。
 正しくて暖かくて愛に溢れているからこそ、その針を抜き去ることができない。
 どんなにそれが痛くて血まみれになっても、感謝というばんそうこうでもって覆うことしか許されない。こちらから射し返すことは、人の心としての罪になる。
「品山町……」
 肩にしがみつく格好で上総は、関崎の背に頼った。
 自分の住所を唱えながら、汗まみれのシャツに張り付いた。
 悔しいことに、関崎は全く上総の重みを苦にせず走っているようだった。
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