BACK★ 師と少女がはしる月 2★NEXT
青潟大学附属シリーズ
だいぶぬれたはかまの裾も乾いたところで、
「さ、では始めますか」
と、先生が立ち上がった。新名取り三人のうち一番年かさの人が一緒に座布団を持っ て、掛け軸のところに並べた。お誕生席。つまり上総の居場所となる。お正月のカル
タ取りで読み手役が座る場所ともいう。
「上総、ほら、あんたはそこでおすわりしてなさい」
いつもだったらこき使われるのに、珍しくも女性たちが立ち働く様を眺める立場に いた。世の中のお父さんたちが、いわゆる「亭主関白」するってこういう感じなのだ
ろうか。まんざらでもない。あの母がひとり仕切っている様を眺めていると、自分が 関係ない限りなんて楽なんだと感じる。
──どうせ、三々九度するだけだろ。
車の中で段取りは一応聞いたのでそれほど心配することもなかった。そういえば花 森なつめも卵色の袖短い着物姿で「三々九度」セットを運んでくるのが見えた。
「なつめちゃん、それは横に置いていてね」
「はあい」
ご機嫌は悪くなさそうだった。一日限りの「奥様」になる人は。
──けど、ほんっと、どこでどう繋がってるかわからないよな。
上総は正座したまま、背中越しに生けられた花を眺めた。そろそろ正月も近いとい うこともあるのだろう。白とうすい紅色の花が、ねこやなぎと一緒に万歳の格好で花
瓶につっこまれていた。よく見るとそれは花ではなく、葉っぱの集大成だった。
──とりあえずはここを無難に終わらせるとしてだ。
お嬢様たちが先生にひとつひとつ動作を指導されている間、母は花森なつめに、 三々九度用に使う盃セットを持たせ、何かを説明していた。盃を持ってすするしぐさ
をしつつ、花森に注がせるよう手真似をさせていた。本来は家元の奥様に当たる人が おこなうらしい。
母から説明されたことによると、まず上総から向かって左側の方に師匠が座り、右 側に新名取さんがひとりずつ正座して待つ。赤い漆塗りの盃でもってそれぞれ一番上
のものを取ってお祝いの日本酒をすする。どのくらいの量なのかはわからない。三枚重なっているので最後に上総の番になると一番下のものを使うことになる。親亀の上
に小亀を載せて、その上に孫亀を乗せて……という形のものなので、たぶん大量に酒を飲まざるを得ないのだろう。母がいう「なよなよしたそっち系」の家元は。かわいそうに、しんどいだろう。上総は噂にしか聞いたことのない、若き家元に強く同情し
た。 ──花森さんもよく大人しく言うこと聞いたよな。
この辺の事情は、上総もあまり詳しくはない。花森も一学期終わるくらいまでは上 総のことを「時辻さんの息子さん」としか認識していなかったらしい。杉本梨南をめ
ぐるごたごたがきっかけで初めて、彼女の素性を知ったわけだった。もっともこのこ とは母曰く、
「あまり、大きい声で話せないことだから、しゃべったらただじゃ置かないわよ、上総」
と釘を刺されている。上総もまさか花森が、すでに婚約者ありの中学生だとは思わ なかった。彼氏の所に泊まってくるというのは、実をいうと家族公認のことだという
のも。今の時代において、親同士が決めた縁談を素直に受け止め、しっかり恋人同士 のことをしてしまうというのは、上総の想像をはるかに絶していた。学校で担任と激
しいにらみ合いを続けるわりには、停学も退学も言われずにすんでいるのには、その 辺の理由もあるのかもしれない。
──杉本と違うのか。やはり。
花森の親友である、杉本梨南のことを思い出し、上総は一度くしゃみをした。
せめて杉本に花森くらいの後ろ盾があれば。いや、親だけでも味方になってやって くれれば。
「立村先輩、どうしたんですか。なんか疲れきった顔、してますね」
「あのさ、花森さん」
脇に「三々九度セット」を置いて両膝をついた花森は顔を突き出した。
「杉本とは、冬休みに入ってから連絡取ってるのか」
目のあたりに銀粉をはたいたようで、やたらとぎらぎらしているのが目に付いた。 うつむいて、唇を尖らせると学校で見かける明るいつっぱり娘の顔に戻った。
「インフルエンザで病院に入院させられ、昨日退院したらしいんですよ。杉本さん」
「連絡なかなか取れなくて、状況わからなかったんだけどな。そうなんだ」
「佐賀さんが電話かけてきましたよ。なんでも、ちょっとした風邪だったのを親が大 げさに取って無理やり病院に入れて、ついでに頭とか神経とかいろいろなところ調べ
てきたらしいんだって。頼んでもいないのに教えてくれましたよ。もちろん杉本さん がそんなこと言うわけないですよね。佐賀さんの親経由か、新井林の親経由かわかん
ないけど、親同士が絡んでいると面倒って感じ。あーあ、むかつくこと、思い出させ ないでくださいよ、先輩」
──君も、そうなんだよな。親同士のからみ、なんだよな。
本当だったら、直接杉本に聞きたかっただろう。花森なつめは口をきりりと結ん だ。
「でも退院したということは、もう直ったってことなんだろうな」
「当たり前ですよ先輩。佐賀さんはほんっとよけいなことばかりぺらぺらしゃべっ て、最後に『でも、梨南ちゃんは私がお見舞いに行ってもきっと会ってくれないか
ら、花森さん、お願い、梨南ちゃんによくなってって伝えてほしいの』よく言います よね」
「じゃあ、行けばいいだろ。花森さんが来てくれたほうが杉本だって喜ぶよ」
口にした後で、すぐにしくじりに気付いた。やけっぱちといった風に、天井を見上 げた花森は、鼻息荒くふんと吐息をついた。
「行けるわけないじゃあないですか。ただでさえ杉本さん、お母さんに隔離されてい るんだから。私みたいな人間が顔を出そうもんなら、『梨南ちゃんを悪の道に引きず
り込んだ張本人』とか言われて、たぶん出入り禁止になるんじゃないですか」
──いや、今の格好だったら問題ないと思うけどな。 またうっかり口を滑らすのは避けたかった。上総は静かに一度だけ頷いた。
正座して待つこと数分。花森なつめが朱塗りのお銚子をしずしずと押えつつ、すり 足で入ってきた。すでに師匠と新名取り三名さんは向かい合って正座している。母が
花森になにやらいろいろ指示をしているようだった。あまりじろじろ視線をふら付かせるのもなんだかな、ということで上総は膝のあたりをじっと見つめていた。先生曰
く、
「ほんと、こうやって見ると、上総くん和服、似合うわねえ」
──着たくて着ているんじゃないって!
何度か、学校祭で着たことはあった。あと、七五三の五歳のお祝いに。写真が残っ ている。
腹が出ていて恰幅よければ、もう少しかっこいいのかもしれないが、上総が着てい るとなんとなくロングスカートのつっぱりさん風に見えた。いや、大正時代の女学生
風だろうか。
──お下げ髪のかつらでもかぶってやろうか。
なかばやけっぱちに上総は思う。和室入り口にて母のおぞそかなお言葉が聞こえ る。
「では、本日、志遠流日本舞踊、名取の儀式を行わせていただきます。これでいいん でしたよね、先生」
緊張感がない空気の中、花森はまず、師匠の目の前に朱塗りの盃とその台を置い た。下から「大・中・小」の順番に重ねられた真っ赤な盃に、ほんの少しだけ酒を垂
らした。いわば、「お屠蘇」に似た感じだった。押し頂くようにして師匠は口にす る。懐に準備していた懐紙で飲み口をぬぐい、花森に渡す。花森も落ち着いたもので
すぐに受け取ると今度は、師匠の真向かい、上総の向かって右横に座っている新名取 りさんたちに、同じような手順で盃を進めていった。
──緊張してないのになんかなあ。 一人目は受け取るなり、盃をふら付かせて落っことしそうになった。
二人目はなんと三段がさねの盃をすべて持ち、一気のみしようとした。 さすがに三人目は前のふたりの失敗を繰り返すことなく、三々九度の雰囲気で丁寧 に飲み干した。
上総の左隣でじっとにらみつけている師匠の顔は怖かったが、新名取りさんたちは 肩を寄せ合い、所々くすくす笑いながら肘をつつきあっていた。
──まさかと思うけどさ、本当に酒、入ってないよな。
一切酒を受け付けない体質のことを、上総は知っている。入学当初、初めての評議 委員会において、上総は一滴アルコールが入っただけで、体調をぼろぼろに崩してし
まい、本条先輩に世話してもらったという情けない過去を持つ。それ以来、できるだ け酒には近寄らないよう心してきた。未成年だし、という理由じゃない。一生、たぶん、だめだ。もっとも母を始めとする大人たちはそれをおそらく知らないだろう。知
られちゃいけない。
最後に花森は上総の前に盃セットを置いた。真面目な顔をしているのは、やはり普 段とは違うことを十分意識しているからだろう。上総も上の盃を受け取ると、押し頂
いた。ほんの数滴入れた。
「先輩、もっと注ぎましょうか。これ本物かも」
小さな声でささやく花森。目で「それはご遠慮します」と合図を送り、一気に飲み 干すふりをした。ほとんどというより、ほんの雫程度しか入っていない。空気だけ思
いっきり飲んでしまったみたいだった。
「あんたたち、もっと真面目にやりなさいよ真面目に!」
たぶん出るだろうと思っていた。いくら名取り式のお稽古とはいえ、新名取りさん たちの態度はあきらかになめくさったものだった。家元の代わりに上総を置いたとこ
ろで緊張するはずもないだろうに。母は師匠の側に走りより、ぐいっと新名取りさん たちの方を見た。
「せっかく師匠が、あなたたちのために『おちうど』借りて、お稽古してくれている んだから、もっとしゃっきりとしなさい! それにね、お名取りになるにはね、あな
たたちのお母さんたちが本当に苦労しているんだから、そのことくらい考えなさいよ !」
──そりゃあ、お金が掛かることだもんな。
大人しくひっこんだ花森が、戸口のところで足を絡めて柱によりかかっている。お仕事は一通り終了したということだろう。上総も一緒に「お役目返上」で抜け出した
いのだが、きっかけがつかめない。
「まあまあ、沙名子さん、雰囲気に慣れるだけでもいいじゃないの。それより、せっ かく部屋借りているんだもの、ここで一度、本番だと思って踊ってみなさいよ。上総
くんを家元だと思ってね」
──踊る? ああそっか、と合点がいった。つまり、名取式の場合、家元に自分の踊りを短時間 ながら観てもらうことができるのだという。流派によってそれがないところもあるら
しいが、志遠流は名取になる人たちを一通り見て、ちょっとだけ寸評して励ますらし い。その辺は上総もよくわからない。が、家元というのは流派のトップだろう。その
人に自分の踊りを見られる、これは緊張する以外の何者でもないに違いない。
思ったとおり、新名取りさんたちは顔を見合わせつつ、おずおずと申し出た。
「あの、今日私、テープもってこなかったから」
「いいのよ、今日はなつめちゃんがいることだし」
母もしゃがみこんだまま、ちらっと花森に頷いて見せた。騒ぐかと思いきや、手を 後ろで組んだまま花森はちょっとだけ唇を上げた。年齢よりも遥かに大人っぽく見え
た。
「今日、私も三味線持ってきてないんですけど、ありますか?」
「おかみさんに頼めば古いので出てくるんじゃないかしら。なつめちゃん、弾きやす いのを選ぶから、ちょっと付き合って」
お盃では全くといっていいほど騒がなかった新名取さんたちは、見るのも哀れなく らいに身体を上下させつつ、
「どうしよう、私まだ覚えてないわよお」
「まさかお稽古、こんなとこでするなんて!」
「いやよお、どうしよう!」
おぞそかに師匠は告げた。慌てている様子を面白そうに眺めていた。
「志遠流の名前に恥ずかしくない踊りを踊ってもらわないと困るからね」
両手を膝に置いて、みなうなだれている。
──ってことは、まだ俺も家元のままかよ。早くしてほしいよな。
足の親指を何度か重ね直し、痺れを切らさないようにしながら上総はつぶやいた。
「お待たせ。さ、生演奏つきなんてめったにないんですからね。気合入れてやるの よ」
花森の肩を母がぽんと叩いた。緊張してるんでないかと思ったら、全くその気な い。にっこり楽しげに、「よっしゃ」とこぶしを握った。
「じゃあ、立村先輩の隣りに座っていいですか」
「そうね、観客が二人の方がいいわね」
花森は三味線と撥をかかえ、上総の右隣にあらためて正座した。数回、弦を調節す るために糸を弾いて、竿の上の巨大ねじみたいなものをぐいぐいとねじった。
「まあいっか、こんなとこで。では先生、何の曲で行きますか」
「『宵は待ち』からお願いするわ、さ、あなたたちも準備して」
今更驚いたわけでもないけれど、花森は膝にクッションみたいなものを置き、もう 一度糸を弾いた。慣れた手つきだった。
三味線と撥を「おちうど」のおかみさんへ返してきてから、花森は上総のそばに ちょこなんと座った。「ちょこなん」というよりも、落ち着いて、といった方が正し
いだろうか。
一通り地方(じかた)つき、家元前で踊るというシュチュエーションの中、新名取 さんたちはすっかり緊張しまくっていた様子だった。顔に出さなければ日舞の振りな
んて間違ったと思わないのに、右足と左足を反対にしてしまっては 「わ、どうしよう」 とか、 「本番怖い」 とか口走るのはまずいんではないだろうか。さっきまで上総のことなんか単なるでく
のぼう扱いだったくせにだ。やはり式そのものにはそれほどの緊張感を覚えなかった のだろうが、人に見られているしかも真っ正面から、というシュチュエーションには
なれていなかったのだろう。
「本当に困ったわねえ。こんなんじゃ、あなたたち、家元の前に出せないわよ。さ、 せっかく和室があるのだから、口三味線でお稽古するわよ。あ、なつめちゃんと上総
くん、もういいわよ、ご苦労さま。ほらほら、あんなこんなでおなか空いているん じゃあない? おかみさんにたのんでなにかおいしいもの食べてらっしゃいね」
師匠のありがたいお言葉。
──かたじけないってこのことだよな。
そばで盃を大きな和紙でくるんで箱に入れているのは母だった。ちらっと上総に目 をやり、
「せっかく師匠がそうおっしゃってくださるんなら、上総、ほら、さっさとあっち 行って!」
──手際よくお払い箱かよ。
母の声は一切無視して、上総は先生へ一礼した。隣りの花森もすっかりご満悦だ。 どうやらこの人、臨時地方さんになった御褒美を狙っていたらしい。ためらいもせず、上総の袖をひっぱり、
「立村先輩、行きましょ。先生、じゃあ遠慮なくいただきまーす!」
──せっかく年上に見える格好しているのに、なんだか子どももいいとこだよな。
つんと済ませば母よりもおっかなく見えるのに、やはり花森は後輩なのだと改めて 思う。
もう一度挨拶をした後、ふたりで廊下に出た。壊れそうなエスカレーターが上がっ てくるのを待ちながら、上総は花森にささやいた。
「いきなり仕事させられたよな」
「ま、それが仕事ですからね、しょうがないですよ。先輩。それよりも」
頭のてっぺんからつま先までなめるように眺めた後、花森は言ったものだ。
「先輩、まさかこの格好で降りるんですか?」
──もう遅いって。
気が付けばさっさと洋服に着替えてきたというのに。全くついてない。
和服姿の人が珍しくない「おちうど」だからよかったものの、これが別の店とか学 校だったら、きっと物笑いの種になること、必至だった。エスカレーターに乗りこ
み、降りて一階店の中で席につくまで、上総は伏せ目にした。
年末とはいえ「おちうど」はそれなりににぎわっていた。上総と花森が戸口近くの 席を陣取った後も、抹茶と和菓子セットを平らげる女性客が三人くらい入ってきてい
た。青大附中関係の人が寄り付かないところが安心できる一点だった。
「よくここで、杉本さんとお茶しているんですよね、先輩ってなにげなく浮気してま せんか」
注文する前にもう先生が、「上総くんたちには散らし寿司を特別にね」と頼んでく れていた。昼食代わりだ。花森もぺろっと平らげている。口元に紅そぼろをつけたま
ま尋ねてきた。
「何でそう言う話になるんだ」
「いや、そうだったらいいなって思っただけですよ。先輩、杉本さんのことどう思っ ているのかなって前から興味しんしんでしたし。いいですよオフレコで」
「オフレコも何もないだろう。それにしても、入院か」
同じ杉本梨南の話に逸らしてみた。
「きっと疲れていたんだな」
待ってましたとばかりに花森は頷いた。
「人前では絶対に倒れたくないと思っている人ですからね、杉本さんは。けど、あそ こまでみんなになぶられたら限界が来るに決まってますよ。きっと先公とか新井林と
かはざまあみろっていうんでしょうね」
「うん、そうだね」
たまご色の優雅な小紋には似合わない「先公」という言葉。
「杉本の味方でいる相手は、少ないよきっとな」 お茶をすする。周りのざわめきはオクターブ高い。
「だから先輩が味方になってあげればいいじゃないですか。先輩、杉本さんの部屋に 入ったことあるんでしょ」
言葉はだんだん蓮っ葉だ。花森もおそらく猫を被り続けているのだろう。もちろん この子の事情も知らないわけではない。さっき隣で聞いていた三味線の音色からして
伝わるものがあった。すでに婚約者もいる。堂々といちゃついている。泊りなんてざ らだという。遊び呆けているように見えるけれども、十八歳以降の未来がすでにさだ
められている今、自由時間をこうして費やすしかないのかもしれない。花森も覚悟は しているのだろうが、それを表に出すことはあまりない。普通の友だちの付き合いを
したりする機会は杉本と同じくらい、少ないのかもしれない。
「俺は味方でいるつもりだけどさ、やはり、本当にわかるのは花森さんだろう。男子 と女子じゃ難しいよ」
「だってしょうがないじゃないですか、連絡つけようない友だちって」
おかみさんに、「すみませーん、おしるこ一丁!」と一声かけた花森は、そっとほ つれ毛を直した。しぐさの色っぽさがあまりにもおしるこに似合わなくて、上総は思
わず咳払いして笑みをごまかした。