BACK★ 師と少女がはしる月 4★NEXT
青潟大学附属シリーズ
4
「立村先輩、やっぱりそうなんですね」
一瞬だけ目を見開き、唇をまるくした花森の顔に、思わず失言を恥じた。
顔がだんだん赤らんできそうだった。なんでだか自分でもわからない。下級生相手にどうして自分はとんちんかんなことばかり口走ってしまうんだろうか。どうか気づかれませんように、と祈る上総の思いは通じず、花森はゆったりと微笑んだ。
「いや、変な意味じゃなくてさ」
「言い訳しないでいいですよ、先輩。どうせ三学期はほとんどこの学校来るつもりないし、さっさと転校準備しますから。ばれてもいいじゃないですか」
「なにもばれるとかばれないとか」
だからいやだったのだ。きっと花森は勘違いする。別に学校内で勘違いされる分にはしょうがないとあきらめもつくが、この人は母とつながっている。いつ、なんどき、上総をおちょくろうとしているあの時辻沙名子が、勝ち誇ったように反り返る姿が目に浮かぶ。清坂美里が彼女なのだと知られた時の地に潜ってモグラ化したくなるような気持ち、今でも蘇る。
「それに、私も先輩だったら、安心できますしね」
「何が安心だよ」
慌てて袖口に、グラスの底の水滴をつけそうになり慌てた。普段の服なら気にしないけど、なにせ和服だ、絹だ、母のものだ。うっかり汚したら半殺しだ。花森は落ち着いて背すじを伸ばし、上総に対した。
「先輩しか、杉本さんを守ってあげられる人、いませんよ」
「守るって、いやそういうわけじゃ」
「それなら、さきほどのお言葉、もっと詳しく説明してくださいよ。先輩、もしどうでもいい相手だったら、二年間、一人ぼっちでもどうだっていいでしょう。青大附中に私のような手のつけられない女子がいなくなって、学校側の方が喜ぶのは目に見えているのに」
「そんなことないよ、俺はただ、花森さんがもっと青大附中にいてほしいと」
言い返そうにも、花森は動じなかった。こういうタイプの女子は本当に、怖い。
上総もいつも、口を滑らせてはあとで後悔する。
「もう、無理しなくてもいいですよ。なんだか笑っちゃいますよ。先輩に悪いけど、私、立村先輩が何考えてるんだかわかっちゃいますからね」
もうだめだ。上総は言い訳することをあきらめるしかなかった。
「先輩、こういうことでしょ?」
本来上総が説明すべきことの肉付けを贅肉状態にして、花森はしゃきしゃきと語り始めた。
途中、口をはさみたくなっても、言えなかった。改めて上総は思う。一年遅れて入学しなくて、本当によかった、花森と同級生にならなくて。そうでなければきっと、尊敬の「そ」の字ももらえないまま、古川こずえの弟分的繰り返しをしていただろうから。
「つまり、立村先輩は杉本さんの同年代保護者として、私を見ていたわけですよね」
鋭い切り込みだ。が、認めるわけにはいかない。花森に対する侮辱になる。必死に首を振った。言葉が続かないので説得力がない。
「最初、私が学校で先輩に声かけた時、言っちゃなんですけど、逃げようとしてませんでした?」
「逃げるって、そんなこと」
「先輩は覚えていらっしゃらないかもしれませんけどね。私がたまたま時辻さんに用事があって近づいてきた時、先輩、私のこと知らない振りしようとしませんでした?」
「いや、それは本当に、その頃花森さんのこと知らなかったから。俺、顔を分別するのが苦手なんだ。これは生まれつきの問題なんだよな」
嘘ではない。実際上総は、よっぽど友だちとして親しくならないと顔と名前の判別がつかない。一部例外もいないわけではないが、ほとんどの場合はそうなる。信じてくれたかどうかわからない。花森は両手を組み合わせ、まっすぐに続けた。
「でも、青大附中の生徒だってことくらいは、知ってましたよね」
どうだっただろう、覚えていない。黙ったのを肯定だと受け取ったのか、さらに花森は話を進める。
「とにかく、立村先輩は本当言うと、こういう話をする人が苦手なんですよね。なんか時辻さんもおっしゃってましたよ。学校の人にたくさん宣伝してほしいのに、先輩はぜんぜん人を誘おうとしないって。唯一、杉本さんだけですよね」
「いや、一応クラスの友だちには声かけたけどさ。そんな変なこと、うちの母さんが言ってたのかよ」
「清坂先輩や羽飛先輩をこの前のコンサート、どうして呼ばなかったんですか?」
「いや、呼ばなかったわけじゃ」
なんだか思い出したくない過去の記憶が蘇る。そうだよ、誘いづらくて、つい後回しにしていたら忘れてしまって、えらく羽飛や美里に怒鳴られたことを。
「とにかく、先輩が時辻さんの手伝いをしていることを、知られたくないことは私もだいたい見当つきましたよ。それでも、そういう場所であっても、先輩、杉本さんを呼んでいるんですよ。私も杉本さんの関係で初めて先輩のこと知りましたけど、やっぱり声かけたらものすごく怒られるんじゃないかな、って思ってあえて言いませんでしたけどね」
ああ、もうだめだ。自分が情けない。
自分が自分の感情を自覚できなくて、どうするっていうんだ。
言い分もあるはずなのだが、あえて何も言わずに上総は花森の言葉に耳を傾けるしかない。
「そういう立村先輩が、私にだけはそういう話をするようになったわけですよね。安心してくださいよ。私も子どもじゃないですから」
年上の男子にそれはないんじゃないか?と問いたいがこれもあきらめる。
「だいたい見当ついてましたよ。だって先輩いつも、杉本さんのこと最優先で物事考えているでしょ。まあ、この前評議委員から杉本さんをおろそうだなんて、なんてことするんだって思いましたけど、でも先輩がまさか、杉本さんのことを最優先で考えてないわけないしなにかあるんだろうな、とは思いましたよ」
肝心要の杉本からは許しをまだ得ていないのだが。
「杉本さんは頭がいいですしね、賢いですよ。ただ、敵は非常識な連中ばかりですし、新井林や佐賀さんみたいに自分のことばかり正しいって言い張る連中が結局は勝つのがこの世界ですもん。やっぱり、誰かが守ってあげないといけないとは思うんですよ」
不敵な笑み。ここでいったん息を止めるようにして、花森は指先をそっとグラスの端へ置いた。
「私はたまたま、ダーリンとか師匠とか、私を守ってくれる人たちと出会えたからそっちの道進むつもりでしたけど、杉本さんにはそういう人、いないんですよ。かえって私がいたから、二倍、三倍ってたたかれていたところもあるはずなんですよ。だから、これから先私がくっついていてもお互い不幸だし、本当にやりたいことができないまま友情ごっこしても意味がないと、私は思うんです。あ、決して私、杉本さんを見捨てたいなんて思ってないですよ。ただ、私も守られたいってとこ、あるんですよ。もう桧山の馬鹿男や新井林・佐賀ラインのやり口に、正直めげてるところもあるし。正義は勝たないし」
「正義は勝たないって」
「そういうことです、立村先輩。私の力では、悔しいけど、杉本さんを守りきれないんです」
頭の中をごった煮にされたようで、またかあっと頬が熱くなる。
花森はちっとも動じない。
「先輩、私ずっと、立村先輩だったら杉本さんを守ることができるんじゃないかなって、いつも思ってましたよ」
「なんで俺が」
「先輩はいつも杉本さんの顔、しっかり見分けられるでしょ。他の女子はともかく。何があっても、他の先輩たちとか、ほら、清坂先輩たちがいても、先にまず、杉本さんを探すでしょ。あれ、他の人たちからも露骨に見え見えなんですよね」
凛とした花森の口調は衰えることを知らない。上総は打ちのめされるしかない。
「だから、いいかげん観念したらどうですか。私がいなくなったらたぶん、立村先輩ひとりですよ。どうしますか?」
──どうしますかって言われてもさ。
上総には返す言葉がなかった。
杉本梨南をたったひとり、このまま青大附中で孤独化させていきたくはない。
花森の言う通り、花森がいればまだ、杉本はクラスで一人ぼっちにならずにすむ。そういう計算も、もしかしたら働いていたかもしれない。自覚もないままに突かれるとは思っていなかったが。
──けどさ、俺が花森さんのことを利用しようとするって決め付けるのはあんまりじゃないか?
反論したい。上総も目の前の花森と同じように指を絡めた。一対一、今度こそ対峙する。
「俺は、確かに花森さんの言う通りあんまり、母さん関連の行事に友だちを巻き込みたくないっていう気はしていたと思うんだ。だけどさ、杉本だけを特別にひいきしたつもりはないよ。たまたま向こうがそういうのに関心あって、それでってだけであってさ」
「それはどうでもいいんですよ。私が言いたいのは」
「ちょっと話だけ聞いてくれよ。つまりさ、俺は杉本をB組でひとりにしたくないから、花森さんを青大附中に無理にいてほしいとか、そういうつもりで言ったんじゃないんだよ。花森さんが自分の進路をこんなに早く決めるのはすごいことだって、さっきも俺言っただろ? ただ、それ急がなくたっていいんじゃないかなってなんとなく」
「先輩、いいかげん認めてくださいよ。でないと私も今日決断した意味がないじゃあないですか!」
突如、花森が低い声ですごんだ。思わず腰が引けてしまう。いすが動かないので目だたないですんだのだけが幸いだ。腰紐のあたりに力を入れて上総は平静を保った。
「私もまさか今日、先輩にお会いできるとは思ってませんでしたよ。まあ三学期しっかり考えようかな、とは思ってましたけどね。なんとなく決断はしてたんですよ。でも、先輩、こういうこと認識してもらわないと、私がいなくなった後もこんななあなあでいいかげんな状態を続けるでしょ。今までだって、私がいたからこそ、杉本さんに対して手抜きしてたんでしょ。往生際悪いですよ、先輩。もういいかげん、なりふりかまわず、私の分も含めて二人分、杉本さんを守る必要があるんですよ。私だったら弱いんですからね。ひとりで立村先輩が本気出してもらわないと、私が残っていたてめげますよ、杉本さん」
さすが、青大附中一年女子の中でも、男子たちをも黙らせる迫力。和服でしとやかにすべてを隠しても、にじみ出るものがある。現に上総も、言葉をどう返していいかわからない。しかも、この人、その後上総の言葉をじいっと待ちつづけるかのように黙ってしまった。
──じゃあどうしろっていうんだよ!
年下の女子にも圧倒される自分がみっともないったらない。
どうやら上の階では、名取式のおけいこか何かもひと段落したらしい。母ががたごとエレベーターから降りてきて、上総に近づくなりいきなり頭をはたいた。相当ご機嫌斜めらしい。
「ったく、あんたは一人でおいしい思いして!」
「誰が!」
──そうだよ、どこがおいしい思いだよ!
花森の落ち着いた笑顔がなおさらいらだたしかった。さすがにこれ以上花森にどつかれる思いするのはたくさんだったので、上総は仕方なく黙ることにした。
「ほら、あんた、片付けの手伝いしてよ。なつめちゃんも悪いけど、お願いできる?」
「はい、わかりました」
なんと素直なんだろう、この態度は。さっきまで一年上の先輩に散々暴言たたいていた女子とは思えない。日本伝統芸能に携わる女子はどうして猛烈女性が多いのだろう。上総には理解できないこの法則、おしとやかさなんて、嘘だ、嘘。
片付けはそれほど大変ではなかったのだが、その他いろいろ母が師匠と細かい打ち合わせを行っていたこともあり、結局一時間くらい待たされた。もう食べるものも食べたし、しかたないので上総は母の車に乗って待つことにした。できれば花森の言葉を聞かなくてもいい場所に行きたいというのが本音だが、彼女にはそこまで言えない。花森も、たまご色の着物で上総を脅す……たぶん本人にはそういう認識ないだろうが……のにこだわるわけではなさそうだった。まずは車の助手席に乗り込んだ。冬場だからかなり冷え切っているけれども、和服が妙にぬくもっていてそれほど寒さを感じなかった。
──なにが、杉本を必死に守れだよ。向こうに俺はもう、嫌われてるってのに。
言われるまでもなく、これから上総は杉本梨南を評議委員会以外の場所で歩いていけるようにしようと考えている。今はまだ、評議委員会ビデオ演劇のことで頭が一杯だし、具体的なこともまだ決まっていない。でも、一週間近く前に本条先輩に宣言した通り、上総は「立村上総のやり方でもって評議委員会を動かしていく」つもりでいる。もし本条先輩から評議委員長をおろされたとしても、杉本がB組以外の場所で楽に呼吸できるようにする計画は立てるつもりだ。それを先取りするような言い方されると、思いっきり腹が立つ。しかも下級生に、だ。
──俺だってさ、ちゃんと杉本のことは考えているけどさ。それに花森さんのやりたい夢をつぶしてまでも杉本のそばに置いておきたいとか、そんなことは考えてないよ。なんでだよ、みんな勘違いしたことばかり言うんだよ。ったく、だから女子はわからないよ。
シートベルトを締め、着物を脱いでくればよかったと後悔し始めた頃、ようやく母が戻ってきた。お連れに花森なつめもいっしょだった。まったくの予定外ではないので驚きはしなかったが、それでもなんだか息苦しくなりそうだった。顔には見せないようにして、上総は後ろ側のドアを開けた。
「上総、こういう時はね、ちゃんと立って、外に出て、それから開けてあげるものじゃないの。ったく、あんたは本当の意味でのレディーファーストを知らないわよね」
「悪うございました」
吐き捨てるように答え、母が運転席に、花森が後部座席に座るのを確かめた。バックミラーには、おしとやかさ満点の花森の顔が映っていた。よくよく見ると化粧がやたらと映えている。もしかしてこの人、化粧直ししてきたんじゃあないだろうか。やはり自分より年下には見えない。
「さ、まずはね、なつめちゃんを送っていきたいんだけど、なつめちゃんどうする?」
「ありがとうございます、じゃあお願いします」
母は花森の家を知っているらしく、地図も説明も求めずに、すぐエンジンをかけた。まだ温まっていないようで、なんどか空ふかしが続く。
「上総、あんたはその後ね」
「わかってます」
わざと丁寧に答えてやる。 どうせ家についたらまた母はうるさくああだこうだ、細かくチェックをするんだろう。将来、本当に永遠に近い将来だけど、自分が嫁をもらった時、きっとこの人は鬼姑になるんだろう。
「先輩、本日はありがとうございました!」
「いや、こちらこそ」
短く、できるだけやさしく答えたつもりだった。上総の内心にたぶん気づいていない女性ふたりは、楽しげに三味線の会について語り始めた。まだ母には話していないらしい花森の将来に関する決意。言葉の裏を読むのが得意な上総には、少しだけ痛みを感じるものもあった。
「本当ねえ、うちの上総みたいに将来のことなんてなんも考えていないのがほとんどよねえ。でもなつめちゃんはえらいわよ。やはり、三味線で身を立てていくつもりなの?」
「もちろんですよ! 学校のつまんない勉強するよりもやっぱり好きなことしなくっちゃ、人生短いんですしね」
「そうよねえ、昔は十五でお嫁さんに行く時代だものねえ。なつめちゃん、やっぱり自分を持っていてえらいわよ。上総、あんたも見習いなさいよ。将来あんた何になるつもりなの?」
思いっきり腹が立つ。こういうところでこの人は、自分の息子に恥をかかせようとするわけか。男の子の夢パイロットとでも言ってやろうかとちらりと思うものの、即馬鹿笑いされるだけと判断、やめた。返事をしないのを、答えられないんだと思い込んだんだろう。
「あんたもそろそろねえ、将来何をやりたいか考えておかないとだめよ。どうせあんたのことだから、青大附属高校へ進んで、その後だまって大学へ、ってエスカレーターを考えてるんでしょうねえ。安易もいいとこよ。あんた、そうでないの?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「そう、じゃあ将来、なりたいもの、言ってみなさいよ」
答えられるか。だんまりを続けるのが得策だ。
「ほらねえ、なつめちゃん、男って結局こうなのよ。覚えておきなさいよ。いっつもぎりぎりにならないとやる気出さないんだからねえ。いくつになっても、ガキはガキなのよ」
「なんだか、それわかるような気がします」
──そりゃどうだろ。どうせフィアンセで確認しているんだろ。
上総はそれ以上余計なことを口に出さず、窓から鉛色の空を眺めていた。今夜は冷えるぞ。来年の正月へたしたら大雪降るかもしれないぞ。
女性陣が年齢差をまったく考えずに和風のネタで盛り上がっていた。母の運転が荒いのは今に始まったことではないけれど、なぜかあまり酔うことがなかったのは、やはり血の神秘だろうか。もっと緩やかにハンドルをさばく運転手さんの車でも顔色真っ青になることが多かったのに、不思議なものだ。さっきも思わず目の前の鳥かなにかを避けようとして急ブレーキをかけていた。へたしたら事故の可能性大だというのに、それでも落ち着いていられる。慣れは恐ろしい。
「ところでさ」
急ブレーキ効果でさすがにスピードを落としたのを見極めた後、上総は母に尋ねた。
「花森さんのうちって、どのへん?」
「結構うちから近いわよ」
「うちってどっちのだよ、俺のところか母さんのところか」
「決まってるじゃないの、私のとこよ」
完全にこの人、自分を基準にして認識している。仮にも十四年も暮らしてきた家なのに、もう「うち」が自分のところでなくなってしまっているってわけだ。
「つまり都会よ」
「品山はど田舎だもんな」
思いっきり嫌味を言ってやる。とたん、ハンドルを放した片手で思いっきり額に手が飛んできた。瞬間技。みけんを切られた状態だ。殿、ご乱心といつぞやの「忠臣蔵」ビデオ演劇のようなせりふを唱えたい。
「上総、いいかげんガキっぽいことでつっかかってくるのやめなさいよ、あんたもう十四になったんでしょ! 男子はほんっと、馬鹿みたいなんだから」
「関係ないことでつっかかるのはそっちだろ」
花森の前で……三学期まではまず、学校にいるだろう……親子喧嘩をさらけ出すのは心に相反するが、本能で叫びたくなるのだからしかたない。
「まったくねえ、ほら、なつめちゃん覚えておいた方がいいわよ。男って結局こういうものなのよ。自分の気がすまないとこうやって文句いったりわがまま言ったり、ほんと困ったものよね」
「自分のことを棚に上げるのはやめた方がいいと思う」
「なんか言った?」
「別に」
後部座席で花森が、いかにも落ち着いた風に笑いをこらえるのが、バックミラーに映った。
なんだか母にさんざん乗せられて、身包みはがされているような気がしなくもない。
──俺はこんな嫁さん、絶対にもらわないもんな! 父さんもこんな性格の悪い人と結婚しようだなんてさ、なんで血迷ったんだろうな。
たぶん一生口に出せない本音を、上総は無理やり飲み込んだ。
その後も、母の上総こきおろしは果てしなく続き、もう二度と花森の前では「青大附中の評議委員長」として敬意を払ってもらえそうにないところまで暴露されてしまった。
「そうそう、なつめちゃんは七五三ちゃんとお祝いしたんでしょ」
「十三参りまでやらされましたよ。そんなの誰もしてないってのに」
「芸事の腕をあげるためにはそれも必要よ。そうそう上総には七五三の時やっぱりこういう感じで紺色の着物にはかま着せたのよ。近所で五歳のお祝いに着物着せる家一軒もなかったから目立ったわよ」
「先輩、はかま姿これが初めてじゃないんですね、そうかあ、着慣れてると思いましたよ」
「一年の学校祭では評議委員会主催の茶会手伝いで着たけどな、俺だけじゃなくて他の男子連中も、本条先輩も」
悪いがその学校祭以外、自分で和服はかまを着付けられて助かった経験なんてない。
──母さん、俺は小学校に上がってから、七五三の格好ネタにして、さんざんクラスの連中に馬鹿にされたんだぞ。男のくせにスカートはいてやがるって物笑いにされたんだぞ。いじめのきっかけ、親が作ってどうするんだよ!
「でも、先輩よく似合ってますよ。ほんと、さっき家元役やった時も、落ち着いてて、これだったら清坂先輩も惚れ直すよなあって思いましたけどね」
いきなり「清坂先輩」の所に力をこめて言うのはやめてほしい。すでに母にも美里の存在はばればれなのだ。帰ってからまた散々物笑いにされるのはいやだ。
「そういえば、あんたの彼女、お元気? そうだ、この前ねえ、上総ってばねえ」
「母さんやめろよいいかげん、ほら赤信号だ」
制止しようとしたが遅かった。この人、息子の言うことを素直に聞く人ではない。赤信号をあっさり無視しようとした。信号無視が警察に見つかったら即、切符切られること知らないわけでもなかろうに。母は冷静にカーブを切りながら、口だけは猛スピードで、
「ほら、クリスマスの日にね、彼女連れ込んでいちゃいちゃしていたらしいわよ。あんたのお父さんが報告してくれたわよ。中学生のくせにとは言わないけどね、あんた、いったい何してたっていうのよねえ」
花森の口調が、少しこわばった。
「先輩、それ本当ですか」
「ほんとでしょ、上総、返事しなさいよ」
襟首をつかまれた。片手ハンドル危ないからやめろって言いたい。上総は母の手を払いのけた。
「母さんたちの想像しているようなこと、してるわけないだろうが!」
──ったく、父さんなんでそんなよけいなこと報告するんだよ!
嘘ではない。言い訳できない。花森が黙ってしまった理由も想像がつく。一人母だけが、脳天気に上総にまつわる過去の恥さらしを暴露しているのを聞き流しつつ、上総はこれからどうするべきか、考えた。
母の言ったことは間違いではない。
つい五日前のクリスマス、清坂美里をひとり、自分の家に呼び寄せ、自分の手料理……なにせ母に叩き込まれたから人間らしい料理の作り方はマスターずみだ……でもてなし、それなりにふたりっきりでおしゃべりをした、ということ。事実だしその通りだ。しくじったのはただ、父が思ったよりも早く帰宅してきた予定外行動、それだけだ。本当だったら六時前に美里を送り返して後片付けを済ませ、何事もなかったかのように部屋を整えてしまおうと思っていたのにだ。息子が色気づいたと勘違いした父は、何を血迷ったか息子に性教育じみたことをいきなり言い出す始末だった。こういう話題が大嫌いな我が息子の性格を知らないわけではないだろうに。思わずかっとなって次の日の朝家を飛び出してしまい、南雲の家に外泊してしまったというオチがつく。今回はさらに、母のお笑いネタにされたというわけだ。下級生の前でなんたる体たらくだろう。
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