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車はしゃかしゃかと勢い良く走る。時折飛び出してきた狐を轢きそうになったりもしたが、なんとか殺生せずにすんだ。
たぶん、母には恨みの背後霊がくっついているんじゃないのか?
上総はうとうとしながら目を閉じていた。母の助手席だとなぜか酔わない。楽しげに語り合う花森と母との会話は、さらに仔細細かく耳に綴られていった。
「でも、話によると、どういう形になるの?」
「義務教育が終わるまでは、仕込みさんすると思うんですよ。学校終わったら部屋の掃除とか水仕事とかさせられて、空いている時間にお稽古してもらうってんですか? ダーリンもいるけど、誤解されちゃうのはやっぱりやですしねえ」
「中学生のうちはきついよねえ、卒業したあとで半玉?」
「いろんな花街で違いがかなりあるみたいだし、私もどうなるかわからないけれども、でも、ま、学校にただで行かせてもらえるし、ダーリンとこではそれなりにいいこともあるしってことで」
「一応、日舞もやるんでしょう?」
「たぶん、この流れでいくと、芸者で一本立ちして……」
──芸者?
初耳だった。上総の頭にあったのは、花森がいわゆる三味線の先生の内弟子となって、住み込みするのではないかということだった。音大の邦楽学部みたいなところに入るとか、そういうきちんとした「学校」イメージで考えていた。しかし、花街。芸者。時代劇で得る知識が偏りすぎていることは理解していても、やはり戸惑う。どろどろした女性の世界とか、おめかけさんとか、一気に妄想が膨れ上がる。
「でも、生半可な覚悟ではないのよね」
「わかってます。けど、青大附中での習慣を経験していると、だいぶ違いますよ」
「そんなふうに簡単に思えるもんじゃないのにねえ」
もし、本当にそうだとしたら。
きっと花森なつめと杉本とはこれっきりとなるだろう。
青大附中の内部にいる者にとって、想像つくだろうか。三味線の修行という点では同じだけれど、一本立ちの芸者修行と重なるものだとしたら、花街だとしたら、差別意識をもたずにすむものだろうか。それにあの杉本が、受け入れられるだろうか?
「母さん」
上総は呼びかけた。
「悪いけど、ちょっと道戻ってもらえないか」
ほとんど伸びた状態で声をあげたので驚かせたのか、母はハンドルから一瞬手を離した。あぶない。
「なによいきなり」
「今から、この住所に向かってもらえないかな」
「行き方わからないいくせにいきなりわけわかんないこというんじゃないの。まったく男は衝動的なんだから」
懐に手を突っ込んでみるが生徒手帳があるわけない。
バックの中に突っ込んできたことをすぐに思い出した。取り出して渡した。
「あのさ、ここの住所なんだけど、わかるかな」
杉本の住所が手書きで綴られている場所を開いたつもりだったのだが、いかんせん自分の母、方向感覚がかなりずれている可能性、大だった。母はちらっと指差す住所に目を走らせたが、
「わかるわけないじゃない。私もあんたの親なんだから」
──そうだった。この人、実は方向音痴なんだ。
「いや、それはまた別」
口篭もるしかなかった。と、いきなり運転席助手席の間から、にゅっと手が伸びてきた。取り上げられたのは生徒手帳だった。冷たい指先が触れ、思わず心臓がひやりとする。
断りもなく花森がぱらぱらと、上総の生徒手帳をじじっと見つめ、納得した風に頷いた。上総を斜め視線でちらとにらむと、
「先輩、これどういうこと」
嵐の前の静けさ、母と同じ調子で尋ねてきた。
「──そういうこと、なんだけどさ」
訳わからないのが不満なんだろう、隣の運転席で母は、アクセルを踏み直した。そんなの無視した。花森に上総も横目で様子を伺った。
「花森さん、あのさ」
上総はシートベルトにじゃまされながら座席の端にしがみついた。あやうくギアに触れそうになり、母の手により、はたかれる。
「今、この格好ですぐ杉本の家に行って、話しろよ、すぐに、今のことを全部」
さっき花森とおしるこをすすりながら話をした時、ちらとよぎったためらいの表情を上総は記憶していた。
──私みたいな人間が顔を出そうもんなら、『梨南ちゃんを悪の道に引きず り込んだ張本人』とか言われて、たぶん出入り禁止になるんじゃないですか。
そうだろうそうだろう。青大附中一年B組花森なつめそのものの制服姿で、真っ赤なマニキュアとほのかな化粧施して現われたとしたら。
杉本の親は外見で人を判断するタイプの人だという。いや、杉本だけではない、大抵の人間たちは、花森に貼り付けられたいくつかのレッテルでもって、ありふれた四文字「不良少女」と判断するだろう。たとえ若干の情報を得たとしても、「学校についていけなくて芸者修行に出た娘」「コネで入学したにもかかわらず、明日の青潟を担う若人たちとは別世界の人間」として見下すかもしれない。今ここで、上総や母や花森のダーリンが、本人の口から確固たる決意を聞かされたと説明したところで、他の人たちが簡単に考えを翻すとは思えない。
責めはしない。ただ、上総はどうしても願うものがあった。
──杉本にだけは、多数派の視線で花森さんを、見てほしくない。
外見で判断する集団のトンネルを潜り抜けるために、どうぞ、たまご色の淡い小紋をまとった、ひとりの少女としてこのまま歩いてほしい。
──杉本梨南ならば、言葉で必ず伝わるから。
「先輩、でも私みたいなヤンキーが」
「杉本以外に本当の姿なんて見せなくたっていいだろ!」
すごい言葉だと自分でも思った。隣で聞き耳立てつつハンドルを握る母なんて、どうだっていい。上総は一気に言い募った。
「いいか、今の花森さんのままで、全部杉本に話せばいいんだ。俺や母さん相手に本音をしゃべるよりも、杉本にもっと言いたいこと、話すべきだよ」
「あんた、なによそれ」
母がかなり機嫌悪くした風に唇を尖らせた。ここで上総が下手なこと口走るとアウトだ。頭をひとふりして花森に合図した。すぐに理解したのか、次の台詞を用意してくれた。
「あのう、実は私の友だちに、今の話まだ話してないんですよ。だから先輩が、その子に話さないとまずいんじゃないかということを、おっしゃりたかったようなんです」
「おっしゃる」などと丁寧な言葉を使う花森。さすが和服のパワーは伊達じゃない。うんうん上総が頷いていると、母の手が飛んできて髪の毛ごと前を向かされた。
「だいたい目印になる建物はわかります。大学生用の下宿が立ち並ぶ通りありますよね、あそこまで行けばたぶん、住所見ながらいけます。そこまでお願いしていいですか?」
「なつめちゃん、わかるの?」
「はい、大丈夫です」
もう上総の出番はなかった。数本髪の毛を引き抜かれた痕が痛い。親とふたりになったらあとはとことんののしってやるのだ。上総は黙って窓の向こうを向いた。
花森のナビゲータにいざなわれ、ゆっくり車は突き当たりの信号から安全運転でUターンした。
二週間くらい前に、上総は杉本の家を訪問した。キリスト教の教会をイメージしたような十字架つきの白い建物だった。あの日はたまたま、清坂美里が一緒だったこともあって、なんとなく無事たどり着いた。道筋はまったく覚えていないけれども、通りすがりの学生用下宿案内張り紙や食堂は見覚えがあった。おそらく初めて向かうはずだというのに、あっという間にたどり着いた花森のナビゲータに上総は思いっきりふてくされたくなった。もちろん、顔には意地でも出さない。出すもんか。
「なつめちゃんほんと、しっかりしてるわねえ。これだったら初めての土地にひとりで出かけても大丈夫ね。隣の誰かさんとは大違いね」
「悪かったな」
方向音痴同士の親子、血は争えない。どっちもどっちだ。
「それにしても上総、あんたなにかっこつけてるのよ。そういう態度だからあんた、もてない……わけじゃないかもしれないけれど、軟弱者なのよ」
断言しきれない母の口調がさらに上総を激昂させる。人前だからこらえるだけだっていうのに。
「先輩、もててますよねほんとに」
とどめを刺す花森には、一年先輩の立場としてきちんといさめる必要性を感じる。
「花森さん、よけいなこと言うよりも、早く降りろよ。そこだ、あそこだ」
本当だったら電話で連絡をいれておくべきだったかもしれない。思い当たったのは杉本の家にそびえる十字架を見つけてからだった。母とのしょうもない言い合いで肝心要のことを忘れていた。でも、ひとつやふたつのマナー違反なんて、きっと花森の和服姿で帳消しになるはずだ。年末年始のご挨拶、たとえ玄関で挨拶する程度だとしても、最低限親友に伝えるべき言葉は、年明け前に届けられる。女子の親友同士が伝えるためのひと時を与えられたらそれで十分だ。
「先輩、ありがとうございます」
「年末で忙しい時期だから、玄関先で失礼したほうがいいわね」
上総が心がけたことを、後追いで母が注意する。やはり血がつながっているゆえか。瞳の雰囲気だけがそっくりな自分ら親子の共通点が、なぜかやたらと見つかる。
「私たちは外で待っているから、行ってらっしゃい」
余計な言葉を絶対口にしたくなかった上総は、黙って見送ることにした。
玄関のよびりんを押し、半開きになった扉にたまご色の佳人は姿を消した。一度完全に閉じ、また開いた隙間から花森ともうひとり、紺色の長いドレスをまとった女子が顔を出した。
「あら、あんたも挨拶必要じゃないの? 『立村先輩』?」
「関係ないってさ」
すでに杉本とは、喧嘩別れなのかそれとも一方的に嫌われたのか、とにかく上総にはそれほどダメージのない形で縁を切られている。向こうが切ったとしても、こちらには関係ない。なあに、三学期が始まったら杉本のつっかかる様をにっこり受け止めればいいことだ。その点において母には強く感謝したい。打たれ強い性格形成に貢献してくれたものとして。
さらににやにやしながら母が上総を、見上げるように覗き込む。無視だ、無視。
「まったく、和也くんにそこのところは似てないわねえ。なんでこんなひょろひょろした男が、あんなかわいい子に好かれるのかしらねえ」
清坂美里に関する当てこすりだ。返事をしない。戸口の杉本が一度じっと上総の方を見据えた後、一礼しさっさと戻っていく様を見送るだけだった。
「あらら振られたようねえ」
「余計なお世話だ。関係ないだろ!」
母との不毛な掛け合いを続けているうちに、車内の温度も下がってきた。気温が上がっても下がっても不快指数だけが圧倒的に高くなるだけだし、とにかく喧嘩が起きるのもいつものことだ。毎度のことだけど今回に関して言えば、かなり上総の分が悪い。どうも母の口調によると、
「美里ちゃんみたいにかわいい女の子では満足できず、下級生にも、さらにその友だちにも手を出す相当の女たらし」
そう思い込まれている可能性が高い。失礼な。たまったものではない。当然言い返すことになるのだが、十四年と三十四年の人生経験ゆえになかなか勝てずじまい。
「立村先輩、どうもありがとうございます」
何度目かの喧嘩腰言い合いを繰り返していたふたりをようやくさえぎってくれたのは、花森なつめだった。すでに杉本の姿はなく、片手にはクリスマスカラーの小さな菓子包がぶら下がっていた。
「ひとつ、食べます?」
「いいよ、それよりさ」
うっとおしくありもしない妄想を押し付ける母から少し離れたところで確認したかった。上総は車から降りた。はかまの裾が濡れた感覚が、足元の重さで伝わってきた。
「先輩のアドバイス通りちゃんと、話してきました」
「それはよかった、で杉本は?」
実は一番知りたいことでもある。
「もちろん、びっくりしてましたよ。それはそうでしょうね。でも、年が明けてからゆっくり話をしようということで、締めました」
女子の親友でありながらあっさりしている返事だった。中学二年の一般男子とかなりずれた感覚の持ち主を自覚している上総には、満足できない。
「その他になにか言ってなかったか?」
「先輩、かなり杉本さんにこだわってますねえ」
また、母に似た視線でもって上目遣い。だからそれがむかつくのだと上総は訴えたい。唇を噛んだ。
「女子同士の会話をですよ? ずうずうしく聞き出そうとするなんて、レディファーストの立村先輩ともあろうお方が」
「それとこれとは違うよ、だってさ、だって俺が今、行けって言ったんだから責任あるしさ」
「へえ、そういうものなんですか?」
羽織った袖をそっと口に当てて、何か言いたげに微笑むのはやめろと言いたい。
「そりゃあそうだろ、だってさ」
「女々しいですよ、先輩。それよりもちょっとこっちに来てもらえませんか。そう、時辻さんから離れたところまでですね」
口元からすべてを見せた花森の瞳には、いかにも悪さをたくらむいたずらっぽさが見え隠れした。
どこぞの下ネタ女王を思い出しさらに重たくなるのは直感か? 袖を引きずられるままに上総は背を車に向けた。そう、だいたい五メートルく
らいか。十字架を見上げる位置、玄関が真上。上総の真向かいに花森が立った。
「いい位置ですね」
「なんで?」
「立村先輩、ちょっとこのままでいてもらえますか」
言われた通り、はかまの裾を片手で少し引き上げるようにした。空を見上げた。黒味がかった白い空を見上げ、つばを飲み込んだ。
「あと、目を開けたままでいてくださいね。これは重要ポイントですよ」
近づいてきたものは、花の香り。
粘着質のべたっとしたものが、頬にくっつき、すぐに離れた。
目の前にあるのは、してやったりと言いたげな花森の笑み。
「今、何した? 花森さん?」
間抜けな一言を発してしまった。
もう通常の一対一、対面状態に戻った花森は、ゆっくりと人差し指を鼻の前に立てると、
「いいですか、いきなり、唇に吸い付いてはいけませんよ、先輩。勘違いしてぎゅっと抱きしめたり、早まったりしたら、だめですよ」
「早まるっていったい」
ちっとも頬を赤らめず、ただなんとも思っていないって顔している。
「立村先輩、少々遅くなりましたが、一種のクリスマスプレゼントとでも思ってくださいな。それともお年玉かな? 今の感覚、ちゃんと覚えておいてくださいね、なかなかリハーサル難しいでしょ?」
あ、そうそうとつらっとした顔で言い放った。
「このこと、杉本さんには内緒にしておきますから。安心してくださいよ。では、お車に戻りましょう!」
意気揚揚と右手を挙げ、花森は母の待つ車へと駆け寄っていった。あっという間に助手席に乗り込んでいる。後部座席に座るしかなさそうだ。
恐る恐る運転席の母がどういう顔をしているのか伺いたいところだが、こちらからはのぞきこめない。いったいどういう顔して、これから家に向えばいいんだか。
「どうしたのよ上総、その面」
「なんでもない」
後部座席に乗り込み、上総は頬を軽くこすった。本当だったら雪で顔を洗いたい。いったいなんだか自分がどうしていいのかわからない。
たぶん見られていない、そう思ったのは上総の早とちりだった。杉本には内緒にしてくれると約束してくれたが、母はその対象でないらしい。
「先輩、そうそう深く考えないで」
花森もまたちらりと上総に片えくぼで意味ありげな笑みをもらした。
「キスのひとつやふたつ、減るもんじゃなし。親愛の証と思ってくださいよ」
「まあねえ、アメリカや欧米諸国では、親愛のキスなんて普通だしねえ。しっかしあんた、何そんな真っ赤になってるのよ」
「うるさいってさ!」
上総の制止は無駄だった。アクセルを二度吹かし、母は高らかに言い放った。
「ったく、こんな軟弱おばか息子のために、ファーストキス体験させてやってありがとうねえ、なつめちゃん」
──終──
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