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青潟大学附属シリーズ中学編
1
──もう二度とやらないさ、ああ絶対やらないさ。腱鞘炎になるようなことなんて、もう死んだってやらないさ。書道くらい自分で練習しろよ。まったくあの人ときたら……。
手に墨汁は一滴もついていない。上手な字を書く人は、手を汚さないと書道の授業で習った。きれいかどうかは人の好みだけど「あの人」よりはずっとましだと上総は思う。
「上総、終わった? 宛名、まだあるんだけど」
──だったらせめてプログラムを折って封筒にしまうとかしろよ!
口に出さないのはわが身が危険だから。上総も十四年間お付き合いしてきただけあって、相手の行動を先読みできるようになった。苦労したのだこれでも。風鈴の絵柄がプリントされた封筒に筆を滑らせ終った。百通分だった。思いっきり両手を伸ばした。もちろん細筆はすずりの側に置いて、汚さぬように。
──せめてさ、筆ペンを使わせろよ。自分でやらないくせしてさ、何が本物の毛筆で間に合わせろ、よだと?
窓とカーテンは開けっ放し。母がいなくなってからはずっとこうだ。
「終わらせたんでしょうね、上総、ほらまだあるのよ」
お礼の一言も言いやしない。さっそく五十通分の追加封筒をすずりの隣りに置いたもんである。墨汁の側に並べるのだけはやめて欲しい。
「母さん、あのさ」
「何か文句あるの」
「ないけど、別に」
──とにかく早く退散させよう。まずは全て終わらせることが先決だ。
墨のしぶきがドットにならないよう封筒を退避させ、上総は再度筆を滑らせることに専念した。隣りでじっと見下ろしているのは、自分によく似た目をしている女性一人。一応、母ということにはなっている。
「それでね、終わったらプログラムを三つ折にして詰めてちょうだい。百五十人分ね。今回は若いお弟子さんのお友だちがたくさん来るらしいから、師匠も大変そうなのよ。あんたくらいの子がたくさんいるのよ。全く上総も女の子だったらねえ」
──じゃなくて本当によかった。
同じ苗字の人が大量に並んでいる。名前をうっかり間違えないようにしなくては。日本舞踊の世界では、ある程度の経験を積むと「名取」といって踊る時に芸名らしきもの使うという。苗字を流派名、名前は人それぞれ好み、もしくは師匠の命名によって決めるという。
──女に生まれなくて、本当によかった。
明るい紺のスーツに黄金色のブランドスカーフを巻き、上総の下敷きで風を仰いでいる母がひとり。
「上総あんた、まだ『九九』の載っているものなんて使ってるわけ?」
──悪かったな。
この人が母親でよかったと思う時はそうそうないが成績についてはうるさくいわれない。数学で一年間ほとんど赤点しか取らなくても、結局は何にも言わなかった。一ヶ月に一回しか顔を合わせない親子だからそれも当然なんだろう。
ただ、月ごとの部屋しつらえおよび、雛人形やら五月人形やら、さらには繭玉、しめ縄飾りを手抜きするのはご法度だ。父と雁首そろえて怒鳴られる。よく父は母と結婚生活を送ってきたものだ。感心する。
結局一年前に「離婚」という形式を取ったけれども、夫婦関係が崩壊したのではなく、単に「友人付き合い」に戻しただけなのだそうだ。いたって父と母の友情関係は良好。毎月一回は泊りに来て父といろいろ、話をしていく。ある意味、恐怖の一泊二日ともいう。
──この人が俺の母親だってことが、今だに信じられない。
たぶん美人なんだろうなあとは思う。いわゆる「キャリア・ウーマン」タイプなのだろう。さすがに「姉」と間違われたことはないが、羽飛や清坂美里の母よりは若いだろう。唇の赤さがキーポイントだ。
「それでね、上総。来月の日曜なんだけど」
「あ、俺その日、宿泊研修の用事があるから」
嘘ではない。八月一杯はクラス宿泊研修の準備で清坂美里、羽飛貴史と一緒に美術館に出かける予定だった。
「一日ずらせるわよね。当然」
「当然ずらせない」
きっぱり答えてすずりをティッシュでぬぐう。
「ずらしてもらうわ。お友達と彼女? あんたの電話番号全部控えているんだからこちらから連絡するけれども、いい?」
「母さん、そんなの知らないくせに」
「清坂さん? 知ってるわよ。お父さんからみんな聞いてるから」
──父さん? あの、まさか。
確かに清坂美里の電話を何度か取りついでもらったことはある。羽飛も家に遊びにきてくれたことがある。でもまさか、月一日しか来ない母に、電話番号までばれているとは思えない。それ以前に上総は、清坂美里とお付き合いしているなんてことを、一言だって口にしちゃいない。
「ばかね、あんた、菱本先生から全部聞いているわよ。私のいないところで羽根伸ばそうたって無理よ。可愛い子なんでしょう。あんたには過ぎた彼女だって、もっぱらの噂だそうね」
──いったい何考えてるんだ、あの野郎は!
怒りが担任菱本教諭に向かったのを見抜かれたらしい。母はゆっくりと上総の肩を叩いて、両手を置いて、ぐっと重みをかけてきた。
「いいわね、それが嫌なら上総、自分で時間変更の電話を入れなさいね」
「どこに行けって言うんだよ」
「見てなかったの?」
鼻で笑いながら、母は水色のプログラムを広げて上総の鼻先にぶら下げた。
ひったくる。プログラムの日程だった。
──志遠流日本舞踊 ゆかたざらい──
午前十一時〜午後四時
2
「だから、本当にごめん。埋め合わせ絶対にするから、本当に」
本当はこの日に青潟市立美術館で清坂美里、羽飛貴史と集まり、宿泊研修の準備の詰めを行うつもりだった。次の日にずらすことについては頷いてくれたが、
「でもどうして? なにか理由あるの?」
と問われた時には答えられなかった。
別に恥ずかしいことではないだろう。
以前からふたりとも、上総の母が日本伝統文化関係の仕事をしているのは聞いているはずだ。九月に行われる和楽器&現代音楽を組み合わせたライブにも呼ぶ約束をしている。もちろん、母の企画ゆえ、命令で、だが。
しかし、上総がここでうっかり「日本舞踊のゆかたざらいの手伝いなんだ」と言おうもんなら、好奇心旺盛なふたりのことだ。覗きたがるに違いない。日本舞踊に使われる邦楽は初めて聴く人にとってなじみいいものとは思えない。思いっきり眠たくなってもしかたない。広いホールで行うならまだいいのだが、今回の「ゆかたざらい」は、こじんまりした小ホールを借りる。椅子席なのでまあ本格的といえないこともないのだが、本衣装もつけない、もちろん白塗りもしない、音楽はテープ。実に静かで、客席も人がいない。家族とお弟子さんくらいのものだろう。
──そんなところに羽飛や清坂氏が来ようもんなら。
目立つ。ただでさえ若い年代の人が少ない日本舞踊の世界だ。着物なんてお祭りの浴衣かはっぴしか着たことのないようなふたりがうろつかれるとまず、他の人にいろいろ「どうして来たの?」と聞かれるだろう。本人たちもしゃべるだろう。上総との関係までばれてしまうだろう。それだけは避けたい。
「とにかく、今度詳しく話すよ。ごめん」
平謝りに謝って受話器を置くと、後ろには父が立っていた。母が「宛名書き」済みの封筒を抱えて帰った後、様子をうかがっていたらしい。
──なんとか言ってくれればいいんだ。どうして影に隠れているんだか。
「上総、やっぱり言われたか」
「いつものことだから」
父には頼るのも面倒だ。父はいい。仕事がある、忙しい、取材がある、などなど言い訳がいくらでもきく。大抵そのやり方で逃げてきたはずだ。しかし、学生たる上総にそれは通用しないってことも知っているはずだ。父のいけにえだ。
「お前も嫌いでないんだろう。ああいうのは」
「母さんがいなければ」
吐き捨てるようにつぶやき、上総は部屋に戻った。机の上にはちゃんと当日の予定表とプログラムがばらばらにほおりだされていた。きちんと並べるということをあの人はしない。
演目を一通り眺めた。夏日が少しだけ薄れ、かすれている。せみが鳴き始めた。
──しかし、この暑い盛りに「鷺娘」とか「幻お七」とかやるもんか?
季節感のない演目である。どしろうとの上総ですらも、天井から雪を降らせる演出の二作はよく覚えている。当日、紙で雪作って、降らせるんだろうか。たぶんやるんだろう。母がいるんだから。
「ゆかたざらい」とは、毎年そこの流派でこしらえるおそろいの浴衣をまとって、簡単にお稽古の成果を披露するというものである。いわゆる華やかな衣装を身に着けて、鬘もかぶってという形のおさらい会とは異なり、非常に簡素だ。お正月には同じ形で自前の着物を着る形での「初ざらい」というがそれほど費用をかけない形で行われる。チケット代なんてかかるわけもない。観客はほとんどが身内のみだ。
今回、志遠流の先生は、終了後の食事会……通称「なおらい」を行わない代わりに舞台を「幕の降りる本格的なところ」に設定して、安いけれども踊りがいのある会にしようとにしようと計画したらしい。上総もそれは正しい選択だと思う。息苦しい中での会食をするよりは目的を重視すべきだ。ただ、そうなるとバックの大道具やいろいろな準備を男手借りてやらなくてはならない。となると、どうしても自前で安上がりな「男手」がある程度必要となる。「おちうど」のただ食い程度で納まる相手を探すとなると、上総くらいしかいないのだそうだ。もちろん他にも声をかけるとのことなので、手伝いがひとりきりということはないだろう。小さい頃からこの業界の流れが見えていて、雪を降らせる場面では天井に上がって籠を揺らしたりとか、舞台をこしらえたりとか、命令されてすぐにピンとくる相手はなかなかいないのだそうだ。上総に白羽の矢が立ったのはそのためだ。
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