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青潟大学附属シリーズ中学編
3
前もって準備することはとりたててなかった。いつも、当日の朝に「おはようございます」と挨拶をし、志遠流のお師匠様に頭を下げる。小さい座敷だったら母にこきつかわれつつお菓子を入れたりお茶の準備をしたり、机を並べたり、壊れた小道具などを直したり。舞台が始まれば脇で曲のテープを止めたり入れたりするくらいのことだ。
だが今回は、ゆかたざらいとはいえ、少しばかり大掛かりらしい。約束の朝八時に上総が到着した時には、見慣れた顔のご婦人、および母がゆったりと缶コーヒーを飲んでいた。
「上総、あんた遅いわよ。なに寝坊してたの」
「だって、八時だって言ってただろ」
「ばかね、一時間前だって早すぎることはないのよ。この世界はね」
──嘘つけ。この前の初ざらいの時は、言われた通り二時間前について、三時間雪の中で待たされたじゃないか。
この人に文句を言ってもしかたがないので、まずは白地に紺の模様を染め抜いているけれどもゆかたではない、一番奥に座ってらっしゃる方に頭を下げた。志遠流の一番偉い先生である。小さい頃から、「かずさくん、かずさくん」と可愛がってくれていたことは覚えている。でもあまり話らしいことをしたことはない。めったに食べられないどらやきや大福をもらって幸せな気持ちになったくらいだ。
「上総くん、ほんっとうに大きくなったわねえ。沙名子さん、私たちも歳を取るわよねえ」
──それは本当にそう思う。
正座して、両手をついて決り文句を唱えた。
「本日はおめでとうございます。どうか宜しくお願いします」
なにがおめでたいのか、今ひとつわからないのだけれども、この世界では挨拶のパターンである。
「図体ばかり大きくなってもまだまだ、あの泣き虫のまんまですからね。遠慮なく、こき使ってくださいね。先生、本当にこの子馬鹿なのか天才なのかわからないところがありますから」
──だからこういう場は嫌いなんだよ。
男性陣はいなかった。結局、上総ひとりで十分だという判断となったらしい。会場が広いだけで、会場の担当の人も手伝ってくれるということだという。上総が手を出さねばならないのは、まず「所作台」と呼ばれる板を舞台に敷くことだ。日舞の場合、すり足で歩いたり同じ場所で一二度足を交互に滑らせたりするので、動きやすいようにワックスのかかった床に敷きかえる。
もともとの舞台に乗せていくだけなので、手間ではない。でも女手では苦労する。
母にせっつかれてすぐに舞台の袖に向かった。黒いジャージ姿の男性がふたり、ジュースを飲みながらだべっていた。上総に気づくとすぐ、
「あ、本日はどうも」
と頭を下げてくれた。男性の場合自分がかなり年下であっても礼儀正しく接してくれることが多い。手伝いの時に男性からガキ扱いされたことはない。どうして女性は上総の顔を見るなり、ああも「泣き虫だったのに」とか「お母さんがいなくて淋しがってたでしょ」とか、プライド傷つけることを平気で言うのだろう。
「どれからやればいいですか」
「じゃあ、板の間からやりやしょうか!」
ぐっとのびをして、男性ふたりは上総に、天井近くまで重ねられている板を指差した。
「踊る場所だけでいいでしょう。じゃあやりましょう」
上から板を下ろしてくれるので、、もう一人の人とふたりして並べていく。言われた通りにしていけばいいので、楽だ。指をうっかり挟まないように息を整える必要はあるけれども、いつものことだ。慣れている。評議委員会での活動でもよくきたえられている。照明がてかてかついているけれども客席の方は薄暗い。確か三百人くらい入るホールだと聞いている。椅子は黒っぽい赤。真っ正面には照明用のガラス張りコーナーが位置している。ちょうど上総たちが仕事をしている姿が、ビデオカメラのようにくっきり、映っている。
──踊っている人は面白いだろうなあ。
──鏡みたいに見られるんだな。
額の汗をぬぐって、一通り男としての仕事を終わらせた。またしまう時に手伝うことを約束し、ロビーに出た。まだまだ序の口だ。
「上総、ちょっとお願い」
その通り。母の声で呼ばれた。ベージュのスーツ姿で、手帳を開いている。
「その辺のコンビニで、ジュースとお菓子を買ってきてくれない? お金がないんであんた立て替えておいて」
「俺だってそんな持ってないよ」
「嘘おっしゃい。お父さんから聞いたわよ。昨日少し多めにこづかいやっておいたって」
──いったい何考えているんだ。
「じゃあ、あとで返してもらえるんだ」
「それだけのことをしてればね」
まだロビーにはふたりだけしかいない。椅子を蹴り飛ばしたいところだが耐えた。
「わかった。メモする」
「みんな好みがうるさいのよねえ。まず、うちの先生はここのメーカーの抹茶ね。絶対メーカー間違えちゃ駄目よ。あとそれから、そうそう今日いらしてくださるこの先生は糖尿だからあまり甘いものがだめなのよ。ウーロンを二本、ペットボトルで買ってきてよ。あとね、若い子たちはやはり炭酸かしら。五本くらい。お菓子はそうねえ、ポテトチップスとか」
──父さん、もしかしてそれを見越して。
寝る前、父に多めに握らされたのには驚いた。
「上総にしばらく、こずかいやってなかったな。少し遊んできなさい」
それほど無駄遣いするほうでもないから、夏休み終りの宿泊研修用にとって置こうと思っていたやさきだった。母の性格を良く理解している父。あなたは偉い。
「わかった、あと紙コップは」
「ありがと、それもお願いね。多めにね」
「でも余ったらどうするんだよ」
当然のように答えた。
「あたりまえでしょう、私が持ってかえるの。その時は手伝ってよ、上総」
まだ、お弟子さんたちが揃うまでには三十分くらい間がある。女性の方が揃い始めたら着替えとかなんとかで楽屋には出入りしづらくなる。早めに片付けよう。泣く泣く外に出た。すれ違いで同い年の女子や、家族、また小道具用の藤の枝、羽子板を運ぶ人に頭を下げ、まずは近隣のコンビニを探した。空気が熱くめまいがする。どうか、自分が倒れないように。できればある程度こづかいを補填してもらえるように。祈るのみだ。
4
すぐにコンビニは見つかった。メモ書きどおり買い込み、ついでに自分の飲む分の珈琲缶も加えた。もちろんレシートはしっかりもらった。あとで母に請求だ。
背中まで汗びっしょりになっているのが分かる。天気が良すぎる。浴衣姿で歩いたらさぞや気持ちいいだろうが、制服姿でネクタイまで締めてきた上総には拷問だった。袋を両手にぶらさげて会場に戻り、まずは楽屋に向かった。
すでに楽屋入りしているのは、五歳前後の女の子とそのご両親だった。子どもははしゃぎっぱなし。畳の上を下着姿で走り回っている。お菓子がほしいとねだっては母親から口に入れてもらい、、捕まえられては汗を拭いてもらっている。遠めから見ると厚紙を広げているように見えるおろしたての浴衣。ばりばり言うのが聞こえそうだ。
「ほら、あんまり走ると汗かくよ」
叱りつけつつ、取り押さえて羽織らせていた。
反対側には、十歳くらいの姉妹が足袋をはくのに格闘していた。サンダルで楽屋入りしたから、足がべとついているんだろう。すべりが悪いに違いない。この二人も親が出てきて、「よいっしょ、よいっしょ」と片方ずつはかせてあげていた。
夏とはいえ、舞台では足袋を履くのがお約束だ。暑いからいやなんだろう。
明らかに女性主体の場所だけに、お父さんは居場所がなくなり困っている。そういうものだ。上総も密かに同情し、母のいる湯沸場に向かった。一通り置いて指示を待つ方がいいだろう。
廊下に出てふりむくと、親子連れがうろうろしていた。
「早く入りなさいよ。なにまたわけのわからないこと言ってるの」
「私踊りたくない」
「そんなわがまま、いいかげんになさい」
見ると、上総と同じくらいの年頃の少女が、母親らしき人に口を尖らせつつ、軽く足をくねらせいていた。短めの白いひだスカートに、肩をほんの少し覆うようなTシャツ。雰囲気は、
──チアガール、ってとこか。
ポニーテールにした長髪。結び目が高い。
上総よりほんの少し、背が高い印象あり。
──俺のほうが負けてるな。
最近、背丈で自分との距離感を計るくせがついてしまった。情けない。
母親らしき人が手に大きな紙袋を持っている。抱えるほどではないけれど、ぐしゃぐしゃになったら大変そうなものだった。その子は手ぶらだ。いかにも、いやいやというしぐさだった。下に置いてからあけようとしていたので、上総はすばやく小指で開いてやった。苦労してる、なれている。こういうのは。
「ありがとうございます、本日も宜しくお願いします」
口癖なのだろう。お約束なのだろう。笑顔をこしらえて母親らしき人とチアガールの彼女は入って行った。ぺこりと、頭を下げて、チアガール風の少女も上総の顔を見た。ふと、上総の襟元をちらっとみて、はっとした風に目をそらした。
──なんか、俺も妙な顔、してたかな。
誤解されるのはいつものことだ。深く考えない。なにはともあれ母を捕まえて、
「どこに荷物を置けばいいんだ。一体何をすればいいんだ」
と問い詰めなくてはならない。持ち手が伸びきったビニール袋をぶら下げ直し、上総は湯沸場へ向かった。
「ありがとね。そろそろ若い子たちが着替える頃だし、私もうちの先生のところで少し話したいし、上総、あんたも来なさい」
浴衣姿の女性がふたり、茶碗を洗っていた。茶渋をこするのに必死という感じだ。すでにお茶の準備は整っているらしい。年齢序列の世界だ。母は完全に古株である。指示するだけだ。
「じゃ、私は先生のところにいるわ。よろしくね」
と言い残した。上総が頭を下げると、笑みを残さずに困った顔で返礼した。たぶん、上総のことを知らない大学生くらいの人たちだろう。
楽屋の奥はまずいということで、一番偉い先生の好むメーカーの茶を持ち、母に連れられて部屋に入った。すでに、着替えを終えたお弟子さんたちが入れ替わり立ち代り、ふくさに封筒を包んで
「ありがとうございます。どうかこれからも宜しくお願いします」
と、頭を下げて去っていった。
「それはそれはご丁寧に」
と挨拶し受け取る先生。その封筒を、母が受け取りすぐに、箱にしまう。上総も隣りで黙って正座しているしかない。クーラーが一応入っているはずなのだが、お弟子さんの出入りが激しいので熱い空気がもわっとくる。
「沙名子さん、いつもありがとうねえ」
「私も本当は、踊りたいんですけどね、なかなか」
「細く、長くでもいいから、続けていけば」
ちらっと上総の方を見る母。
「ちゃんと計画は立ててますよ。先生。この子が大学を順調に卒業したとして、九年くらいかかりますよね。せっかく青大附属なんかに入れてるんだからそれなりの仕事についてもらわなくちゃ困りますし、うまく就職してもらえたらその時は」
背筋が寒くなる一言だ。
「上総に全部費用だしてもらって、私名披露目やるつもりなんですよ。これが、今の私の夢」
──この人、本当に親かよ。
無表情をつくろうのがやっとだった。
「そうねえ、九年ってあっと言う間だもんねえ」
「そうそう。私もやりたいことは全部やらないと気がすまないたちですからね」
──じゃあ自分で金出して好きなようにやれよ。
母が子どもの頃から「志遠流」で腕を磨いてきたらしいことは聞いている。父と結婚することにより、日舞を始め全ての習いものをやめざるを得なかったとも。父との離婚理由は上総もよく理解していないが、たぶん「日本伝統芸能をわがまま一杯に極めたいからよけいなことは忘れたい」というところが大きいのでは、と思っている。別に、上総も母に干渉されるのは小学校時代だけで十分、こりごりだと考えていたところあるし、月一回の家族団欒も多すぎると思う。
──やりたいことやるならそれでいいけどさ、自分で勝手にやってろよ。
母が踊っている姿は見たことがない。自分で「私はすごいのよ」と平気で言っていれば世話ないもんだ。たぶん志遠流の先生が母をひいきにしているのは押しの強さに負けたからではないだろうか。
──女に生まれなくてよかった。
上総はもう一度つぶやいた。
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「では、先生、あと上総もちゃんと見ててね。今いただいたのを全部数えますから」
全員が着替えに没頭しているのを確認してきてから、母は箱をそっと開いた。他にも流派の先生が数人いらしているようすだが、いつものこととそれほど驚いてもいない様子。上総がペットボトルからお茶を注ぐと、美味しそうに飲み干した。おかわりはいらないようだ。
「二十人、ね。先生、確かに確認しましたからね。では、こちら全部預かっておきますからね」
「いつもありがとう、沙名子さん」
「御礼」と書いて、下に自分の名前を筆で記入する。ふつうのお祝い袋とは違う。横に鞭のようなマークのついた封筒だ。本物の和紙で、中には「志遠」と苗字が続く人もいる。名取になると、踊る時に志遠なにがしと名乗ることができるのだそうだ。
「じゃあ、上総、あんた、大道具の手伝いするでしょ。上手の袖にいって待ってなさい。あ、そうそう、先生雑巾その辺にあります?」
「ないわあ」
「しょうがないわねえ。じゃあ上総、私のかばんから手ぬぐいを出してちょうだい。それをぬらして、四つ折にして踊り間の下にしいておいて。もう、床が滑りやすいから転んだら大変よ」
言われた通り、かなり黄ばんだ日本手ぬぐいをひっぱりだし、男性用トイレに向かった。すぐにぬらして言われた通り袖に置いておいた。もちろん堅く絞って、四つ折にして。舞台に上がる直前に足袋の裏をぬらしておくと、すべり過ぎず、転ばないのだそうだ。
「上総くん、今何年生?」
顔見知りのお弟子さんが笑顔で話し掛けてきた。見たところ四十歳前後、母とは姉妹弟子にあたる人だ。曲の入ったカセットテープをそれぞれのお弟子さんから預かって、巻き戻しをしているところだった。
「はい、中学二年です」
「本当に、お兄さんになったわねえ」
──やりづらいなあ。
曖昧に答える。全く上総のことを知らない女性たちに頭を下げるのもきまづいが、それ以上に「泣き虫でなにかあるとお母さんから離れなかった上総くん」を知っている人たちの前では何も言い返せない。あの頃の自分を一気に重ね撮りで消去してしまいたいと思う。恥ずかしい過去だ。
「青大附属でしょう。あそこ勉強大変でしょう?」
「ええ、少し」
母が上総を青大附属に叩き込むに当たってどれだけ苦労したか、みな聞かされているんだろう。あのぼーっとした上総をどうやって仕込んだのか、ずいぶん後で聞かれたという。母曰く。
「けっこう知り合いで受けた子多かったんだけどねえ、なかなか入らないって。上総くんは成績もいいらしいしねえ」
──絶対、見栄張ってるよ、あの人。
知り合いに青大附中の関係者がいたら、一発で上総の成績が青息吐息かばれるのに。母はたぶん、上総がそれなりの成績を収めていることにしているんだろう。
「まあ、沙名子さんも本当に、自慢の息子さんだっておっしゃってたわよ。上総くん、お母さんに心配かけるようなこと、しちゃだめよ」
──どこまでいってるんだか、あの人は。
月一回家の中を見て廻り、
「上総、あんたどうしてお雛様を反対側に飾ってるの! こんな所に壇をこしらえたら、毛氈が焼けてしまって使い物にならなくなるでしょ! 全くあんたって馬鹿なんだから! それから和也くん! あんたもあんたよ。どうしてこうもセンスのない飾り方ができるわけ? 全く立村家の男は、軟弱なんだから!」
とヒステリックに騒ぎ立てる母。
父も慣れたもので、
「悪かった。俺の教育が悪かった。ほら、上総も謝れ」
と機嫌を取り結ぶ。納得いかないのは上総の方なので、決して頭を下げたりしない。言い返す。中学に入ってからは母と離れたこともあり、徹底して母と言い合うことに徹している。となると
「上総、あんたは泣き虫でどうしようもない怖がりだったくせに、よくもまあそんなこといえるわねえ。いい? あんたみたいな軟弱な子に……」
──じゃあそんな軟弱な子をひっぱりだして、あれやこれやさせることないだろ。
いつも言いたいことをがまんする。でも母の顔を見ると思いっきり怒鳴りたくなる。がまんしすぎるのは身体によくないので、最近は顔を合わせるなり、きちんと自己主張することにしている。
心配なんて、することきっとないだろう。あの人は。
お弟子さんたちが浴衣に着替え、幕の閉じた中でそれぞれ思い思いのポーズを取っていた。主に場所をチェックするのだそうだ。稽古場が狭いので、広い舞台だと感覚が掴みづらいのだそうだ。上総の敷いた手ぬぐいの上で二回ほど足踏みし、所作台に上がる。袖を掴んでぶつふりをしたり、同じ場所で、いち、にと足をすべらせたり。中には後ろ足蹴って走る人もいる。ほとんどが年配の方だがさっきすっぱだかになっていた小さい子が、お母さんと一緒に、
「ほら、おうちで上手にできたでしょ、やってみなさい」
と言い聞かせられ、素直に袖をぱたぱたふるわせたりしている。
眺めていると結構面白い。
白地に紺の染め抜き、カッターで傷をつけたような線の入り方、間に紋らしきものが入っている。みなおそろいだ。浴衣とはそういうものだと思っていた。青大附中に入ってたまたま、女子だけ浴衣を着て集まる盆踊りの会が開かれた時は驚いたものだった。みな、地の色からして華やかなものばかり。美里も黄色に赤の花柄模様を着てきたことを、良く覚えている。
──こうやってみると、やっぱり、地味だよな。
見るともなしに観察していた。後ろの机に小道具を並べはじめている人もいる。
扇子、うちわ、手で振る鈴、ちょうちん、杵と臼、いろいろだ。
「ほら、早く立ち位置だけチェックしときなさい!」
叱り付ける声が聞こえた。後ろの通路から、言い合いしている様子だ。
「そんなのいいの」
「よくないわよ。あんたこれが大きい舞台はじめてなんだから」
お母さんだろうか。上総はテープをまとめてある机に身を寄せた。そっとすわり、身体を隠した。声は聞き覚えある。確か、戸を開けてあげたチアガールの親子だ。上総には気づかないのだろう。大股でさっさと通り過ぎた。ポニーテールが襟足にぶつかるくらい長く揺れている。お母さんらしい人が必死に帯の下、はみ出た部分をひっぱっている。
「うるさいからやめてよ!」
「だってみっともないじゃないの」
「いいの、もういや」
背が高くてほっそり型。浴衣に金色の帯をちょうちょ結びにしている。若竹のような少女、という表現がふさわしい。
「もう、あんたって子は!」
文句をいいつつも娘の襟足やら裾を触っては振り払われる。そりゃそうだろう。うるさいだろう。
「ごめんなさい、ちょっとだけお稽古させてくださいね」
お母さんが必死に頭を下げて、場所をつくってもらっているが、チアガールの彼女はずっとそっぽを向いている。お弟子さんたちには無表情ながら頭を下げているけれども、母親の顔をうっとおしげににらみつけ、
「じゃあ、さっさと居なくなってよ!」
とささやいている。本人は聞こえないと思っているのだろうが、ちょうど幕の陰に上総が立っていたので丸聞こえだった。
「ほら、杵と臼も」
「そんなのいらないってば!」
こういう女性に最初、上総は疑いをかける。
──生理日なんだろうか。
もちろん美里を始めとする女子一同には一言も言えはしない。
ただ、精神的にナーバスで、ご機嫌わるくて、八つ当たりするなんてことになったら、大抵ひとつに絞られるだろう。永年母と付き合ってきた父から教えられた唯一の性教育。
「女性に振り回されないようにうまく立ち回ること、そのためには」
女性の「生理」とは、ご機嫌を取り結ばねばならない日。だから正確に覚えて置くように。上総の認識は、たぶん父も知らないだろうが、そうだった。
「そろそろ開演ですから、みなさん、客席にみんなついてくださいな。先生の踊りをみんなで見ましょうね」
年かさのお弟子さんが声をかけている。母がいつのまにか袖に来ている。む、と口をひん曲げて怒鳴った。
「ほら、さっさと行きなさい! 時間どおりに始めるわよ。あ、上総、あんたはここに居なさい。屏風出してもらうから」
最初の「松の緑」は飾りのない屏風をふたりがかりで広げるだけですんだ。評議委員会で鍛えられた腕力で、なんとか持たせた。
「次も段物だから、屏風のままでいいわ。次がね、『関の小万』と『花くらべ』ね。さっきのちびちゃん、五歳なのに早いわねえ。で、次が『かつを売り』、あとは……」
要は言われた通りに背景用の板をひっぱりだせばいいってことだ。
「わかった。だいたい見当つく」
「お願いよ。まあ、他の人もいるから大丈夫だと思うけど」
少なくとも「元禄花見踊」の時に「幻お七」用の雪背景を出さない程度に常識は持っているつもりだ。
背中ごしにトランシーバーで、照明係の人たちへ指示を出している母は、とってもだが「生理日」でヒステリーを起こしている同一人物とは思えなかった。女は、化け物だ。