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★ 永遠の海

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芙蓉 雅 作
■──6
──■




僕はその夜、なかなか寝つくことができなかった。家へ帰ってか ら気もそぞろに夕飯を食べ、部屋に閉じこもってマリエのことを考 え続け、さらにベッドの中でまどろみながら、夢の中でなんとかマ リエに会えはしないかと模索する始末だった。しかもこの夜、僕の 夢の中に現れたのはマリエではなく夏川だった。学制服を着ている 彼は、生前と同じくお調子者の道化師を教室内で気どっており、僕 はそんな彼に対して相変わらず冷淡な侮蔑の眼差しを送っている、 といったような内容の夢だった。僕の乏しい記憶力の覚えているか ぎりでは、夏川優が僕の夢に登場したのは、この夜が初めてだ。
 朝目が覚めて「何故よりにもよって夏川が……」と顔をしかめな がら僕は目覚まし時計を止めた。そしてこれはもしかしたら良心の 呵責とかいうやつなのかもしれないな、などと自己反省気味の頭で 登校し、2−Dの教室へと足を踏み入れた――マリエの姿を一瞬胸 に思い描いただけで、心臓が打ち震えるのを感じる。
(知らないふり、知らないふり)
 そう繰り返し自分に言い聞かせながらも、僕は盗み見るかのよう な視線で教室全体を見渡した。ちょっとした意味のある眼差しをか わすくらいなら、許されるだろうと思ったからだ。
 僕は遅刻の常習犯とまではいかないまでも、本鈴の鳴るぎりぎり の際どい時間帯に教室へ飛びこむことが多い。我が聖城高校では遅 刻三回で一日の欠席とみなされるのだが、その計算でいくと僕は一 体これまでに何日欠席したことになるのだろうか……まあ先生方が とても寛容で、見逃してもらえる場合がほとんどではあったけれど。  2−Dの教室の窓際の席に僕は腰を下ろし、鞄を机の横にかけた。 僕の座席は一番後ろの席だったから、その対角線上にある橘美樹の 席にマリエはいるのではないかと予想されたが、僕の勘は的を見事 に外してしまった。橘美樹の席には橘美樹ひとりしかおらず、マリ エの席には誰も座ってはいなかった。本鈴も鳴り終わっているのに 変だな、と思った。けれどもマリエがもし厚岸からの電車かバスに 一本乗り遅れたのだとしたら、それは間違いなく遅刻となるわけで ――釧路へのバス及び電車の便は決して多いとはいえないから―― 僕はこの時マリエの不在をそれほど深刻に考えたりはしなかった。 ただ、始業式当日に何故下宿からではなく、わざわざ実家から登校 するのだろうとは思っていて、きのうプールで泳いでいる時に、そ う彼女に聞いてもいた。
「ちょっとね、実家のほうで家族会議が開かれることになってるの」
 微かに塩酸の匂いのするプールの中へ飛びこむと、マリエは水泳 選手のような速さであっという間に端まで泳ぎきっていた。僕も遅 れて飛びこんだが、はっきりいってその差がなくても勝ち目はなか っただろう。
「母親がね、妊娠しちゃったんだけど、何しろうちは貧乏でしょう? 出産するにしても中絶するにしても色々とお金がかかるし、親戚か ら一時的に用立ててもらおうってわけなのよ。まったく恥かしい話 よね。親子四人が川の字状態で毎晩寝てるっていうのに、いつのま にやったのかって感じよ」
 マリエが水の中から顔を上げ、他人ごとみたいに笑っていたのを 思いだす。それで僕はもしかしたらその親族会議が思った以上に長 引いてしまって、朝寝坊でもしてしまったんじゃないかな、なんて この時思っていたんだ。
 僕はこの夏、史上最悪といってもいいくらい友達づきあいが悪か ったにも関わらず、福島と秀川はきのうの電話で宿題を写させてや ってもよいと、快く引き受けてくれていた。まあちょっとした駆け 引きはあったものの、カラオケとマックを二人分奢ればよいのであ るから、受けるメリットは僕のほうが遥かに大きいといっていい。
「おまえ、いつ電話してもいないんだもんな。どこかに長期で旅行 にでも行ったのかと思ったよ」
 英語のワークノートに長文理解の解答を手早く書きこんでいる僕 を、机の上から福島が見下ろしながら言う。何しろもうとっくの昔 に本鈴が鳴り終わっているので、彼の言葉に答えている余裕など、 今の僕にはない。
「なあ、フックと秀川にカラオケとマックおごるって本当か!?だっ たら俺のも写させてやるから……」
 佐々木が言い終わる前に、僕は彼に現国と古文のプリントを手渡 していた。
「秀川のを写してくれ。そしたら奢ってやるから」
 我が母校の夏休みにおける宿題の量というのは半端ではない。来 年のお受験に備えて、との名目の元に宿題がでないのは体育と美術 と家庭科と音楽くらいなものだった。出された課題が二学期の成績 に関わるものすらすでにあるので、未提出ということになると中間 と期末のテストでかなりの点数を稼がねばならないことになる。
 僕はなかなか始業式の開始を告げる放送が流れてこないのをいい ことに、ほとんど自動手記状態で右の手指を動かし続けた。
「それにしても遅くないか?」
 ずっと黙って僕の宿題を手伝ってくれていた秀川が、ぽつりと呟 くように言った。それで僕はふと、黒板の上、スピーカーの横にあ る時計に、一瞬目を走らせた。九時三十分。確かに僕にとってはラ ッキーなことではあったけど、流石に少しばかり不審な感じはした。  今日から館山先生が担任として復帰する予定らしいのだが、教室 には最も有力な説として「ルパン再入院説」が飛びかい、先生の再 起不能を危ぶむ声までが上がっていた。
「今朝、職員玄関のそばで先生見かけたんだけどさー、よくムチウ チの人なんかが首のまわりにつけてる装具あるじゃない?アレつけ てたんだよねー、超ヤバくない?」
「ヘルニアの次はムチウチ!?ついてないよねー、プレスリーも。そ のうち奥さんの不二子さんからも見捨てられたりして……」
 館山先生の奥さんは、正確には美根子さんという。まあそんなこ とはどうでもいいとして、教室内に「プレスリー離婚危機説」がど こからともなく浮上した頃、ようやくモミアゲは教壇に立った。首 を固定するための装具を着けての担任復帰だった。
 副担の飯塚先生は、後ろの黒板のほうにいつもと同じ暗い表情で 突っ立っていたけど、館山先生は見るからに沈鬱な面差しで、机の 上に手をついていた。それでみんなも流石に先生の病状が心配にな り、誰もが静かに自分の席へと着席していった。
「せんせえ、大丈夫ですかー?」
 一番前の席の女子がそう呼びかけると、なんとルパンは目頭を押 さえて、オイオイと泣きだしてしまった。一度は静かになった教室 が、再び騒然となる。
「……山田が……亡くなったそうだ。朝の早い時刻に崖から飛び降 りて、海に……」
 先生の声は、無理に絞りだすかのように押し殺されたものだった から、僕たちは先生の言葉の内容を組み立て直すのに、数瞬間の時 を要した。そしてクラス中の生徒がうつむくか、隣の人間と顔を見 合わせるかしている中で、僕だけが机を倒す勢いで椅子から立ち上 がってしまい、皆の注目を一瞬だけ一身に浴びることになった。僕 はそのあと信じられない思いで力なく椅子に座り直し、現実感とい うものが体内から四散していくのを強く感じた。
(マリエが死んだ……?いや、そんなはずはない。自殺だなんて、 そんなことは絶対にありえない。だってきのうはあんなに……)
 教室内からは早速といわんばかりに忍び泣きや啜り泣きの声が洩 れはじめていたけど、僕には何故みんながそうもあっさり〈死〉と いう言葉だけの事実を認めることができるのか、不思議で仕様がな かった。

 「死」。
 「死」。
 「死」。

 死ぬ、ということ――それがどんなことなのか、僕にはわからな い。
 息をしていないということ、心臓が動いていないということ、ま ばたきをもう二度とは繰り返さないだろうということ……あのマリ エの美しい肢体が氷のように冷たくなって、どんなぬくもりもあた たかみも受け入れられないということ……僕はそんなことを信じる わけにはいかなかった。
 生命が失われる、損なわれる、奪われる……そんなことは透明な ガラス一枚を隔てた向こうの世界の出来ごとで、気がついたら自分 もそちら側にいたなんていうことは、僕には――いや、僕らには決 してあってはならないことだったのだ。
 体育館に全生徒が学年ごと、クラスごとに整列し終わると、まず 最初に〈校長先生のお話〉があった。
「夏休みの始めと終わりに、大変残念な出来ごとが起きてしまいま した……私の長い教員生活の中でもこれほど悲しくつらい出来ごと は他になかっただろうというくらいのことです……」
 僕は文字どおり棒のように立ちつくして、校長先生の哀悼の言葉 をいつになく真剣に聞き入っていた。校長は沈痛な面持ちで登壇す ると、机上に重々しく両手をついて「大変残念な」とまず初めに言 ったけれど、僕は校長が本当に残念だと思っているのかどうか、あ やしいもんだと思っていた。何しろ僕は夏川が死んだと聞かされた 時、ちっとも残念だなどとは思わなかったからだ。もちろん喜んだ わけでも「そりゃよかった」と皮肉めいたことを思ったわけでもな いが、〈自分には関係のない〉ことと、切り離して考えていたのだ。  死とは無常なもの、とよく言うが、この無情の意味を僕が初めて 知ったのは、マリエの死によってだった。僕はこれ以後、「何故」 という疑問に長く患わされることになるが、それは一生完治するこ とのない病いにとてもよく似ていた。

 「何故」。
 「何故」。
 「何故」。

 本当に何故なのだろう……マリエは何故死を選びとらなくてはな らなかったのだろう。それも僕になんの相談もなく。
 校長の話がひととおり終わると、僕はマリエの〈死〉の経緯を知 ることになった。
 彼女は朝早く、いつもどおりに家を出、特別どこか変わったそぶ りなど、微塵も見受けられなかったと家族は語っていたという。遺 書というのもなかったのだそうだ。ただ学生服は下宿のほうに置い てあるため、一度そちらに寄ってから登校すると言い、始発の電車 に乗るために四時四十五分頃、家を出たらしい。随分早くに出かけ るな、とは母親も思ったのだが、何しろ漁師の生活の朝は早いもの だし、それほど不審にも思わなかったのだそうだ。
「家の手伝いをよくするいい子でした」とお母さんは涙ながらに電 話口で校長に話したらしい……僕が校長の話で一番ショックだった のは、マリエが夏川と同じあの断崖の上、僕がマリエと本当の意味 で知りあうことになったあの場所から身を投げた、という事実だっ た。
 僕は何故だか体育館の自分の立っている場所が、本来自分のいる べき場所ではないような、なんともいえないいたたまれない思いに 駆られて、同じ服を着てずらりと並んでいる生徒の群れから、無意 識のうちに抜けだしていた。教員の何人かが突っ立って塞いでいる 出口へ向けて歩きだす。
 保健婦が後ろから小走りに駆けてきて、「どこか具合が悪いの?」 と渡り廊下のところで声をかけた。まだ年若い保健婦は、僕が泣い ていることがわかるなり、はっと息を飲んだようだった。強引に僕 の手を引いて、保健室へと連れていく。
「……あなた、山田さんのことが好きだったのね」
 なんて無神経なことを言う保健婦だろう、僕はそう思いながらも、 しゃくりあげることしかできなかった。
「山田のことなんか、僕は本当はちっとも好きじゃなかった。夏川 のことだって大嫌いだったのに……それなのに……」
 水色のナイロンの張ってある衝立ての裏で、僕は思いきり泣いた。 保健婦の篠原先生が隣に腰掛けながら、さも「わかっている」とで も言いたげな、同情めいた眼差しを向けてくる。
 僕はこの時、篠原先生のそのような態度が悔しくて苛立たしくて、 どうにもたまらなくなっていた。何故なら僕がいかに理路整然と冷 静に話すことができたところで、先生の勘違いを正すことはできそ うにないからだ。僕は以前から美しい容姿の山田に片想いであり、 夏川に対して嫉妬の情を抱いていたと、そのようにしか先生には受 けとめられないだろう。
 僕は廊下のほうから生徒たちのどよめきやざわめきが聞こえるよ うになる頃、先生が貸してくれた水玉模様のハンカチを返して、お 礼を言った。
 篠原先生は「何か相談したいことがあったらいつでもいらっしゃ い」と年上ぶった言い方をしたけど、僕はこの一回りと年の離れて いない保健婦に何かを相談しようとは、卒業するまで一度も思うこ とはなかった。

 保健室で思いきり涙を流してすっとしたせいか、僕はクラスメイ トの誰もが喪中の雰囲気を身に纏う中で、わりにひとりだけ平然と していられたように思う。
「先生は悔しい」
 そう言って館山先生は説教の口火を切ったけれど、僕もまったく 同じ思いだった。
 泣く、という行為自体はマリエの厳然たる、犯すべかざる〈死〉 というものを認める象徴的な行為ではある。でも僕にはどうしても 実感というものが湧いてこなくて、少なくとも悲しいとだけは思え なかったのだ。
 館山先生は首を曲げられないという不自然な姿勢のまま、右腕で 両の目頭を押さえている。彼は演技やオーバーアクションというの では決してなしに、本当に本気で、教え子の死に心からの涙を流し ていた。
「夏川は終業式の終わった午後、先生の入院していた病院にきてな あ、こう言ったんだよ……『腕をつけ根から切り落とす覚悟はでき てます』って。『べつに大したことじゃない。今まで人ごとのよう に思っていたことが、自分の身にも降りかかってきたっていう、そ れだけのことです』ってそう言ったんだ。もちろん夏川が〈それだ け〉って言ったことがどれだけ重いことか、先生もわかってるつも りではあったんだよ。『病気からしか学べないこともある』って先 生はそんな説教じみた言葉しか言ってやることができなかったけど、 夏川は何もかもよくわかってるってそんな顔をして先生の話を聞い てたんだ。『先生も大変ですよね』って大人じみた表情をして…… それで最後に右手で握手を求めてきたんだよ。『次に学校で先生と 会う時には、左手しか残ってないと思うんで』ってどこか吹っきれ たような印象を先生は受けたけど、そうじゃなかったんだな。『夏 休み中に手術をして、病院に入院している間、自分の人生を俯瞰し てみようかと思ってるんです。先生も頑張ってください』なんて、 立ち去り際に言ってたけど、多分半分以上は本心じゃなかったんだ ろう……今にして思えば、多分夏川はもう心を固く定めていて、そ れでも最後の最期に〈生きる〉方向に傾く力を誰かから与えてほし かったんじゃないかと思うんだ。そういう言葉を先生はあいつにか けてやることができなかった……」
 先生のせいじゃないよ、と誰かが泣きじゃくりながら呟くと、そ れまでぎりぎりのところで堪えていた連中まで啜り泣くようになっ てきた。
 僕もかなり危ないところではあったけど、夏川などのために決し て泣いてなんかやるものかと、必死にこらえた。それに僕は自分の 教え子のためにみっともないまでに泣いてしまえる先生の姿に打た れたのであって、夏川の死に対して哀悼の意を表するような真似だ けは絶対にしたくなかった。
 館山先生はマリエの死に対しては「動機がはっきりとわかってい るわけではないが」と前置きしてからこう言った――恋人だった夏 川の死に引きずられたのではないか、と。ふたりは互いに深い間柄 にあったみたいだから……。
 この頃になると僕の心は冬の湖に張る氷よりも冷たくなり、また 不毛の大地のひび割れた表層のように乾ききっていたといっていい。  僕は初めてあることを悟っていた。
 マリエと僕のことを知っている者は誰ひとりとしていないし―― 映画館やプールにはよく行ったけど、知りあいに会ったことは一度 もなかったから――僕がマリエのことをどれほど愛していたか、知 っている人間は僕ひとりきりということになる。しかも夏川なんか よりも僕はマリエのことを深く愛しているにも関わらず、人々の記 憶の中に刻みこまれるのはマリエと夏川のツーショットなのだ。い や、人が記憶という名のアルバムをこれからどう処理するのかなん てことはどうでもいい。だがそう思いはしても、人々の脳裏に夏川 とマリエの仲睦まじい写真が永久に残るかもしれないと思うと―― 僕はそれを全部半分に引き裂いてやりたいという激しい衝動にから れた。
『夏川のことなんて今はどうだっていいの。アツシがそばにいてく れさえしたら、それだけで本当にいいの……』
 ――マリエ。君はもしかして嘘をついていた?それも選りすぐり の、一等残酷な、ひどい嘘を……。
『夏川の奴なんかよりも、アツシのことのほうがずっと好きよ』
 ――もしかして彼女は、ベッドの中でも嘘をついていた?
 そんなことにまで思い至ってしまい、僕は教室から飛びだしたい 衝動にかられたけど、どうしたわけか足が石膏で塗り固められたみ たいに動かなかった。まるで自分に与えられている机と椅子のある 空間に閉じこめられてしまったかのように――僕は自分の頭をくし ゃくしゃにすると、館山先生の説教を聞くとはなしに聞いていた。
 先生は夏川とマリエの死について語り終えると、三人目の生徒の 話をした。先生が教え子を失うのは山田で三人目になる、と先生は 言った。その子は館山先生が初めて担任を受け持ったクラスの女の 子で、学業成績が常にトップクラスの生徒だったという。性格も明 るく、いじめられているようなそぶりもまったく見受けられなかっ たのだが、ある日突然不登校になったのだそうだ。直接的な原因は クラスメイトのひとりに「デブ」と言われてからかわれたこと―― その女生徒は学校を休んでダイエットを始め、月に三十キロもの減 量に成功していたが、やがて体のほうが食べ物を受けつけないよう になり、最後には老衰に近いような形で亡くなったという。
「このことがどれほどのことか、おまえたちにわかるか」と先生は 言った。「人によってはたかが〈デブ〉と言われたくらいでと笑う 人もあるだろう。でも彼女が表面上は明るく振るまいながらも、そ の水面下でどれほど苦しんでいたか……それはきっと夏川や山田も 同じだったんじゃないかって、先生はそう思うんだ。ただ、もし月 に三十キロ痩せる努力をするんだったら……その強い意志と不屈の 忍耐力をもっと別の方向にぶつけていてくれたらって、先生はその ことが残念でならない。そのことを思うと、今もいたたまれない、 申し訳ない気持ちでいっぱいになるんだ」
 おまえら、努力する方向づけを間違えるなよ――館山先生は、僕 たちにそう言いたかったのだろう。断崖から飛び降りる勇気がある なら、生きていて恐れをなすことが、他に何かあるだろうか?  ……――マリエは、一体何が怖かったのだろう?
 夏川が〈死〉を選んだのは、僕にはなんとなくわかるような気が するのだ。片腕を失ってまでも生きのびたくはないという、あまり 誇り高いとはいえない奴の選択は、わからないでもない。けれども マリエは?彼女は何を恐れ、怯えていたのだろう?そして僕は何故 彼女から読みとることができなかったのだろう?……彼女がおそら く示していたに違いない〈死〉のサインを。

 僕は始業式の翌日、朝一番に厚岸行きのバスに乗った。
 バスの運転手はこの間のおじさんとは別の人で、僕は一番後ろの 座席に腰掛けると、変わりゆく車窓の景色をぼんやり眺めていた。 そして、きのう見た夢のことを思っていた。
 僕はきのうの夜、マリエの夢を見た。それはとても悲しい夢だっ た。
 彼女は白いワンピースを着ていて、赤い風船を手に持っていた。 そして海へと向かう道の途中、あまりにも強い風に吹かれて飛ばさ れてしまうのだ。
 マリエの体は地を離れ、まるでメアリーポピンズが傘で空を飛ん でいるかのように、風船の浮力によってどこまでも空高く舞い上っ てゆく。
 彼女の視線は断崖を見下ろし、そして海の煌めく青さという青さ を眼下におさめていた。マリエは最初に「あっ」というような驚き の表情を浮かべたあとは、ただただ不安げな、今にも恐怖にもみく ちゃにされそうなくらいの恐れに満ちた表情をしていて――彼女は いつ風船が割れて、真っ逆様に自分が墜ちていくのかと、不安で仕 様がなかったのだ。そしてふと、彼女の見つめる視界の端に、緑豊 かな島々が見えはじめた――果たしてあそこに辿り着くまで、風船 の空気は持つだろうか?突然割れてしまったり、一気にしぼんでし まったりしないだろうか?……マリエは祈るような気持ちで、風船 の糸を両手でしっかり掴み、やがて彼女の後ろ姿は島へ向かって風 に流されていった――……。
 夢はそこで終わった。
 夢の中の空の青さに溶けこんでいた僕の意識は、暗闇の中で目覚 めるなり、湿り気を感じとって驚いた。夢を見て泣きながら目覚め るだなんて、これが生まれて初めての経験だった。
 夢の中で風を吹かせていたのは紛れもない僕自身で、空の青さの 中に溶けこんでいた僕の意識は、マリエが無事向こうの緑あふれる 島へと辿り着けるよう、祈りながら風の吹く調子を整えていたのだ。  夢の中の出来ごとであったにも関わらず、僕はそのことが哀しく てたまらなかった。
 そして目覚めて夢の記憶を辿りながら分析していくと、学制服姿 の夏川が脳裏をよぎっていき、僕を不快な気持ちにさせた。
 もしかしたらあの鍵島――真ん中に鍵の形をした湖があることか ら、そう呼ばれているらしい――に夏川はいて、マリエが来るのを 待っているのではないかと、そんな気がしたのだ。そしてそう思い 至るなり僕は、ベッドの中で獰猛な獣のように暴れだしたい衝動に かられた。結局、朝一番の陽の光が部屋の中に射しこむまで、まん じりともできなかった。
 悲しみ――怒り――悔しさ……それらが渾然一体となって僕の身 内を焦がし、精神的な死の淵へと僕の意識を激しく追いやろうとし ていた。もっとも、自殺するための手段をどう講じたらよいかだと か、そんなことを具体的に考えていたわけではない。僕には自殺し ようなどという意志はまるでなかったし、ただ死ねない自分、生き ている自分という存在を腹立たしく疎ましく、忌わしく感じていた というそれだけだ。やれ生きるだの死ぬだのと、観念的なレベルで しか考えることのできない自分がたまらなくつらかった。
 マリエが僕に残していった喪失感というものは、この時の僕にと って永遠という時間をかけても埋められぬもののように感じられて いたし、無論、もし喪失感を感じている自分を消したいならば、そ れは死ぬしかなかっただろう。けれども僕は〈死〉という道を自分 に許したマリエのことがどうしても許せなかった――夏川の死は許 せても――だから、だからこそ、僕は生きながらえて証明してみせ なくてはならなかったのだ。
〈生きる〉ということは〈許す〉ということに他ならないというこ とを。

 バスは市街地の建物の群れの中を進みゆき、やがて人工物よりも 緑あふれる自然が道路の両脇を支配していくようになる――家々は 野原や林や山々を背にして建っているか、あるいは畑に囲まれてぽ つりと一軒建っているかのいずれかだった。あとは見渡すかぎりの 大草原や森林の間を、バスはゆっくりと移動していく。気の早いカ エデがもうはや紅葉しているのが時折見られたけど、こんなに悲し い夏の終わりを飾るもみじなど、すべて枯れてしまえばいいと僕は 思った。
 北海道弁と津軽弁と標準語の混ざりあった言葉を話すおばあさん は、今日はいつもの停留所にいなかった。当然のことながら、その お嫁さんも。毎日欠かさずお宮参りしているとのことだったけど、 もしかしたら祈り届かず、病気か何かで入院することになったのか もしれない……そんなことを心配しながら僕は厚岸駅でバスを降り、 厚岸海岸へと足を向けた。
 学校は今日から普通授業が始まることになっていたけど、当然の ことながらサボリである。僕の全身からは見事なまでに気力という ものが抜け落ちていて、鉛筆一本握ることすら、非常に困難な行為 だったからだ――というのは流石に少々オーバーな表現だが、確か にそれに近い危機的感情があったといっていい。否、感情という感 情が極限まで薄められていってしまいそうな恐怖ないし絶望感とい ったほうが正しいだろうか。まあどちらにせよ、この時の僕には自 分の状態というものが手に負いかねていて、何もかもを放りださず にはいられなかったのだ。
 べつに、マリエが身を投げた断崖へ向かったところで、何がどう なるといったわけでもない。実際、僕は崖の麓で地蔵なんかに手を 合わせている自分が哀れというか、滑稽にさえ思えていた。それで もそこに片足をつきながら、随分長いこと呆然と佇んでいただろう か……不意に人の気配を感じて振り返ると、そこに花束を抱えた少 女が突っ立っていた。 「場所、いいですか?」
 一瞬、その女の子がなんのことを言っているのかわからなかった。 それでも、反射的に少しだけ体をずらす。
 少女はとても背が高く、よく陽に焼けた浅黒い肌をしていて、濃 い眉毛と長い睫毛が強く印象に残る顔立ちをしていた。彼女はそこ らへんの野原で摘んできたらしいリンドウや野菊なんかを霊前に供 え、肉づきのよい手を合わせると、二三秒目を閉じて祈りを捧げて いた。そして僕に軽くお辞儀してから、砂浜にどこまでも足跡を残 して去っていった。
 直感的に妹だ、と僕は察していた。べつに彼女がマリエの言った とおりブスだったからではなく、それはもう本当に直感的な閃きに よってそう感じたのだ。もちろんわざわざマリエの家までいってそ のことを確かめたわけではなかったけど、おそらく間違いなかった のではないかと、僕は今もそう確信している。  僕は帰りの電車の中で、彼女に声をかけて色々な話をすべきだっ たかどうかと、考えあぐねていた。ただマリエが――家には絶対こ ないでね。恥かしいからあんまり家族とかにも会ってほしくないし ……と以前言っていたのを思いだし、僕はマリエとの約束を絶対に 破ったりなどするものかと、最後には自分の気持ちを納得させるこ とができた。だから僕はマリエの家でしめやかに行われたであろう 葬式に参列してさめざめと泣いたりなんかしなかったし、マリエと 自分との間にあったことは決して誰にも語ったりすまいと心に堅く 決意していた。
 ただ僕は、時々妄想の中で夢を見る。
 夏川の時と違って、僕は棺に横たわるマリエの死に顔を見ていな かったため、彼女がもしかしたらどこかの岸に辿り着いて、まだ生 きているかもしれない、そしていつかもう一度自分に会いにきてく れるかもしれない……というような、実現可能率が極めてゼロに近 い夢を捨てきれなかった。時には彼女が記憶を失くすかどうかして 自分に会いにこれないだけなのでは、とそんなことまで考えだす始 末で、僕は夢の国の住人のように、それから暫くの日々を妄想の檻 の中で過ごすことになる。

 僕は始業式の翌日から二週間ばかりずっと学校をさぼり続け、親 の声にも学校の声にも、友達の声にも耳を塞いで、毎日波の音を聴 くためだけに、足しげくマリエの眠る海へ通った。
 僕はそこでいたく幸福で、波間に輝く太陽の照り返しを眺めては、 水平線の呼び声に耳を澄ませていた――「アツシ!ここまできてく れたら、あたしと会えるわよ!」――もちろん妄想の呼び声だ。そ れはよくわかっている。でも僕はマリエの声を一体いつまで正確に はっきり覚えていられるだろう?確かにマリエがどのくらい綺麗な 娘だったか、僕は死ぬまで忘れないに違いない。だけど両の手で触 れた時の彼女の顔の輪郭や、体の柔らかい線を永遠に忘れずにいら れるかどうか、自分でも不安だった。
 いつまでも、いつまでも、いつまでも、マリエが今目の前にいる のと変わりないくらい同じく、彼女のことを覚えていたかった。け れどもその強い思いとは反対に、記憶はすり抜けるように少しずつ 遠のいていこうとしている。
 マリエ、マリエ、マリエ……
 僕は何度も心の中で、テレパシーのようにそう呼びかけては、彼 女からの応答を待っていた。しかし返ってきたのは意外にも夏川の 声で、僕は脳の思考回路に侵入を果たそうとする奴の言葉を、はっ きり言語化される前になんとかして追いだしたいように感じた。 「夏川っ!僕はおまえのことなんてどうだっていいんだっ。マリエ さえそばにいてくれたら、僕はおまえのことなんか……これっぽっ ちも……っ」
 断崖の上から海に向かって叫ぶ僕の姿は、おそらくひどく滑稽な ものだったに違いない。しかも夕暮れ時、水平線の彼方に真っ赤な 太陽が今にも燃え尽きんとしている時刻ときたもんだ。まるで昭和 三十年代の青くさいドラマのワンシーンみたいじゃないか。僕は自 分があんまり惨めで、哀れで……苦笑してから咽び泣きに暮れた。  そしてひとしきり大声で泣き叫んだあと、崖下へと降りていった のだが、地蔵の前には手を合わせているひとりの老婆の姿があった。 僕は人目で海女とわかる格好をしているババアの目の前で、何故だ か地蔵を蹴り倒してやりたいような衝動にかられた。
(こんなものを拝んだところで、なんのご利益があるものか)
 そう思いながら鼻をすすっていると、老婆は海に背を向けようと した僕に、おもむろにこう口を開いた。
「もし、あんた、あれかい?マリエちゃんのお友達なのかい?」
 僕はこの時「はあ、まあ、そんなところです」というような、は っきりしない声でもごもご答えた。何しろ崖の上での青春の叫びを 聞かれていたに違いないと、ひどく恥じ入っていたからだ。
「マリエちゃんねえ、高校を卒業したら結婚することに決まってい たのにねえ。こんなことになって……それというのも全部あのバカ 親父の借金のせいだっていうんだから、可哀想なことだよ。今時身 売り同然に、三十以上も歳の離れた男に嫁ぐ娘がいるもんかね。周 りの人間がもっとどうにかしてやってりゃあ、あの娘も死にはしな かっただろうに……」
 まるきり初耳の話だった。そして老婆は呆然とした様子の僕にま るで気づかないまま、さらにこう続けた。
 ――あの博打狂いの親父が、闇金融をやってる高知のとこで賭け マージャンに負けたのさ。なんでも、このマージャンで勝ったら借 金は帳消し、負けたら可愛い娘を自分の息子の嫁にって条件だった らしいんだけどね、高知の奴、本当はハナからマリエちゃんを自分 の後添いにするつもりだったのさ。まったく呆れてものがいえない よ。可哀想にねえ、あんなに可愛かった娘が、十六やそこらで死ん じまうなんて……本当に気の毒なことをしたよ。事情を知ってる連 中はみんな、口を揃えてこう言ってるよ。マリエちゃんじゃなく、 あのろくでなしが首でも括って死んでりゃよかったんだって。何し ろ酔っ払わなきゃ女房の顔ひとつまともに見れない男なんだからね……  僕は愕然たる思いで、皺くちゃの老婆の顔を見返していた。
 今は平成の世だというにも関わらず、そんな馬鹿げた話ってある だろうか?賭けマージャンで娘を身売りだと?ふざけるなと言って やりたい。それから目の前にいる老婆にも腹が立って仕様がなかっ た。何故こんなに大切な話を、軽々しく通りすがりの人間に話して 聞かせたりするのか、そのあまりの無神経さかげんに怒りを覚えた。  僕は老婆を絞め殺してやりたい衝動をかろうじて堪えると、太陽 が沈んだ方角、その残滓を留める紅を一瞬だけ眺め、砂浜を踏みし めた。泣きながら走り続けたため、スニーカーの中に砂がいいだけ 入ってきたけど、僕はそのままの足で電車に乗り、デッキの隅で忍 び泣きを洩らした。
 ――どうして何も、一言も話してくれなかったんだ、マリエ……  まるで胸を絞られてでもいるかのように、涙が溢れてとまらなか った。このまま電車から飛び降りて死んでしまいたい、この世から 自分という存在を消し去ってしまいたいとさえ思った。  どうしてなんだ、マリエ。どうして、どうして、どうして独りき りで死んでしまおうなんて思ったんだ。そんなコウチなんていう奴、 どうだってよかったじゃないか。それとも僕のことが信頼できなか ったのか?そんなことを話したら、僕が君を見捨てて離れ去ってし まうとでも思ったのかよ?本当に君は、そんなくだらないことのた めに死を選んだのか?違う……そうじゃない。決してそれだけじゃ ないだろう、マリエ……
 その時、涙に咽ぶ僕の眼窩に夏川の顔が一瞬閃き、そして消えた。 と同時に、僕の涙も潮が引いたみたいに目の奥へと収まってゆき、 頬を濡らしていたものはただの乾いた結晶へと変わった。
 夏川のことがたまらなく憎らしかった。
 マリエの死は夏川の死と切り離して考えることは絶対にできない ことだったから、僕はその事実が恨めしくて仕様がなかった。マリ エがもし夏川の野郎なんかのために死を選んだというのなら、僕は 奴を墓の中から甦らせ、絞め殺してからもう一度黄泉の国へ下らせ てやりたいような気がした……自分の力だけでは決して二度とは這 い上がれぬ、地獄の底へと突き落としてやりたい。
 ――夏川。僕が何故いまだに学校へ行こうとしないのか、おまえ はその理由を知っているか?それはおまえとマリエの噂話のせいだ よ。なんでも『ふたりは互いに深く愛しあっていて、若さゆえに引 き裂かれた』みたいなことになってるんだからな。おまえやマリエ の名前が教室の片隅で囁かれるたびに感じる、僕の屈辱感がおまえ にわかるか?僕はおまえなんかよりもマリエのことを深く愛してい たのに、マリエはおまえのことしか愛していなかったってことにな ってるんだよ。さぞや満足だろうな、おまえは。無様に泣いてる僕 を見下ろしながら、せいぜい喜ぶがいい。でもそれも第二の死が訪 れるまでのことなんだから……。
 僕はあの世で受ける、夏川の刑罰が厳しいものであることを願い、 奴が地獄の業火とやらで焼き尽されるところを想像しようとしたけ ど、結局できなかった。夏川とマリエの受ける刑罰が同じものであ るとするなら、当然ながら刑罰は軽いものであってもらわなくては 困るのだ。僕が神なら、マリエを救うために、夏川をも血の川から 救いださねばならぬことになるだろう。べつに夏川など、針の山で 串刺しになってようとどうだろうと一向に構わないのだが、天使の ようなマリエなら、きっとこう言うに違いないことが僕にはよくわ かっていた。
「あたしを救けてくれるのなら、夏川のことも助けてあげて」
 そして僕が、僕の救けてあげたいのは君だけだと言ったなら、君 はあの悲しい瞳でこう訴えるのだろう。
「そう……じゃあいいわ。夏川のことを助けてくれないというのな ら、あたしのことも放っておいて」
 わかってるよ、マリエ。僕は君がそんな娘だったからこそ、好き になったんだ。いつまでも変わらずに愛してる……たとえ君の魂が 海の彼方に沈んでしまったのだとしても。

      




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